第12話「楽園への侵略者」

 乙矢おとやはじめの叔母と名乗ったが、それをいぶかしく思わなかった者はいなかった。乙矢と基の名字が違う事、年齢差、あまりにも似ていない顔など、二人の関係を疑う余地は幾らでもあった。


「叔母さん……?」


 対応に出た若手教員は、何度も視線を往復させていた。


 口から出任せだという事を分かっている基は、心配と不安とを顔に出してしまうのだが、乙矢は肘で脇を軽く突いて黙らせる。


「はい」


 当然だという顔をするのは、本業で培ったものだ。ぼんやりとした不安を抱えている客を前に、占い師までもが自信のない顔をしていては問題が解決しない。


 だが今の状況と仕事とでは違いすぎる。


「……」


 教員が訝しげな顔を止めない。基の境遇は学校全体で共有している。身内が乗り込んできたからと言って、そう易々と責任者を出していてはこのユートピアを支える根幹部分が崩壊する。


「ちちんぷいぷい――」


 そんな若手教師を前に、乙矢は指で円を描くようにクルクルと動かした。もし百識ひゃくしきであったならば、そこで乙矢にただならない雰囲気を感じ取ったかも知れない。クルクルと回転させている指先に、何かを感じただろうから。


 しかし《方》かと言えば、そうではない。


「ビビデ・バビデ・ブゥ」


 そのまま指を鳴らした時、パッと散ったのは《導》でもない。


 しかし指の音と共に、若手教師は「少々、お待ちください」と席を立った。


「上手く行きそうね」


 接客用のソファーに座り直した乙矢は、基へと目配せした。



 上手く行く――校長へ話が行くだけでなく、乙矢の目論見が、だ。



 事実、ややあって主任クラスの教師がやって来た。


「お待たせしました。お会いになるそうです」


 モヤモヤモする言い方をする教師だと乙矢は感じた。「会う」は敬語、尊敬語、謙譲語が似ているが、この場合は「お目にかかりたいそうです」と言うべきシーンだ。


「ありがとうございます」


 乙矢に、その程度の事を指摘する気はなく、基を連れてソファーから立ち上がったが。


「心配そうな顔をせずに、真っ直ぐに相手を見てなさい。こう言う事をする人は、真っ直ぐ見られる事が苦手だから」


 校長室へと行く道々、乙矢は基にだけ聞こえる小声で、そう告げた。


 相手が望んでいる事は、下から見上げてくる事。


 相手が怒り出す事は、上から見下ろされる事。



 だが相手が苦手としている事は、真っ直ぐに対等な位置から見据えてくる事だ。



 校長室へと教師が案内する事とて異常な事だ。確かに校長と一般教員の間には、上司と部下という関係が存在しているが、それは身分の差ではない。それを、王侯貴族の如く部下を使う事が常識になっているとすれば、これは「教育委員会の目が届かない所で好き勝手やっている」という事になる。


 ――楽そうね。


 校長室の扉の前に立った乙矢は、そう思った。自分が頭脳明晰ずのうめいせきだとは思っていないが、それでもたに 孝司こうじが頭の悪い男だという事は想像に易い。


 ――こんな理想郷を生み出した事は、頭が良いと言うより、狡賢ずるがしこい部類でしょうね。


 重厚な扉の向こうは、絨毯じゅうたんの敷かれた空間だった。


 南向きの窓を背後に、オフィス机ではない豪華な机があり、部屋の左右に本棚が並ぶ。


 その途中に優勝旗やトロフィーが置かれたスペースがあり、そんな物に囲まれて革張りのソファーセットがあった。


 案内してきた教師は一礼してからドアを開け、ドアを開けてからも一礼した。


「お連れしました」


 深々と頭を下げているのは、谷校長へ対する畏敬の念だけではない。



 歓迎されない客を連れてきてしまった事で、谷校長の顔をまともに見れないからだ。



「どうぞ、こちらへ」


 内心はどう思っているか分からないが、谷校長は案内役を下がらせた後、にこやかな顔でデスクからソファーセットの方へ移動した。


「基の叔母で、乙矢おとや葉月はづきと申します」


たに 孝司こうじです」


 形ばかりの挨拶をした後、乙矢はできるだけ穏やかに切り出す。


「先日、甥が担任の先生の給食に、何かを入れたと――」


 言葉が一瞬、切られる。穏やかなのは、ここまでだ。



「濡れ衣を着せられました」



 これはハッキリと主張する必要がある。


 基は何もしておらず、担任も生徒もグルになって袋叩きにしたのだ、と強い気持ちを込めて言葉にする。


「濡れ衣……ですか?」


 谷校長の顔色も変わった。基が生け贄役である事を、元締めが知らないはずがない。


「担任の川下先生からは、複数の生徒が証言した、と聞きましたが」


 てっきり謝罪しに来たと思っていた谷校長は、ソファーの背もたれに体重を預けるように座り直した。当然、二人を見下す体勢になるのだが、それは早々に出現した谷校長の「隙」だった。


