第16話「春のうららの静と動」

 オープンテラスで軽食を楽しむには、いい季節だった。人工島は南国という程ではないが、南に位置している。夏の気温は36度に達するが、それ故に冬が短い。一足早く訪れた春は、オープンテラスで紅茶を楽しめる暖かな陽射しを向けてくれる。


 とは言え、北海道出身のともにとって、春先でも20度に達する気温は、過ごしやすいといえる気温ではないが。


「ふぅ……」


 額から落ちてくる汗をハンカチで拭い、手にしている本に落ちないようにする。手にしているのは海外作家のミステリーであるが、それは通りすがった者がちらりと見せても、内容を窺い知る事はできない。


 アルファベットが並んでいるのは原書だ。


 ――訳本は、訳者の思想、嗜好が加わってて、著者の意図が正確に伝わってこない。


 とは言え、母国語は日本語である那である。


 結局の所は原書の英語を日本語に翻訳して読んでいるのだから、著者の意図をストレートに感じ取る事はできない。


 しかし、どう言われようとも那は気にしないし、もし本当に言われたとすれば「恩は倍返し、仇は10倍返し」とうそぶいているとおり、相手から言われた言葉の10倍を言い返す。


 暑さで喉の渇きを覚え、アイスティーを口に運ぼうとしたところで、ハードカバーに栞を挟んで顔を上げる。


 駅前の時計は、午前10時を指していた。


「待ちましたか?」


 そこへ声をかけた小川は、丁度、午前中にお茶を飲むにはいい時間だ、というような顔を見せていた。


「10分くらい。でも少し早く来たのは、私の責任です」


 待った時間は自分の責任だという那へ、小川は「それは、どうも」と受け流しつつも、鼻白んだ。一言居士に会うのは初めてではない、寧ろ大多数の百識ひゃくしきが一言居士なのだが、那の扱いは一段と気を遣わされる。


 ――いわなければ損だといわんばかりだ。


 小川も直接、言葉にしてぶつけるような事はしない。



 那に存在しているのは、黙っていては損ではなく、「勝ち負け」だ。



 いい負かされたと感じる事を敗北と思っているから、黙っていられない。そこは小川でも分かる。ここで言葉を連ねれば、余計な衝突が生まれるだけだ。


 ――それはそれでも構わんといえば構わんが。


 北海道から招喚した時ほどの評価は、もう小川の中にはない。アヤと明津あくつはあっさりと矢矯やはぎに敗れた。海家かいけ涼月派すずきはは《導》に匹敵する驚異を持つ《方》を誇るが、治癒の《方》は攻撃には使えない。


 ――舞台の本質は殺し合いだ。治癒の《方》ではな……。


 そう思っても、小川は顔にも態度にも出さない。既に川下から話を受けているし、現実に他薦が動き始めている。代わりの百識を呼び寄せる時間は少ない。


 ――バッシュの復帰を待ってもいいが……。


 矢矯との戦闘で負傷したバッシュが復帰できるようになれば、バッシュをぶつけるのがいいが、バッシュの復帰はまだ不明だ。矢矯の腕と剣のお陰で、比較的治癒しやすいとはいえ、リハビリなしで舞台に上るのはギャンブルだ。


「票は順調に集まっています」


 小川が返信された封筒を示すが、那は興味がないという風に一瞥した。


 いや、興味がない訳はない。


 一瞥した理由は――、


「当たり前でしょう」


 仕掛けたのが自分なのだから、集まらない方がおかしいのだ。


「全員が全員とは言いませんけど、こういう相手には、いじめられても仕方のない理由があるものです」


 それを突いたのだから、聡子が選ばれるのは当然だ、と那は断言した。谷が作り上げた39/40のユートピアというシステムは知らないが、担任の給食に異物混入するような基と同じだと考えれば、いくらでも嫌われる理由はある――それが那の単純に完結した思考だった。


 那が何を考えているかは、小川にも分からない。


 しかし何も言わずに沈黙していては間が持たない。


「まぁ、鳥打とりうちと連んでいる時点で、釣りやすいでしょうけどね」


 小川もやはり一言居士だった。想定内というのならば、小川が立てた算段もある、と言わずにはいられない。


 そして名に対し、一言でも付け加える事は、強い反発を意味する。


「上から言ってくれますね」


「……は?」


 那からの言葉に、小川は眉を顰め、目を瞬かせられる。


 ――上から?


