第3章「出せない手紙と、効かない薬」

第1話「破綻・雌伏・復讐」

「また声も出るようになるわ」


 医師はカルテと患者の顔とに一度、視線を往復させてから言った。


 眼前にいる患者は、数日前、矢矯に敗れたルゥウシェ。


 美星の《導》を浴びたルゥウシェの治療は順調だった。



 ただし、一点のみ、順調である事が良い面と悪い面を持つ箇所がある。



「……元通りになりますか?」


 白い包帯の巻かれた首――喉だ。


 そこを撫でながら発したルゥウシェの声は、嗄れていた。矢矯が切り裂いたのが声帯だったためだ。


「治るわよ」


 医師が簡単に言う理由は、ルゥウシェにとっては屈辱にしかならない。


「随分、上手く斬っていたようだから」


 矢矯の腕が良かったから治るというのは、ルゥウシェが最も聞きたくない言葉だ。


「相当、硬く、鋭い刃物を使って、常軌を逸したスピードを保持したまま、全くブレずに振る事ができれば、確かにこう言う傷に――」


「黙れ」


 ルゥウシェが乱暴な怒声で医師の声を遮った。


「……」


 医師はさえぎられたまま、暫く口をぽかんと開けていたが、溜息を吐いて口を閉じた。こんな舞台に自ら望んで上がっている者には慣れているが、怒鳴られて平気になるには、この医師も気性が荒い。


「身体の軸がしっかり真っ直ぐ通っていなければできない芸当ね。刀の抜き方も知らない人が多い、こんな舞台じゃ珍しい手練れね」


 誰が斬ったのかは知った上で続ける。


「寧ろ、下手な《導》で受けた身体のダメージの方が深刻よ。見た目に比べて、ダメージは大きい」


 ルゥウシェが生きている理由は、美星の《導》は指向されたため、交叉した一点で最大の威力を発揮きるが、それ以外では被害が少なくなったからだった。


 だが無傷ではない。


 そして医師の《方》で代謝を加速させて治療したが、《方》による治療は、副作用もかんがみて、外見が整った時点で完了としている。


 結果、見た目にこそ傷はないが、怪我が完治している訳でもなかった――という説明は、中断させられた。


「ッ」


 中断させたのは、ルゥウシェが言葉の次に放った拳だった。辛うじて医師の顔面に叩き込む事だけは耐えたが、テーブルを殴りつけた。


 その音には驚いたが、医師も多少は溜飲が下がったとカルテの方に顔を戻した。


「他の二人より、余程、重傷よ」


 医師はデスクに載っているバッシュと美星のカルテを一瞥した。


「バッシュの四肢切断も、あなたの喉と同じく、定規で引いたような見事な一文字だったから、接合も可能だったわ」


 まだベッドから起きられる状態ではないが、バッシュのダメージも見かけ程ではなかった。切り落としたと言うよりも、切り飛ばしたと言う風であったが、それでも矢矯の身体操作は剣豪と言っていい極みに達している。


「おい!」


 これ以上は堪えないという剣幕で詰め寄ろうとするルゥウシェだったが、医師は鬱陶しそうな顔を一瞥させて無視した。


「一番の重傷は美星ね。切断された両手は、かなり長いリハビリが必要よ」


 美星の両手は孝介と仁和の攻撃によるものであったから、その傷口はバッシュやルゥウシェ程、滑らかではなかった。そこは《方》での治療も併用して縫合できたのだが、元通りに動くまでには時間がかかる。


「動くようにはなるわよ。元通りになるかどうかは、本人の頑張り次第かしら」


 時間をかけたとしても、元通りの精密さを取り戻せるかどうかは分からない、という意味だ。


「ただ、身体の方は無事ね。顎先をピンポイントでかち上げたのかしら? 上手く脳震盪を起こさせていたわ」


 そこだけは無傷に等しいと言った医師に対し、ルゥウシェは席を立っていた。


「また来週、診察に来るように」


 別に来なくてもいいが、声帯の治療は他の病院で診察を受けるわけにはいかない。


「まったく」


 荒々しく閉められたドアを一瞥し、医師はくるりとデスクへ向き直した。カルテ以外にもメモ書きのようなものがあり、医師が視線を落とすのはそれだ。



 そこに書かれているのは、《方》の素となる血中の極小タンパク質についてだ。



 ――血中濃度が0.01%以上の者から百識が現れ始める。その極小タンパク質は遺伝子を持たず、増殖、伝播経路もハッキリと分かっていない。だけれど、その効果はウィルスは勿論、ガン細胞の制圧にも効果がある。プリオンの抗体すらも生成できる……。


 舞台で得られた百識のデータに関する事だ。


 ――そして細胞の活性化。ウルトラメディシンというわけか。


 その極小タンパク質から、どうエネルギーを発生させているかは分からないが、百識の優劣を見極める際、この量が用いられる事が多い。


 その極小タンパク質の血中濃度を表すグラフで、そこには矢矯や弓削のデータもあった。


 しかし、そんな二人のデータよりも、もっと目を引くのがルゥウシェのデータだ。



 血中濃度0.1%――これは百識の人口比にして0.001%しかいない高数値だった。



 ――だから治るのも早いかも知れない?


