第5章「君が唄う、悲しみのサーバント」
第1話「聡子の冒険」
母の「職場」に来る事は禁じられている。
曰く子供がウロチョロしていい所ではない。
――子供がいていい仕事場なんて、あるわけないけど……。
どこでもいい訳ではない。
誰の下へでもいい訳でもない。
ただ、遠くへ行きたかった。
今朝の朝礼で、校長の
耳に入れたい話ではなかった。
見てきたような嘘を言う――その言葉通りだったのだから。
曰く「万引きの常習犯」――。
曰く「警察にバレた」――。
曰く「逮捕されたけど、親が泣きついて隠している」――。
最後の方は尾ひれのついた噂どころか、背びれも胸びれもついているのだが、最初の一つだけは本当だ。例え、クラスメートにやらされている事だったとしても。
しかし聡子が知るはずのない情報であるから、耳を覆いたくなる罵詈雑言である事に変わりはない。
――嘘ばっかり。
怒鳴り散らす事もできた。
しかし聡子は選ばなかった。
言っても無駄だと分かっていたからだ。学校外で基が何をしていたかなど知る術などないはずなのに、面白おかしく語るクラスメートだ。言えば2倍も3倍も言い返されるに決まっている。
ただ、それを他人事と感じられないのが、聡子の悪い所だ。
他人事と感じられるならば、聡子も生け贄役になど選ばれなかった。
他人事と感じられないのだから、クラスメートの嘲笑から聡子が思い浮かべるのは、自分の未来だ。
――どこにも逃げ場なんてない……。
逃げれば、逃げた事をネタにされるだけだ。
それでも遠くへ行きたかった。母親の運転する軽自動車のトランクスペースに身を隠しながら、聡子はクマとネコのぬいぐるみを抱きしめていた。
母親の「職場」がどこで、何をしているのかを知っている訳ではなかった。薄暗い地下駐車場へ入って停止し、母親が下りた所でこっそり車外へ出た。
「スタジアムの地下でしょうか」
人の姿を取ったペテルが周囲を見回しながら、走ってきた方向と、今、自分たちのいる雰囲気から推測した。
「客用じゃなく、関係者用の方?」
カミーラが目を向けた先には、素っ気ない案内板があった。もし観客のために整備された所であれば、もっと分かり易い案内板が立てられているはずだ。壁や天井に走るパイプが露出したままになっているのも、関係者が車を停めるだけの場所である事を示している。
「……」
母親の姿を探して視線を巡らせる聡子であったが、見つけたのはペテルが早かった。
「あちらですね」
身を隠しながら、ペテルは足音を響かせて歩いて行く母親の姿を指した。
「行きましょうか」
そう言うと、カミーラがひょいと聡子を抱き上げた。こんな地下であるから、足音を響かせずに歩くのは、聡子には無理だ。
母親からつかず離れずの距離を保ってついて行くと、向かった先に掲げられているプレートは医務室だった。
医務室――聡子の母親こそが、舞台に上がった百識を看ている女医だ。
「……点滴」
医務室に入った女医は「この程度なら呼ぶな」とでも言うように溜息を吐いた。
室内にいたのは、
「……は」
横たわったまま、矢矯が口の端を吊り上げた。
「経口補給液にしましょうか?」
その態度に女医が目を細めるが、矢矯も馬鹿にした訳ではない。
「思った程、悪くなかったからです。助かります」
声に力がなかった。
「他の二人は、逃げ回ってただけ?」
衣装が薄汚れているだけにしか見えない、と言う女医の言葉は、真実であるだけに厳しく孝介と仁和に突き刺さった。
――死んでた。
その自覚が仁和にはある。アヤの《導》が尽きるのを待つという選択肢は失敗だった。そう簡単に尽きるはずがない。寧ろ孝介と仁和の《方》が、30分と保たずに尽きていた。
矢矯とて、絶対の自信があって発動させた《方》ではなかった。
――ギャンブルさせちまったのは、俺たちの不甲斐なさだな。
孝介は矢矯が凄腕ギャンブラーだとは思わない。確かに超時空戦斗砕は強力な攻撃ではあるが、もしアヤと明津が逃避を選択していれば、二人を斬る事ができたかどうか怪しいものだ。
――ベクターさんの事だから、一人は斬っただろうけど。それでも、あのどっちかを、俺と姉さんで無力化できたか?
不可能だったと言う事だけは、自信を持って――持ちたくないが――言える。
アヤが残っていれば、あの《導》をどう対処していいか分からない。
明津が残っていれば、
孝介と仁和は殺され、戦闘不能になった矢矯も屍を晒していたはずだ。
孝介も仁和も、これは実質的な敗北であると言う気持ちがあった。矢矯は師だ。頼ってばかりはいられない。
チームメイトとは一線を画す……と思っている事は、顔に出ていた。
「……勝ったのだから、胸を張りなさい」
女医がまた口を挟んで来た。
「ベクターさんがいたから勝てた。それでいいでしょう。勝って命を繋げられたのに、何を失ったんですか?」
何も失っていないはずだと言いながら、女医はドンッと孝介と仁和の胸を叩いた。
「失ったものは何もない。得たものは経験。次があるなら、次は無様と思わなくて済むようになさい」
「……」
そんな母親の姿は、聡子も初めて見た。ここでも医師の仕事をしているのだとも見えるのだが、そこは百識の娘である聡子である。
――ここにいちゃ、ダメな気がする。
抱きかかえられているカミーラの手を叩き、
「行こう」
離れよう、と耳打ちした。
「そうですね。誰か来ますし」
カミーラが
「どこか、人の気配のしない部屋へ隠れましょう」
ペテルはそう言うと、廊下を一瞥する。
気配のない部屋は――ひとつだけだ。
「あちらへ」
その部屋は、安土が数日前から任されている仕事が放置されている部屋。
つまり、基が眠っている部屋だ。
それは何の皮肉だったのだろうか?
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