第7話「神名は誰にでも優しくしていたい」

 何事においても、「真っ直ぐ」は難しい。


 孝介と仁和が矢矯から教えられた打ち下ろしもそうであるし、今、陽大が教えられた突きもそうだ。


 最短距離を走るからこそ最速のスピードとなる。



 そして最短距離とは、ブレていない直線しか有り得ない。



 その直線が難しい。足下から発生する力を、膝、腰、肩、肘と伝達させる中で、どれもこれもが連動していなければ、必ずブレが生じる。


 特に重心を司る膝と腰の位置は重要だ。


 重心を安定させる――しかし固定してしまうのではなく、スムーズに回転させるのが難しい。


「……」


 幸い《方》によって強制的に姿勢を作るため、イメージ化が完璧であれば、全ての問題は解決する。ただし身体にかかる負担は、外部からの衝撃や反動こそ障壁が防いでくれるものの、無にはできないが。


 ――ジッとしてる方が辛いんだな。


 フォームをチェックしながらになると、必然的にスローモーションとなる。


 まずは拳の高さを変えずに伸ばしていくが、障壁の上に載せた状態でも、腕そのものの重さが肩や腰にのし掛かってくる。心臓よりも高い位置へ置く訳だから、送られる血液が滞り、老廃物の排出を阻害する。それが疲労となって溜まっていく。


「はァ……」


 伸ばした手を戻しながら、陽大は大きく息を吐き出した。呼吸すら止めておかなければぶれてしまいそうな気がしてしまう。障壁の《方》に対して適正のある陽大も、筋力を全て使わずに《方》に任せる、と言う考え方を徹底できない。


 額の汗を拭いながら時計を見遣ると、そろそろ6時が来る頃だった。騒がしくしていい時間ではないが、幸い、ゆっくり動かしていただけだ。早朝から動いても、隣室で騒がしいとは感じていまい。


 眠れていないからか、頭がぼんやりしていた。


 慣れていない部屋だからではない。



 あの事故以来、陽大はぐっすりと眠る事ができなくなっていた。



 8畳間は、居室として広くも狭くもないが、今の陽大には広い。今日にでも解雇された会社の寮から私物を引き上げてこなければならないが、それを全て納めたとしても、クローゼットはスカスカだろう。


 時計の針が6時を示したのを確認して廊下に出る。2階は8畳間が二つと10畳間が一つ、それに納戸とバルコニーへ出るスタディスペースとがある。弓削は10畳間を居室、もう一つの8畳間を寝室として使っており、神名は1階のリビングに隣接した8畳間を自身の部屋としている。


 階下へ降りると、こちらも起き抜けと言った風の神名と鉢合わせた。


「おはようございます。早いですね」


 まだ起きてこないと思っていたのか、神名は驚いた顔を見せていた。


「おはようございます」


 陽大は神名が起きた頃だと思っていただけに驚きはなかった。


「前々から、職場では一番に行って、掃除したりするのを習慣にしてたんですよ」


 陽大の眠れないからと言う理由の早起きも、時間の使い方を変えれば別の理由にできる。


「それはいいですね」


 神名ははにかみながら、頭上を指差した。


「弓削さんは、平日でも7時半まで起きてきませんから」


 まだ一時間半は寝ていると言うと、陽大も思わず笑ってしまった。自宅兼事務所であるから、朝9時から始業するにしても通勤時間が必要ない為、割と遅くまで寝ていられる。


 一頻り笑った後、神名は炊飯ジャーとトースターとに立てた人差し指を往復させ、


「朝は、パン派? ご飯派?」


 どちらでも用意できると言う神名であったが、陽大は言いにくそうに頭を掻き、ハッキリした言葉がすぐには出てこなかった。


「果物でもあれば、それで十分なので……」


 元々、朝食をがっつり食べる習慣はなかった。十分な睡眠が取れないまま起床時間を迎えているため、空腹すらも感じにくいからだ。


「果物ね」


 大丈夫と片手を上げながら、神名がパントリーを見遣る。常温保存で事足りるものは全て、キッチンに隣接したパントリーに置いている。


 しかしパントリーを見遣った神名は「あら」と呟き、思わず失敗したとでも言うように口元に手をやった。


「ごめんなさい。ジュースにしちゃってました」


 パン派の神名が、トーストと一緒に飲もうと用意したミックスジュースの材料になっていたのだった。


「ああ……」


 別に構いませんよ、と言いながら、陽大が目を向けたテーブルには、パステルイエローのミックスジュース。


「いただけますか? 美味しそうです」


 世辞ではない。ジューサーを使ってミックスジュースを作る事など、とんとなかった陽大だ。手作りのジュースは本当に美味しそうに見えたのだ。


「どうぞ、どうぞ」


 ジューサーに残っていたジュースをコップに注ぎ、神名が手渡す。


 それをくっと飲み干すと、やはり口を突いて出る言葉は「美味しい」だ。


「これ、何を使ってるんです? 甘い中にも、ちょっと苦みがあって、甘すぎずに美味しいです」


「食物繊維を摂るためにパセリ、ビタミンCの豊富なキウイ、糖分は蜂蜜とバナナ。カルシウムと蛋白質を摂るために牛乳を」


 栄養を考えて作っていると胸を張る神名に、陽大も小さく何度も頷いた。


「これだけでも、十分な朝食ですね」


 量は足りないかも知れないが、栄養は満点だと言う陽大であるが、神名は「言い過ぎです」と苦笑いした。


「これだけでは炭水化物が足りません」


 だからトーストを食べているのだ、とパンをセットしたトースタを指差した。


「あ、トーストなら用意できますし、食べますか?」


 食パンならあると示した神名であるが、陽大は迷ったような表情を止められない。それ程、空腹は感じていないが、食べられないとも感じていない。食欲は――あまり分かっていない。