 希少なサンプルだと言うのだが、それならば殊更、煽るような言い方和しなくてもいいというものだ。


 だが医師は、ルゥウシェがここへ来るしかない事を知っているからこそ、遜った言い方はしない。


 この舞台で受けた傷であるから、それらをぼやかして治療を受けるのは難しいのだ。闇医者故に高額になるのだが、治療はここでしか行えない。


 ――何て事ッ。


 大股に退出したルゥウシェは歯軋りした。ルゥウシェにとって、自分やバッシュが負った傷の治癒が早い理由が「相手の腕がよかった」などと、認めるわけにはいかない。


 ――頭空っぽの、殴るしか能のない奴が!


 ルゥウシェにとって矢矯はそうでなければならないからだ。《導》が使えず、そもそも直接、攻撃する《方》も持っていない。相手によって戦い方を変える事もできず、ただ刃を振り回すしか能のない――、


「脳筋が!」


 怒鳴った所で、廊下を曲がってきた美星が驚いて肩を震わせたのが見えた。


「ルー?」


 ルゥウシェの顔を見る美里は、早鐘を打つ胸に手を当てていた。美星も治療に来た帰りだった。


「ごめん……」


 驚かせるつもりはなかった、と頭を下げるルゥウシェは、下げた視界に美星の手を入れてしまう。


 清潔さを感じさせるはずの白い包帯も、今ばかりは苛立ちをかき立てられる。


 ――切断された両手は、かなり長いリハビリが必要よ。


 医師の言葉が蘇ってくる。美星の手が完治しないかも知れない理由が、それを斬ったのが矢矯ではなく孝介と仁和だからだと言うのも、納得しがたい。人間の四肢を切断できる腕前も、相当なものだ。矢矯に教わって、そんなレベルに達してはならない。


「手、大丈夫?」


 思わず出た言葉は、それしか言えなかったからだ。


「うん、リハビリ次第だって言われた」


 美星は笑顔を作ったが、作られた笑顔であるが故に、ルゥウシェも分かる。


「料理ができるようになるのは、もう少し先かな。頑張るつもり」


 美星の言葉がルゥウシェに突き刺さる。


 ――好きだった趣味を……。


 料理が趣味の美星から、劇団へ差し入れられた料理を思い出してしまう。惣菜もそうだが、特に印象に残るのは、やはりケーキやクッキーだった。


 ――スイーツが作れるようになるまで、どれくらいかかる?


 想像がつかない。惣菜は、調味料や材料の分量も目分量で構わないが、菓子は違う。砂糖一つ取ってみても、「少々」と「一つまみ」の違いですら、味を別ものにしてしまう。その感覚を取り戻せるまでの時間を考えると、やはり医師の言葉が引っかかる。


 ――元通りになるかどうかは、本人の頑張り次第かしら。


 その言葉がオブラートに包まれている事くらいは分かる。


「ごめん」


 もう一度、ルゥウシェが謝った。自分が矢矯を始末できていれば、こんな事にはなっていないのだ。


「……」


 美星にはルゥウシェへと向ける言葉が浮かばない。


「それより、バッシュさんの事よ。お見舞いに行ってあげてね」


 入院中だというチームメイトの事を言うだけで精一杯だった。


「うん。これから行く」


「あと……劇団の事も」


 そこは美星も言葉を潜めてしまう。いつも財政が火の車だった劇団は、安土が援助を打ち切り、矢矯が資金を引き揚げた時点で破綻してしまっている。ルゥウシェも美星もバッシュも、今回の治療で金銭的な余裕はない。


「……うん」


 のし掛かってくる重圧に、ルゥウシェは眉をハの字にしていた。次の公演はキャンセルするしかない。もし公演できたとしても、この喉ではルゥウシェは出演できないし、何もかもが不足している。


 バッシュの病室へと向かうルゥウシェだが、病室のドアノブに手をかけたところで動きを止めてしまう。



 あわせる顔がなかった。



「……」


 しかしドアノブから手を離したルゥウシェは、まるで宛てがないと言う訳ではなかった。

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