第5話「声を出せない自分たち。声帯のないウサギ」
部屋を一つ二つ挟んだだけの場所で、基は混乱していた。
――私の……手下になって……。
聡子の言葉は衝撃的ではあったが、言葉ばかりが混乱する理由にはならない。
――僕は? ここは?
ルゥウシェの《導》によって惨殺されたはずが、この世に戻ってきた事が大きい。
次に基の身体を覆っている、妙な気配だ。
その気配は、ある意味、生き返った事よりも深く基を混乱させてくる。
目を向けていないのに、周囲の景色が基の中へ入り込もうとしてくるのだ。
基は部屋を一望していないが、窓がない事が分かる。
寝かされていたベッドは、シーツが掛けられた程度の簡素なものであるが、ストレッチャー機能がついているというのも分かってしまう。
メガネのメーカなど知りはしない基だが、聡子がかけているメガネのヒンジとテンプルの継ぎ目に、筆記体のbが意匠されている事も。
――止めろ!
パンクしそうになると頭を抱えると、不意にその気配は消え失せた。
それも混乱の元であるが、今の今まで基を覆っていた気配が聡子の言葉を蘇らせる。
――私の……手下になって……。
しかし聡子が何を思い、何を考えて口にした言葉なのかが分かったのは、そんな感覚ではなく、基の記憶が教えてくれた。
――僕と同じ……。
名前を知っていたのは偶然とも言えるし、必然でもある。同じくクラスの不満を一身に浴びている存在だ。あらゆる意味で目立ってしまう。全児童600人、30クラスの松嶋小学校には30人の生け贄役がいるのだから、互いに友達ではなくとも名前くらいは知っている相手が存在する。
それでも今まで友達ではなかったのは、団結できない者が共通して選ばれてきたからだ。
今、聡子が口にした言葉は、内容は兎も角、生け贄役が初めて口にした言葉だった。
それを口にするために、どれだけの気持ちが必要であったか、それを基は悟れた。先程まで身体に張り付いていた気配が、聡子の額から頬へと流れ落ちる汗や、目に浮かんでいる涙を感じ取らせていた。
友達になって、と言えればよかった。
聡子も口にしてから気付いたが、一度でも口に出した事は取り消せない――そう思ってしまうから、生け贄役に選ばれた。
しかし効いた基には、拒絶の言葉よりも先に、胸中に蘇ってくるものがある。
――だから私は、もし自分が一生懸命になろうって思った人と出会ったら、一生懸命になろうって決めたの。
真弓の微笑みだ。
今、聡子は震える声で、必死に、一生懸命、言葉を紡いだ。
それが基のためなのか、それとも自分のためだけなのか、それは分からない。
しかし基にも、裏を読もうとする態度がない。
――ぎしんあんき? そうだ、疑心暗鬼になって拒否する事を、みんな、望んでるんじゃないか。
それを望んでいるのは、基の側に立ってくれる人間ではない。
――僕は、王子様には程遠いけれど、目の前に来てくれた人を、拒絶しない。
ただし、それで何もかもが変わればいいが、変化は少ない。
小屋に住む小さなウサギたちは、少し変わったが。
掃除道具を持っている児童が、一人から二人に変わった。
「……」
基は箒で掃きながら、ひょいひょいとステップを踏むように足を進めていく。ウサギを追い立てる形になるが、決してウサギも嫌がってはいない。
「はは」
基が笑うのは、ウサギも遊んでもらっているような雰囲気になっているからだ。サボってもいない。掃除が主だ。
しかしステップを踏んでいると、突然、後ろから羽交い締めにされる。
「!?」
何だと目を白黒させる基が振り返ると、聡子が箒を放り出して基の身体を押さえていた。聡子が基を押さえつけたのは、下がろうとした瞬間だった。不意を突かれた形になり、倒れ込まなかったのは幸運だ。
聡子とて何もなければ抑えつけるような真似はしないのだから、大事な何かがあったという事だ。
「足下、気をつけて」
聡子が顎で指すのは、下がろうとした基の足下にいたウサギだ。
「何だって?」
基は素っ頓狂な声を出していた。聡子は踏みそうになったように見えたのだが、基は靴一足分の隙間があるように思えてしまっていた。
それに対する反論は――、
「ウサギは、声があげられないの。踏まれて怪我をしても、助けてって言えないの」
聡子に対し、できない。
声を出せないウサギは、否応なく自分たち生け贄役を思い出させてしまうではないか。
「ごめん。気をつけるよ」
屈み込む基は、踏みそうになったウサギを抱き上げて、「あっちへね」と放した。
「気をつけて……」
また聡子は、言ってから後悔した。不要な一言だった。言われなくとも、基は気をつける。
「うん、ごめん」
ただ基からは、相変わらず反論はない。
――ならなきゃ、一生懸命だ。
それが基の足を支えている。基を救っているし、聡子も救っている。
「……ありがとう」
箒を手に取りながら、聡子は言った。
返事はなかったが、掃除は辛くなくなった。
見ているウサギは何も思うまい。
見て何かを思うのは人間だけで、その時、面白くないと感じている者が見ていた。
「何? あれ……」
「キモ……」
基のクラスと聡子のクラスの、括弧書きで「中心人物」と呼ばれるような児童たちだ。
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