第6話「古本屋の午後」
事務所兼自宅へ戻ってくると、弓削の姿はなかった。
「出張買い取りに出てるんですよ」
陽大の視線に気付いた神名が教えてくれた。電話があれば、隣県ならば年中無休で出向いていくと言うのが弓削のスタイルだ。神名も、女性からの申し込みであれば出向く事がある。
「年中無休なんですね」
陽大が大変だと言ったのは、半ば世話話のようなものだ。社長一人、社員一人の零細企業なのだから、週休二日、八時間労働とはいかない。それは陽大でも想像が付く。今まで働いてきた工務店や作業所も、そう言う雰囲気があった。
「宅配買い取りもありますけど、出張の方がメインですからね。貧乏暇なしです」
神名は笑うが、自嘲も交えた冗談だ。そうう貧乏という訳ではないと言うのは、弓削の自宅を見れば分かる。弓削個人の年収は600万程度あるはずだ。
「どうぞ?」
玄関を開けたまま待っている神名に、陽大は慌てて走った。
「ああ、クッキーくらいしかなかった……。ごめんなさい」
休憩にはいいだろう、と神名が差し出すボウルには、市松模様のクッキーが並んでいた。昼食も食べていないだろう、と言って連れてきたが、軽食もないのは赤面ものだったが、陽大はそこまで気にしない。
「いただきます」
市松模様のクッキーは、形が一つ一つ、微妙に違っている。
「手作り……ですか?」
サクサクとした食感に目を瞬かせつつ、陽大は神名へ目を向けた。
「そう。趣味です」
「手間、かかるでしょう?」
比較的簡単な菓子ではあっても、5分や10分では作れない。そして型抜きクッキーではできない市松模様なのだから、他の作り方は知らないため、余計に手間と時間がかかるように感じていた。
「アイスボックスって言って、焼く前に凍らせて作るんです。待ち時間がかかるだけで、手間はそれ程、かかりません」
「アイスボックス?」
氷菓を想像してしまっている陽大に、神名は笑みを強めた。
「生地を練ってた後、棒状にして、まず冷蔵庫で寝かせるんです。30分くらいかな。一応、生地が柔らかいまま固まったら、4本を組み合わせて市松模様に整えて、それを冷凍庫で凍らせます。完全に凍ったら、一口サイズに切って、オーブンで焼いてできあがり」
簡単そうに言う神名であるが、陽大が途方もない作業だと感じるのは、菓子作りなどした事がないし、できるとも思えないからだろうか。
「飲み物は、コーヒー? 紅茶?」
笑顔のまま神名はカウンターキッチンの向こうへ行った。
「あー」
素っ頓狂な声をあげる陽大が一番に思い浮かべたのは、「簡単な方」だったが、コーヒーも紅茶も、淹れる手間は変わらない。
「インスタントコーヒーで十分ですよ」
一番、手間がかかりそうにないものを出したつもりだった陽大へ、神名は思わず吹き出していた。
「あったかしら?」
インスタントコーヒーは、神名に飲む習慣がないがないのだ。
「あ、なければ別に、何でも……」
今度は陽大が恐縮した。
そんな陽大へ神名が出した物は――、
「ティーソーダでいい?」
いつも飲んでいるものが、その珍しい炭酸飲料だった。
「ティーソーダ?」
飲んだ事がないと言う陽大の前で、神名は冷蔵庫からペットボトルを取り出して見せた。
「こちらが、お白湯にリーフを入れて、24時間経過したものです」
まるで料理番組のノリで話す神名は、暗褐色の濃縮紅茶をグラスに注ぐ。グラスに沿わせた指で分量を量るのは、水割りでも作る風だ。
「そして、炭酸水で割ります。4対1くらいを目分量、ガムシロップはお好みで。私は一個分がオススメです」
炭酸水もグラスに沿わせた指の高さで注いでいった。
「実は目分量って苦手ですけどね」
この辺は菓子作りの方が料理よりも得意な神名らしさという所か。料理は調味料の量などは目分量で構わないが、菓子は砂糖1グラム、バニラエッセンス一滴でも変われば、何もかもが変わってしまう。後者に慣れると、前者は苦手になってしまう。
「あとは氷をすり切りいっぱい」
それらをステアすると、ワッと炭酸が紅茶色の泡を立てた。
