第10話「足音、足跡」
川下は基を舞台へと送り込んだが、スタンドで観戦する権利はなかった。
あの観客席に座れるのは、ある種の特権階級であるし、小川もクライアントをスタンドへ呼ぶ危険は身に染みて分かっていた。
――人質に取られるなんて、最悪だ。
弓削が取った
阻止するのは簡単な話で、川下を呼ばなければいい、と判断した。
ただし「はい、約束通り舞台に上げました」と伝えるだけでは済ましていない。
――斬られたのに。
川下は小川から見せられた、ルゥウシェの初太刀で腕を断たれた基の画像を思い出していた。舞台には専属の医師もいるとも聞いている。殺されたとは思っていないため、斬り落とされた腕は縫合でもされたのだろうと思っている。
基の変化は明白だった。
――やっと無意味な反抗を止めたか。
川下からは基が無断早退を止めた理由は、そうだと映っていた。
不要な者と断じられている事を受け入れたのだ、と。
ただし心が折れた訳ではないとも思っている。
――別クラスの女子に甲斐甲斐しく媚びを売れば、自分は助けてもらえるとか、甘いのよ。
川下の考えている基が聡子と接触した理由だ。
他クラスの生け贄役を選んだのは偶然であり、気が弱く見える聡子だから近づきやすいと判断した程度に過ぎないと思うのは、川下にとっては聡子も基も「劣った者」だからだ。
短絡的で
そうして川下が待っているのは、基の時と同じく小川だ。
あの夜と同じショットバー、同じ席、同じミルクをテーブルに載せ、川下は小川を待っていた。
時計へ何度も視線を行き来させるのだが、小川は遅刻していない。待ち時間が長くなっている理由は、川下が早く来すぎたせいだ。
――何か、食べるものがあればいいんだけど。
小腹が空いた感覚に腹部へ手をやると、一瞬、胎内の子供が蹴ってきた。
「ふふ……」
思わず笑みがこぼれてしまう。基が殺そうとした赤ん坊――事実は違うが、川下にとっては真実だ――は、順調に育っている。基の件は数日の無断欠席の後、無断早退を止めさせた事で谷の評価は繋ぎ止められた。
――待っててね。お母さん、絶対に負けない。
目立ってきた腹を撫でながら、川下は谷からの信用を確固たるものにするため、小川を呼んだ。
何度目か、もう数えるのもいやなかった位の回数になってしまう腕時計の確認が終わった所で、ショットバーのドアベルが鳴らされた。
「!」
川下が顔を向けると、そこには小川と、もう一人、見慣れない女が一緒だった。
――ルーシェさんじゃない?
思わず
「すみません。待たせてしまいましたか?」
待ち合わせていた時刻丁度ではなかった。遅刻は、5分だ。
「いいえ、大丈夫です。待ったのは、私が少し早く来すぎていたからです」
立ち上がって頭を下げようとする川下であったが、小川は「そのままで」で手を上下させ、座っていろとジェスチャーを交えて伝えた。
「すみません」
座り直す川下。視線は小川が連れている女へと向いていた。
「ルーシェさんじゃないんですね」
「ええ。ルーシェさんは、もう他の準備に入っていますから。その代わり――」
小川が身を引いて、女を川下に紹介した。
「
那が名乗ると共に一礼した。
「
また腰を浮かしかける川下であったが、那が先回りする。
「お腹の子に障ります。着席したままで」
そう言って那は適当な位置に座った。
「涼月さんが、次に力を貸してくれる百識です。
「六家二十三派」
この言葉には安心させられる、と川下は感じている。基をやり込めてくれたのはルゥウシェであるが、同じく百識の頂点だと言うのならば実力には間違いがない。
「鳥打 基が戻ってきたでしょう?」
話を切り出した小川の口調には、苦みが滲んでいた。本当であれば、死体の写真も見せるところだった。
しかし川下は、殺された事は知らない。また、もし基が殺されていたならば、川下の運命は絶望的なものになっていたはずだ。川下のクラスは生け贄役がいなくなり、統制が取れなくなっていた可能性さえある。
「はい。でも、あれ以来、鳥打は無断早退をしなくなりました。よくなりましたよ」
川下が声を弾ませているのを聞いて、小川は「そうですか」と笑みを作った。
思いがけない幸運だった。
小川にとっては、基の生還はチョンボなのだ。
しかしクライアントの川下は丁度良かったと言う。ならば、失敗は完全に隠せる。
「しかし、また問題が?」
新たな話題を切り出すと、川下は「そうなんです」と鞄の中から児童名簿を取りだした。持ち出し禁止のマークがあるが、知った事ではない。谷の許可は受けている。
「この女子児童です」
名簿を開き、本筈聡子の名前を指差す。
「!」
那の目がつり上がった。
――こいつ……。
目を吊り上げたまま、那が小川を見遣る。
もう既に、那が医療の《導》を使える可能性がある、と言う話は、聞いている者が出始める段階に来ていた。
「鳥打が復帰してから、やたらと構っている女子児童です。こいつと――」
一瞬、言葉に詰まった。
松嶋小学校に生け贄役などという生徒がいる事は、外部に知られては鳴らない秘密だ。
――これは、言えない。
川下は言葉を飲み込むが、詰まらせはしない。
「鳥打と分断させるためにも、そんな赤ちゃん殺しの男とは一緒にいてはならない。一緒にいるから罰せられる、と教えなければならないんです」
「なるほど」
小川は頷き、前回と同じように封書を手渡そうとするが、それは那がやった。
「以前も、同じ事をされましたね? 同じ事です」
那にとっては、川下の事情など関係ない。
小川が用意してくれた噛ませ犬が、最近、話題になった医療の《導》を持つ聡子だったと言うだけで十分だ。
そして川下は望んでいないのかも知れないが、聡子は舞台で命を散らせる事になる。
「はい、大丈夫です」
その時、川下は主語を省略すべきではなかった。
大丈夫とは、様々な解釈ができる言葉だ。
そして那は、自分の都合のいいように理解する事にかけては、アヤや明津よりも優れている。
――どうなっても大丈夫ね。言質を取ったわよ。
口元に軽い笑み。治癒の《方》を使う那が、医療の《導》を滅ぼすなど、最高の巡り合わせではないか。
「すべからく」
那はそう言うと、席を立った。
「仕事は迅速に。私のモットーです」
お先に失礼しますとは言わなかった。
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