第9話「卑怯者の善意を信じるか?」

 乙矢おとやは見落としていた。


 はじめが受けているのが、ただのイジメであったならば何も問題はなかったかも知れないが、そうではない。



 まさか乙矢も、教師が――特に校長が中心にいるなど思っていない。



「最近、何なんだよ、あいつ」


 万引きメンバーのリーダー格が基を横目で見ながら、ソヒソヒと仲間に耳打ちしていた。


 本当は大声で、威嚇するように言ってやりたいのだが、それをした瞬間、基は席を立って出て行く。


 それ自体、クラスの輪を乱し、校則を破る行為であるから、クラス全体の苛立ちを掻き立てる行為である。


 しかし今の基が、そんな言葉に聞く耳を持つ事などない。彼女らが何かをすれば、本当に席を立って学校を出て行く。


 だからヒソヒソと耳打ちし合うしかないが、そう言った些細ささいな変化が教室に不協和音を生み出していた。


 本来、目的の統一を図るために必要とされる生け贄役であるのに、機能不全に陥っているからだ。登校拒否になったならば、また話は違った。「サボっている」と言う言葉だけを投げかけ、原因を曖昧あいまいなままにしていられるのだから。


 サボらず、朝はちゃんと来るくせに、何かあれば帰ってしまう――これが最もこたえるのだ。


 帰る直前の出来事が原因になってしまうのだからだ。



 そしてリーダー役にとって、基に気を遣わされるなど屈辱以外の何物でもない。



 しかし自分の責任を認めなくてもいいように生け贄役が選ばれているのだから、自分の言動に原因は求めない。


「そういやさ、川下かわした先生。子供ができたんだって」


 その話題は、話を逸らすために出された話題ではない。



 川下先生――基の蛮行を止められない「無能」の担任だ。



「じゃあ、――したんだ」


 嫌悪感を滲ませるのは、性行為に対する嫌悪感だった。基に狙いをつけているグループにとって男という存在は自分たちの周りにいてはならない存在――とまでは思っていなかった。ただし、基の蛮行が始まるまでは。


「だから、あんなのにめられるんだよ」



 不協和音は、全員で生け贄役一人を叩くはずだったシステムを歪め始めていた。



 そして不協和音は、普段が整っていればいる程、大きくなる。


「これ――」


 リーダー格の女子に向かって、小さなが差し出された。


「あの無能への罰と、あの愚図ぐずを追い詰める、一石二鳥の手がある」


 川下と基の両方にダメージを与えられる、碌でもない手段を思いついたのだ。





 それは給食の時間に起きた。


「ガッ!?」


 クリームシチューを口にした担任が、突然、咳き込んだ。


 あの小包の中身だ。


「ゴッゴッ……」


 川下は思わず吐き出した。妊娠しているが、悪阻つわりではない。



 小包の中身は、害虫駆除用のホウ酸だった。



 ホウ酸は食塩と同程度に人体には無毒であるが、当然、給食のシチューに入っているはずがなく、しかも担任の皿にだけ入っていたと言う事は、誰かが入れたと言う事になる。


 ザワザワと騒がしく、昼休みにドッジボールなどする空気などにならないまま迎えた午後、女子の思惑は当たる。


 教室に大股で入ってきた担任は、バンッと教卓を出席簿で叩き、教室を一瞬で黙らせる。


 それだけで十分、生徒を戦慄させるのだが、それ以上に緊張させたのは、生徒の席ひとつひとつを周りながら配られた無地のプリント用紙だった。


「先生が吐いたのは、悪阻ではありません。給食に、何かを入れられていました」


 周囲を睨み付けながら、川下は噛み砕くようにゆっくりと言葉を発した。


「先生の事を困らせようと思ってやったのかも知れません。先生も小学生だった事がありますから、分かります」


 ゆっくりと喋ったのは、そこまでだった。


「けど、やって良いことと悪いことがある」


 教壇へ登ったところで、川下はもう一度、出席簿を教卓に叩きつけた。


「心当たりがある人は、そこに書きなさい!」


 アンケートなどと言う生易しいものではない、と言う雰囲気だった。


 そのアンケートこそが、女子たちの狙いだ。


 書けばいい。



 鳥打 基がやった――。



 それは基にとっては青天の霹靂へきれきだった。


 まるで覚えのない事であるから当然なのだが、クラスの面々は別の意味で「当然だ」と思っていた。


 最近の蛮行を見ていれば、基が何をやろうとおかしくない――それが総意だ。


 川下にとっても、そうだ。


「……僕じゃないです……」


 基は声が震えている事すら自覚できていなかった。


 嫌な事があったら、その場で学校から出ろと言う乙矢の言葉に従ってきたが、この空気のままでは外に出て行く事もできない。


「あんたがやったって書いてる!」


 川下がヒステリックに怒鳴った。


 ――そんな……。誰かが嘘を書いたに決まってる!


 書かれる覚えはある。


「……誰が……そんな……嘘で――」


「誰かとか関係ない!」


 また教卓を叩いた川下は、ドンドンとわざと大きな足音を立てて基に詰め寄る。


 その圧力は、いつものように帰らせないためだ。


「先生の質問に答えられたら、帰っていいわ」


 圧力に乗せて、川下は言う。


「ある人に赤ちゃんが出来ました。けど、その赤ちゃんが、誰かのイタズラで殺されてしまいました。どうしますか?」


「……」


 基に答えられるはずがない。


 それだけの圧力に晒されていた。


 まず間違いなく、川下は基が犯人だと思っている。生け贄役の叛乱はんらんなど、絶対に許せない。基は排除されるべき異分子であるが、この世から排除する気がないだけで十分な慈悲を与えられているのだから。


「鳥打 基」


 フルネームの呼び捨ては、また基の身体を硬くさせる。


「私なら、殺します。大切な赤ちゃんを殺した相手を、どうやってでも見つけ出して殺す」


 本当にこの世から排除するぞ、と言う言葉は、これ以上にない脅しだ。


「女は、子供を傷付ける者を、絶対に許さない!」


 基の机を、川下は力任せに殴りつけたのだった。

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