 小川にそんな自覚はなかったのだが、那はフンと強く、そして不満げに鼻息を荒らげ、



「まぁ、でしょうけどねっていい方です」



 それは単なる口調だけの事だが、那には強く癪に障るのだ。


「小川さんは、そんなに斬新な、画期的な意見を事をいいましたか?」


「いや……」


 言い淀む小川は、当然「こんな事で?」と面食らっていた。


 ――いや、反論するな。


 ややこしい事になるのは間違いない。


「今後、気をつけます。いってくれて、助かりました」


 それは小川の精一杯の言葉であったが、那はアイスティーを口に運んだ後、


「気をつけて下さい。社会に出たら、気を遣いすぎるくらいで丁度いいんですから」


 ただ小川は、苦笑いしそうになってしまう。


 ――大学生じゃなかったか?


 こういう言葉で社会常識を語られるとは思っていなかった。





 そんな頃、大学生に狙われた同級生を守るため、南県で過ごしている小学生はと言うと――、


「1234……5ッ!」


 数えながら走っているのは、連続して生えている切り株だった。


 切り株、階段、そして井桁を走り抜けながら、基は歩数を数えていた。



 翌日、人工島へと帰って行く聡子たちを見送った後、清が連れてきたのは自然公園のアスレチックコースだった。



 ――走れ。


 清が基に求めたのは、昨日とは逆に、身体を動かす事。アスレチックコースの全コースを全身を使って駆け抜けてこいと言った。


 ただし、何も考えずに走るのではない。


 ――あの切り株を踏むのは右足、ゴールのプレートは……左!



 一歩でどれだけの距離を走れるか、ゴールまでに必要な歩数は何歩か、スピードはどれくらい出ているか――それを考え、感じ取りながら走れと清は基に命じた。



 その訓練は、矢矯が孝介や仁和に教えた事と趣旨は同じだ。


 基の持つ強い感知の《方》を、確実に自分のものにするため。


 ――鳥打くんは、身体操作や身体強化の《方》を持っていない。身体を動かす術は、身体を鍛える以外にない。


 短期間で基が急成長するとは思っていないが、化ける可能性はあると清は考えていた。


 そのために、今は使った事のない筋肉を目覚めさせる事に集中していた。


「よし、いいぞ!」


 声をかけるのだから、勿論、清も共に走って汗を掻いている。基の体力は同世代の子供よりも劣っているように感じられるが、心根は――責任感の強さは、寧ろ同世代よりも強い。そこに清は成長の可能性を見ている。


 ――平衡感覚が優れてるな。これならば、案外、早く実技には入れるやも知れん。


 切り株を一歩、一歩、慎重に歩く事は誰にでもできるが、飛び跳ねていく事は簡単ではない。


 それは感知の《方》が強い証拠でもあるが、跳躍して体勢を保てるのは平衡感覚が優れている証拠である。


 自分がどこを向いているか、どういう状態にいるかを知る感覚が優れている事は、武道では大きなアドバンテージになる。


 ターザンロープに掴まり、雲梯うんていを超え、ロープネットと木製の足場を昇ったところで、基はゴールを示す鐘を打ち鳴らした。


「よーし!」


 ストップウォッチを止める清だったが、タイム自体は問題視していない。このアスレチックコースで、基の優れた点を探す事こそが主眼だった。


「君は、基礎的な事は身についているようじゃ。伸ばさなければならないところもあるが、進むべき道は分かったぞ」


 清は――、


「攻撃の手段と、そして……」


 声を潜める。



「儂の《導》を見せよう」



 2日目だが、清の見極めは6割は終了した。

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