「弓削さんはご飯派だから、もう少ししたら起きてくる……かも?」


 まだたっぷり一時間は後だけれど、と言う神名であるが、そこへ廊下とリビングを仕切る引き戸が開けられる。


「朝から出張買い取りがある時は別だ」


 早起きする日もある、と言いながら入ってくるのは弓削だった。


「おはようございます」


 拙い事を言ったという風な顔をしている神名を余所に、陽大が挨拶した。


「おはよう」


 弓削は陽大に頭を下げた後、神名を躱して食器棚に手を伸ばした。


「僕は、ご飯派なんだ。卵かけご飯でもする」


 手に取ったのは小振りな丼だった。


 そして冷凍庫から冷凍した白ご飯を、冷蔵庫から卵と一緒に刻みネギを取り出す。


「こう、丼に刻んだネギを敷き詰めて、上に温め直したご飯を載せると、香りがとても良くなる」


 神名のように栄養の事は考えていない弓削は、丼に卵を割り、醤油を垂らし、旨味調味料を二度、振りかけた。


 ささっとかき混ぜると、単純だからこそ陽大の食欲を刺激する。


「ああ、俺も、そっちの方が良いです」


 熟睡し、毎朝、ちゃんと朝食を食べていた頃、パン派だったかご飯派だったかは、もう思い出せない。事故以降の生活は何もかもに必死で、「思い出」と括弧書きできるようなものがない。それ以前の生活がどうであったかなどの事柄も、どんどん抜け落ちていくような感覚に囚われてしまう時がある。


「ああ、いいよ」


 丼をもう一個、取り出た弓削は、同じように刻みネギと卵を陽大へ手渡した。


「ああ、確かに……」


 刻みネギの上にご飯を載せ、卵を落とし、醤油を垂らして旨味調味料を振る――弓削と同じ動作を繰り返した陽大は、かき混ぜた丼から立ち上る湯気に目を細めさせられた。


 ネギがどんな香りを放つか覚えていないにも関わらず、「ネギの良い匂いがする」と分かる濃厚な香りだった。


「蒸すのも立派な調理法ですから、温めたご飯に蒸されて香りが強くなっているんでしょうね」


 ただし神名は、蒸しただけが理由ではないと、窓の外を指差して告げた。丁度、庭に面した窓の外には、一坪程度であるが家庭菜園がある。ネギは定番とも言うべきものだ。


「熟れるまで収穫しないから」


 それも香りが強い理由だ。


「へェ」


 珍しいと窓へ寄った陽大であったが、急に動いたので神名とぶつかってしまう。


「!」


 それ程、強くぶつかった訳ではなかったのだが、蹌踉めいた神名は、そのまま倒れた。


「あ、すみません!」


 慌てて手を貸そうとする陽大であったが、神名は「大丈夫です」と笑みを作りながら立ち上がった。


 その動きで陽大も気付く。


 ――内竹さんも、《方》を使ってる?



 神名も《方》で身体をコントロールしている。



 陽大から見れば姉弟子だというのだから不思議な事ではないが、《方》でコントロールしているならば、ちょっとぶつかっただけならば平気のはずだ。


「内竹さんは――」


 弓削が説明しようとしたが、それも神名が自分で手を翳して止めた。自分から言うと示していた。


「私は、身体に麻痺があるから、不意に押されたりすると倒れてしまいます」


「それは……すみません」


 謝るしかない陽大に、神名は席に着きながら、「丁度いい機会かも知れません」と二人に着席を促した。



「私は、母親に殺されかけました」



「それは……」


 陽大も言葉を詰まらせてしまう。


「夕飯に、テトロドトキシンを入れられてて。助かったんだけれど、呼吸が麻痺して低酸素脳症になったから、麻痺が残ってしまってます」


 記憶や学習能力に障害が残らなかったのは不幸中の幸いだった。


「目が覚めると、お父さんとお兄ちゃんがいなくなってて、お母さんは刑務所だったんですよ」


「それは……」


 また陽大は同じ呟きしかできなかった。


「動機は保険金だったらしいですけど、詳しくは知りません。誰も教えてくれませんしね。でも、知ってます? フグ毒にはテトロドトキシンだけでなく、微量のサキシトキシンを含んでるんですよ。だから精製したテトロドトキシンを使った殺人事件だって簡単に分かったんだそうです」


 最後の言葉は冗談なのかどうかは、弓削も陽大も判断が付かない。神名は笑おうとしているのだから、冗談なのだろう。


「結局、保険金の受取人が殺人犯だったから、保険金なんて支払われなくて。しかも私は犯罪被害者だけど、加害者家族でもあるから、被害者の会や被害者遺族の会は入れてくれないんですよ。貧乏してまして……」


 そして麻痺がある身体であるから、それを売る事もできなかった神名が選べた選択肢は、「舞台」に上がる事だけだった。


 そんな過去を持っている神名であるからこそ、言う。


「だから私も弓削さんも、最後まで弦場くんの味方です」



 理不尽な苦しみを知っているからこそ、神名は陽大の味方ができるのだ。



「……」


 その言葉に、陽大は箸と丼を置き、椅子から立ち上がった。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 その言葉を口にするには、座ったままでは相応しくないと思った。知り合って一日、言葉を交わした時間は更に短いが、この高々、一言二言に過ぎない神名の話こそが、陽大にとって一番、信用できる証拠となった。


 時間はそれ程、ないにしろ、陽大が精一杯の抵抗をしようと本気で考えられたのは、この瞬間だったはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る