「さ、どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取った陽大は、その一口にフッと笑みを漏らしてしまう。
飲んだ事のない味に出せる感想は、「美味しいです」と陳腐な一言だけだったが、神名にはそれで十分だ。
「僕にも一杯、いただけるか?」
そこへ丁度、弓削が帰ってきた。汗ばんでいるのは、買い取った品物の量が多かったからだ。暑いとも寒いとも言えない日であるが、肉体労働は汗ばむ。
「はい、どうぞ」
神名がテーブルに置くと、弓削は大股に近寄り、このグラスを一息に煽る。陽大に出したティーソーダと違い、弓削のティーソーダには強炭酸の炭酸水を使っているにも関わらず、この男は一気に喉へ流し込む癖があった。
「……」
凄いなと目を丸くする陽大へ、弓削も思わず苦笑い。
「癖になってる」
若い頃からそうしていたからだ。
「料理もお菓子も、作りがいのない相手ですよ」
飲み物は一気飲み、料理は滝食いなんだから、と神名が言うと、陽大も思わず笑い出してしまう。
「弓削さんと内竹さんは……あの、恋人同士ですか?」
そんな質問ができたのも、一頻り笑ったからだ。冷蔵庫に私物を入れているのだから、神名もここに住んでいる。だが名字が違うのだから夫婦ではない。歳も、弓削はアラフォーだが、神名くらいの娘がいる歳ではなく、陽大が考えられた二人の関係は恋人同士しかなかった。
しかし神名と弓削は驚いたように顔を見合わせ、
「違いますよ」
まず否定したのは神名だった。
「弦葉くんと同じく、弟子……かな? 後、社員でもある」
恋人でも親子でもなく、陽大の姉弟子だ、と弓削。
「あ、そうなんですか……」
何故、弓削の弟子になったのかが気になったが、流石に陽大もそれを訊ねるのは気が咎めた。舞台に上がる事情が、軽々しいものであるはずがない。単純に人を殺したい、金が欲しいと言う理由で上がる者も少なくはないのだろうが、少なくとも神名のようなタイプは違う。
「弦葉くん、《方》の才能があります。倉庫整理してる時、他の事を考えながらでも、《方》を使えてたみたいだったし」
自分のティーソーダを用意した神名がテーブルに着きながら、弓削へ昼間の事を報告した。
「そりゃ凄い」
弓削も素直に驚いた。天才という言葉には抵抗がある弓削であるが、向き不向きで言うならば、適正が相当、高かった事には驚かされる。
「その内、指先も動かせるようになれば完璧だけど、まぁ、今は、それでいい」
そこで弓削は一冊の本を陽大へ向けて押し出した。
「これは?」
受け取った陽大も見た本は、格闘技の入門書だ。
「手足を動かせるのなら、簡単に覚えられる」
弓削はグッと拳を握ると、それをスッと前へ出した。
「拳を真っ直ぐ突く」
簡単だとは言わない。何気ない動作であるが、何気ないからこそ手の内の工夫は無限――とは、やはり矢矯と同じ事を考えている。
「真っ直ぐ、突く……」
それは陽大の開いた入門書の、最初に書かれている事だった。文章だけでなく、図解もある事が、この本を弓削が選んだ理由だ。《方》の障壁を変化させると言う使い方は、イメージ化が重要な地位を占める。連続写真で一連の動作が載っているのは、そのイメージ化を容易くしてくれる。
「ところで、どうだろうか?」
思わず読み込んでしまう陽大だったが、弓削が思考を遮るように声を掛けた。
「弦葉くんさえ良ければ、仕事を引き続き手伝ってくれるとありがたいんだが。給料は……そこまで多くは出せないが、この家も8畳間ならば一室、用意できるし、食事も用意しよう。どうだろうか?」
その言葉は、陽大にとっては何よりの暁光だった。弓削が提示したのは、バイトよりはマシ程度の金額でしかなくともだ。
「は、はい!」
一際、明るく大きな返事が、それを物語っていた。
それは何より強い「生き残る理由」になる。
「ありがとう」
だから弓削が笑みを見せると、陽大も「こちらこそ、ありがとうございます!」と返せた。
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