第5章「君が唄う、悲しみのサーバント」

第1話「聡子の冒険」

 母の「職場」に来る事は禁じられている。


 曰く子供がウロチョロしていい所ではない。


 ――子供がいていい仕事場なんて、あるわけないけど……。


 本筈もとはず聡子さとこが母親の軽自動車に隠れたのは、遠くへ行きたかったからだ。


 どこでもいい訳ではない。


 誰の下へでもいい訳でもない。



 ただ、遠くへ行きたかった。



 今朝の朝礼で、校長のたに 孝司こうじは、鳥打とりうち はじめが行方不明になった事を告げた。この後の教室では、基を川下の皿に異物混入した犯人扱いしない事を告げてから、まだ一週間と経っていない事もあり、皆、無責任な事を熟々つらつらと話していた。


 耳に入れたい話ではなかった。



 見てきたような嘘を言う――その言葉通りだったのだから。



 曰く「万引きの常習犯」――。


 曰く「警察にバレた」――。


 曰く「逮捕されたけど、親が泣きついて隠している」――。


 最後の方は尾ひれのついた噂どころか、背びれも胸びれもついているのだが、最初の一つだけは本当だ。例え、クラスメートにやらされている事だったとしても。


 しかし聡子が知るはずのない情報であるから、耳を覆いたくなる罵詈雑言である事に変わりはない。


 ――嘘ばっかり。


 怒鳴り散らす事もできた。


 しかし聡子は選ばなかった。


 言っても無駄だと分かっていたからだ。学校外で基が何をしていたかなど知る術などないはずなのに、面白おかしく語るクラスメートだ。言えば2倍も3倍も言い返されるに決まっている。


 ただ、それを他人事と感じられないのが、聡子の悪い所だ。



 他人事と感じられるならば、聡子も生け贄役になど選ばれなかった。



 他人事と感じられないのだから、クラスメートの嘲笑から聡子が思い浮かべるのは、自分の未来だ。


 ――どこにも逃げ場なんてない……。


 逃げれば、逃げた事をネタにされるだけだ。


 それでも遠くへ行きたかった。母親の運転する軽自動車のトランクスペースに身を隠しながら、聡子はクマとネコのぬいぐるみを抱きしめていた。


 母親の「職場」がどこで、何をしているのかを知っている訳ではなかった。薄暗い地下駐車場へ入って停止し、母親が下りた所でこっそり車外へ出た。


「スタジアムの地下でしょうか」


 人の姿を取ったペテルが周囲を見回しながら、走ってきた方向と、今、自分たちのいる雰囲気から推測した。


「客用じゃなく、関係者用の方?」


 カミーラが目を向けた先には、素っ気ない案内板があった。もし観客のために整備された所であれば、もっと分かり易い案内板が立てられているはずだ。壁や天井に走るパイプが露出したままになっているのも、関係者が車を停めるだけの場所である事を示している。


「……」


 母親の姿を探して視線を巡らせる聡子であったが、見つけたのはペテルが早かった。


「あちらですね」


 身を隠しながら、ペテルは足音を響かせて歩いて行く母親の姿を指した。


「行きましょうか」


 そう言うと、カミーラがひょいと聡子を抱き上げた。こんな地下であるから、足音を響かせずに歩くのは、聡子には無理だ。





 母親からつかず離れずの距離を保ってついて行くと、向かった先に掲げられているプレートは医務室だった。


 医務室――聡子の母親こそが、舞台に上がった百識を看ている女医だ。


「……点滴」


 医務室に入った女医は「この程度なら呼ぶな」とでも言うように溜息を吐いた。


 室内にいたのは、孝介こうすけ仁和にな矢矯やはぎの三人だが、その誰もが治療を必要としていなかった。強いて言うならば、ベットに寝かされている矢矯には点滴くらいが必要なだけだ。


「……は」


 横たわったまま、矢矯が口の端を吊り上げた。


「経口補給液にしましょうか?」


 その態度に女医が目を細めるが、矢矯も馬鹿にした訳ではない。


「思った程、悪くなかったからです。助かります」


 声に力がなかった。超時空ちょうじくう戦斗砕せんとうさいは矢矯の全てを消費してしまう。これ以上、《方》を発生させられない程になれば、貧血に似た症状が出る。《方》の素となるのは微小タンパク質であるから、どれだけ血中濃度が低下しても身体に致命的な症状は出ないのが救いだろう。


「他の二人は、逃げ回ってただけ?」


 衣装が薄汚れているだけにしか見えない、と言う女医の言葉は、真実であるだけに厳しく孝介と仁和に突き刺さった。


 ――死んでた。


 その自覚が仁和にはある。アヤの《導》が尽きるのを待つという選択肢は失敗だった。そう簡単に尽きるはずがない。寧ろ孝介と仁和の《方》が、30分と保たずに尽きていた。


 矢矯とて、絶対の自信があって発動させた《方》ではなかった。


 ――ギャンブルさせちまったのは、俺たちの不甲斐なさだな。


 孝介は矢矯が凄腕ギャンブラーだとは思わない。確かに超時空戦斗砕は強力な攻撃ではあるが、もしアヤと明津が逃避を選択していれば、二人を斬る事ができたかどうか怪しいものだ。


 ――ベクターさんの事だから、一人は斬っただろうけど。それでも、あのどっちかを、俺と姉さんで無力化できたか?


 不可能だったと言う事だけは、自信を持って――持ちたくないが――言える。


 アヤが残っていれば、あの《導》をどう対処していいか分からない。


 明津が残っていれば、電装剣でんそうけんで繰り出される剣技に対抗できる技を持っているとは言い難い。


 孝介と仁和は殺され、戦闘不能になった矢矯も屍を晒していたはずだ。


 孝介も仁和も、これは実質的な敗北であると言う気持ちがあった。矢矯は師だ。頼ってばかりはいられない。


 チームメイトとは一線を画す……と思っている事は、顔に出ていた。


「……勝ったのだから、胸を張りなさい」


 女医がまた口を挟んで来た。


「ベクターさんがいたから勝てた。それでいいでしょう。勝って命を繋げられたのに、何を失ったんですか?」


 何も失っていないはずだと言いながら、女医はドンッと孝介と仁和の胸を叩いた。


「失ったものは何もない。得たものは経験。次があるなら、次は無様と思わなくて済むようになさい」





「……」


 そんな母親の姿は、聡子も初めて見た。ここでも医師の仕事をしているのだとも見えるのだが、そこは百識の娘である聡子である。


 ――ここにいちゃ、ダメな気がする。


 抱きかかえられているカミーラの手を叩き、


「行こう」


 離れよう、と耳打ちした。


「そうですね。誰か来ますし」


 カミーラがそばだてていた耳に、数人の足音が聞こえてきていた。


「どこか、人の気配のしない部屋へ隠れましょう」


 ペテルはそう言うと、廊下を一瞥する。


 気配のない部屋は――ひとつだけだ。


「あちらへ」


 その部屋は、安土が数日前から任されている仕事が放置されている部屋。



 つまり、基が眠っている部屋だ。



 それは何の皮肉だったのだろうか?

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