第6章「仮面の下の涙を拭え」
第1話「遠き境界線」
聡子に肩を貸してもらい、ペテルとカミーラに助けられながら医務室へとやってきた基はを見た時、孝介は何ともいえない気持ちにさせられた。
限界に達してしまった百識がどういう状況になるかは、矢矯が限界を迎えた時を見ているので知っていた。血液中から《方》や《導》に変換できる微小タンパク質がなくなれば、貧血に似た症状が出て起き上がれなくなる。
だが基は、肩を借り、助けを必要としても、自分の足で歩いて帰ってきた。
「寝かせて」
女医もギョッとした顔をみせた。ただし、そんな表情はすぐに引っ込め、声を荒らげたりも極力、抑える。女医は中立でなければならない。顔見知りが死に瀕していようと、また死んでいようとも、対応はいつも通りが鉄則だ。
血中の《導》や《方》の素となる微小タンパク質は全て失っても致命的な症状が現れる訳ではないとされているが、青い顔をしている基が失ったものが、それだけであるとは思えない。
ベッドに寝かせ、詰め襟の胸を開く。
「補液の用意を」
看護師に指示を出し、外傷の確認と、心拍数、呼吸、血圧を測定を行う。短いとはいえない時間を共に従事してきた看護師は、女医の変化に気付いたかも知れない。だがビジネスライクを知っている看護師だ。
「はい」
手早く矢矯の時と同じ処置を用意する。
外傷はない。
それは意外でも何でもなく、今回のような人を殺す威力を備えたものを振り回す舞台では、半殺しの目に遭わされての勝利は皆無だからだ。重傷者は敗者か、さもなくば百識が暴れる舞台ではなく、命と道徳心を金に換えようとする一般人が上がる舞台だ。
「疲労からくる衰弱ですね。前のベクターさんと同じ」
女医は溜息を吐くように深呼吸した。《導》と《方》の使いすぎによるものだ。使い慣れていない事も重なっている。
――考えてみると、キャリアは数日でしたか。
女医が心中で呟いた。基が方を身に着けたのは、聡子によって生き返らされた時からだ。慣れているとはいい難く、それを努力だけでどうにかできたというのならば、図抜けているとしかいえない。
「助かります」
差し当たって顕在化している問題はない、と女医が判断すると、聡子はホッとしたように基の手を握った。
「……」
基は――もう声を出す余裕もなかった。苦手な注射のはずなのに、左手に針が刺さった感覚はあったが痛みに対してすら声を上げる事ができなかった。
「よくやった」
そんな基と聡子に、陽大が笑みと共に弾んだ声をかけた。面識らしい面識はないに等しい陽大であるが、同じく谷 孝司によって生け贄役とされた身の上だ。基と聡子に対しては、強い親近感を抱いていた。
「ありがとうございます」
基の手を握ったまま、聡子が陽大へ顔を上げた。自身の危機を救ってくれた陽大である。自分たちの先輩だという事が嘘でない事を分かっている。
「よかった、よかった」
真弓も無事に戻ってきた基に、握った拳を突き出して見せた。
乙矢も同じく。
また陽大の後輩ということもあり、弓削や神名も同様だったが、輪には入れずにいる者が一人。
孝介だ。
基と直接の面識がない事、また同じ教師に痛い目を見せられた訳でもない孝介は、基の生還を喜ぶ輪に入りにくい。
――繋がりがないから……。
だから遠慮してしまうと考えるが、首を横に振らされた。
――いや、そうじゃないな。
そうではないと自覚するのは、境遇だ。
陽大は生け贄役にされた事で陰湿なイジメを受け、ただ一回だけの反撃によって事故を起こしてしまった。奇しくも少年法の廃止と相まって、4人もの少年を死に至らせた殺人犯として裁かれた。
基も生け贄役として、一度は命を落とすところまで追い詰められた。
聡子も、こんな場所へ上げられた理由は、それだ。
――だからか。
孝介は思う。
何よりも大きいのは、3人とも「自分の意志ではない」という点だ。
孝介は自分の意志で舞台に上がった。命と道徳を金に換える事を選んだのだ。
他人の命を未だに奪っていないのは、姉が肩代わりしてくれたからだ。
――どうやって、顔向けするんだよ。
少なくとも孝介は、自分は陽大や基とは違うと思っているし、もっというならば3人を舞台に上げた側の人間に近いとまで思っている。
「……」
そんな孝介を、矢矯は横目で見ていた。朴念仁に分類されるであろう矢矯であるが、弟子が何を考えているかを察するくらいはできる。
――自己嫌悪しているか?
矢矯も、孝介が陽大や基と違う事は分かっている。とはいえ何もかもは把握できない。
「……行こうか」
矢矯がした事は、輪から離れている孝介の肩を叩き、病室から連れ出すくらいだ。
「心配ないだろう。あの子は無事に帰れるさ」
同様の状況でも矢矯は助かったが、基は助からないという事はない。舞台の闇医者に求められる最低限度の技術は、表の世界よりも高い。
ただ無事に帰れるという言葉に嘘はないが、孝介の心を軽くはできない。
「あ、はい」
孝介の返事は、足取りと同様に重かった。
そこから先は矢矯も分からない。
――気落ちしてるか。
その程度しか。
だが現実には、気落ちしているのは陽大たちに抱いている疎外感だけではない。
――ベクターさんも、俺が舞台に上げちまってる……。
能動的に舞台に上がっている訳ではないと感じているからだ。
矢矯の身体が無理に無茶を重ねているのを知っているだけに、一層、強く感じてしまう。
強烈な疎外感――この場への居心地の悪さだ。
「……どうした?」
足が止まっていた孝介を振り向いて、矢矯が訊ねた。
「あ、いえ!」
孝介は慌てて頭を振り、小走りに矢矯を追い掛けた。
「……」
矢矯は――少し深刻に考えたかも知れない。
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