「これ、学校裏サイトのログです。ここに犯行声明が書き込まれていました」


 乙矢は鞄の中から、真弓が探ってくれた情報をプリントアウトした用紙を出す。


「犯行声明の書き込みが行われた端末は、スマートフォン。機種も特定できます。基はスマートフォンを持っていませんし、家族が持っているものとも機種が食い違います」


「……」


 谷校長も、理路整然と並べられた言葉と情報は無視できなかった。


「犯行声明を書いた生徒は、基ではない事を示しています」


「それは……」


 谷校長が言葉に詰まる。


 ――好機ね。


 乙矢は続けた。


「また、犯行声明を書き込んだものと、同じ端末で書き込まれたコメントを抽出すると、自宅のWi-Fiで書き込まれたものもあります。契約プロバイダも、基の自宅のものとは違います」


 一気呵成いっきかせいに言った後、少しだけ間を置く。


「それは――」


 谷校長が口を開いたが、開いた瞬間だけは声が小さくなる。


「犯人がいるかも知れない教室で、無記名でアンケートを採れば、陥れようとする者が必ずいるはずです。こう言う、卑怯な事をする相手なんですから」


 谷校長の声を遮る事は容易だった。


「そんなアンケートを根拠に、私の甥を犯人と決めつけ、断罪しようとした事――」


 そして声を遮った次は、声を荒らげる番だ。



「私は、悪質なイジメだと断言します」



 教師と生徒がグルになったイジメ――立派な不祥事だ。


「それは……」


 また谷校長の声が小さくなった。


 乙矢にとっては、急所を晒したに等しい。


「プロバイダへ情報開示請求を行えば、誰の自宅か特定する事ができるはずです。警察に通報を」


「それは、川下先生も望んでいない事なので……ここは、穏便に……」


 警察の介入は、学校としては絶対に避けるべき事だ。


 教育現場は治外法権とは言わないが、暴力装置と言う顔を持っている警察を介入させる事は、教育に対する悪影響が大きい。


 避けるしかない。


 しかし避けようがない事実を、乙矢は突きつけられる。


「異物混入が、この犯行声明通りだとすれば、立派な傷害罪です」


 傷害罪は――、


「非親告罪ですよ」


 容疑者とされている基がいる以上、乙矢は警察へ駆け込む事ができるのだ。


「!」


 谷校長が思わず腰を上げた。



 警察の手が入る――それを怖れている。



 谷校長が築いた39/40のユートピアは、必ず生け贄役を必要とする。


 警察の手が入れば、全てではないにしろ、露見してしまう。



 阻止しなければならない。



 しかし乙矢によって今、全ての脱出口を断たれてしまった。


「あの……乙矢さん?」


 谷校長の口調から、強い気配は消えていた。


「はい」


 乙矢が口調を静かなものに戻すと、少し空気が緩む。


 緩むが、それも乙矢がコントロールした結果である。


「もう一度、校内で調査します。その結果を、精査してもらえないでしょうか?」


 コントロールされている状況であるから、乙矢にとって谷校長の言葉は予想通り。


 ――もう一度、校内で調査させていただきます。その結果をご精査下さい、って言うのが正しい日本語じゃないかしら?


 軽く嘲笑を浮かべそうになるのだが、乙矢は嘲笑だけは浮かべない。


「では、書面でいただけますか?」


 逃がす訳にはいかないと畳みかける。


「基が犯人とは言えない事と、間違って犯人扱いした事に対する謝罪。それを全校朝礼で伝達する事。一人の人間の将来と命がかかっている問題で、軽挙妄動けいきょもうどうは許されない、と。全て担任の川下先生と責任者である谷校長が、署名と捺印したものを用意して下さい。二通作成し、お互いが持つ」


 それは谷校長にとって、汚点を残せという事だ。例え紙切れ一枚であろうとも、外部へ発送する書類は正式な決裁を必要とするのが日本の役所なのだから。


 拒否は――できない。


「は、はい……」


「本日中にお願いしましたよ」


 乙矢の予定通りになった。


「では、失礼します。基は、今日は連れて帰ります。流石に、授業に出る余裕はないでしょうから」


 帰ろうか、と乙矢は基を連れて席を立った。


 扉を開き、閉める。


 室内に重たい音が響き、その余韻が消えた時、谷校長は大股にデスクへと近寄ると、


「川下先生を呼べ」


 低い声には、強い苛立ちがあった。



 人生最悪の日だった。



 しかし谷校長だけではない。


 川下にとっては、谷校長の最悪よりも、もっと下だ。

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