第10話「日常-unbalance-」

 流石にはじめも、その日だけは学校から出て行くと言う行動は取れなかった。それだけ川下かわしたからぶつけられた言葉と殺意は重かったからだ。


 基に心当たりがあるのならば、また話は別だったかも知れない。


 しかし基には、まるで身に覚えのない話であり、自覚できたのは自分が生け贄役であると言う現実を再確認してしまった事だけ。


 乙矢おとや真弓まゆみに出会い、違う世界を知ったはずだったが、それは簡単に基の頭から消し飛んでしまっていた。



 もう一度、基の世界は全て真っ白に塗りつぶされたのだった。



 人は二種類いるらしい。


 味方が一人でもいれば、100人の敵がいても平気というタイプと、敵が一人でもいれば、1000人の味方がいても駄目になるタイプだ。



 基は、後者だった。



 その敵たちは、本当に一石二鳥となった事で笑いをこらえるのに必死にさせられたが。


 ――最高!


 机に隠したスマートフォンでメッセージを送り合いながら、皆一様に、青い顔をしている基を盗み見ていた。


 求めていたのは、正しくこの姿だ。


 何でもない事に怯え、最底辺にいる事を分かり易く示してくれる事だけが、このクラスで基に求められている事だ。


 いや、それは本音部分であり、決して彼女たちの表層意識には登ってこない。


 登ってくるのは、自分たちの都合のいい言葉だ。


 ――別に、私たちは友達のいない鳥打と遊んであげてるだけだし。


 それが全員に共通した認識だ。万引きも悪い事とは思っていない。「万引き」であって「窃盗」ではない――小学生がする、ちょっと可愛い悪戯いたずらに過ぎないと思っている。


 ――そうそう。


 返信が早い。今日は、もう教師の目を盗む必要もない。怒りは全て基に向いているのだから、視野が狭いと言うにはあまりにも狭すぎる。


 ――友達になろうとしてるだけ。ちょっとした悪ふざけくらい、普通の事よ。


 ――ま、鳥打がどう思ってるかは知らないけど。


 ――友達付き合いよね。友達付き合い。


 思わず笑いが盛れてしまった。今日は抜け出さないようだから、放課後は何をしてやろうかと考えれば、それも仕方のない事だ。


「……やっば」


 呟きながら顔を上げる女子だったが、やはり危機感を持つ必要はなかった。川下は何も気にしていない。


 ――問題だって言うんだったら、正々堂々としてればいいのよ。正々堂々、言ってやればいい。私たちは鳥打と仲良くしようとしただけですって。それを鳥打が勘違いしてるだけでしょう。


 ――忠告してあげないとね。友達として、勘違いはいけないって。あくまでも忠告ね。


 ――ちょっと手荒くなるけど、ね。


 今度は一斉に吹き出したが、やはり川下は気にしない。基がシラを切っている事に対し、皆が苛立っているのだと解釈してしまうのが、この生け贄役の効果だ。


 ――いいんじゃない? 忠告の仕方なんて人それぞれで当然。大切なのは、本人の事を思ってるかどうかなんだから。


 ――そうそう。鳥打の事を思ってるの。鍛えてやらないと、あんのままだと一生パシリでしょうね。鍛えるのが、あいつのためよ。



 それが彼女たちの錦の御旗だ。



 ――鍛えるの。


 ――あいつのためよ。


 繰り返される言葉は、彼女たちの「社会」に共通して流れる理念でもある。





 乙矢が、基が顔を見せるようになって、唯一、悪影響があったと感じさせられている事は、真弓が来る時間を早めた事だ。


「学校は?」


 コンディトライで頼んだミルクセーキを片手にやって来た真弓に対し、乙矢は部屋の柱時計を指差した。


 午後4時。


 6限目まで授業に出ていれば、丁度、この時間に終業のチャイムが鳴っているはずだ。


「えーと、嫌な事があったから、そのまま教室から出て来ました!」


「あのね……」


 冗談めかして言う真弓に対し、乙矢は思わず溜息を吐かされた。


「そういう冗談にしてほしくて言った訳じゃないの」


 基の前で言うなと釘を刺す。


「気軽な気持ちで言ったんだろうけど、鳥打くんが聞いたら、馬鹿にされているように感じるわ。よくないって、わかるでしょう?」


「あ、はい……」


 恥じ入るように小さくなる真弓は、ちびちびとミルクセーキを嘗めるように飲んでいた。


「……」


 しかし、そう小さくなられるのも、乙矢が望むところではない。


「気持ちは、分からなくもないけれど。鳥打くんは、応援したくなる」


 乙矢が手に取るのは、今まで基が書いてきた感想文だ。最初は原稿用紙一枚と半分くらいしかなかったが、それが少しずつ多くなっていった。考えを文字にして表せるようになる事は、乙矢が望んだ変化だ。


「おー、凄い! 読んでも?」


 手を伸ばしてくる真弓に、乙矢はまた溜息を吐いた。「いい?」の二文字すらも省略するのだから、この時点で基の《方》が真弓よりも言葉を知っているかも知れない。


「はい、どうぞ」


 そんな真弓の手に原稿用紙の束を載せる乙矢は、それでも真弓を好ましく思っている。


「どうも。へェ、日付も書いてるんだ。本当に毎日、書いてるのね」


 しげしげと原稿用紙を見ながら、真弓は時に首を傾げ、時に頷いた。


「あらすじが一切、書かれてない。何でこの本を選んだかとか、読む前にタイトルから受けた印象とか、本当に感想になってる」


 そこは素直に凄いと唸らされている。


「感情を言葉にできるようになれば、戦える」


 原稿用紙に視線を落としている真弓へ、乙矢はそんな言葉を向けた。


「現代社会って、何が善で何が悪か分かりづらいし、戦う事では事態が混乱するだけ、嵐が過ぎ去るのを待つのが利口と言う事もある」


 言いながら、乙矢も考えを整理したかったからだ。


「戦うか戦わないかは兎も角、鳥打くんには戦う意志は持ってほしい」


 何故ならば――、



「戦う意志がないなら、味方もできないし、敵だって見えてこないもの」



 乙矢が基に伝えたい事は、「自分に正直になれ」と言われても、敵も味方もいない――他人がいなければ、自分のしなければならない事も、自分がしたい事もわからない、と言う事だ。


 戦った結果、平穏が手に入るとは限らないし、強くなっても認められても、不安や恐れがなくなる事はない。基の性格上、他人からの評価は「いつ、ひっくり返るか分からないもの」としか受け取れまい。


「完全に、鳥打くんを解放できる訳じゃない、か」


 真弓も分かる。


「でも、壁すら見えてなかった今までよりは、ずっといいはず! うん、そうでしょ」


 少しずつ分量が増えていく感想文を読みながら、真弓は自分へ言い聞かせるように言った。


 壁――この世に生きる者全てを取り囲んでいる存在すらも、基は認識できない世界にいたはずだ。


 濃い霧に包まれた世界に、ただ一人だけ彷徨さまよっているような、そんな不安定な状態だ。


 手を伸ばしても壁にすらぶつかる事ができない状態は、ただ不安定なだけで、「孤独」ですらなかったはずだ、と真弓は思っている。


「別の世界を知る事で、孤独も手に入った。それを知る事で、大勢でいる時の賑やかさも認識できる。そう考えたから、読書と感想文を勧めた。違う?」


 真弓の問いに対し、乙矢は肩をすくめるだけで、否定も肯定もしない。


 声に出したのは、ただ一つ。


「もう4時半か。今日は来ないかも知れないわね」


 今日は久しぶりに基も学校で過ごせたようだ、と思ってしまったのは、全てを見通せる目を持っている訳ではないからだ。

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