第4話「古本屋・弓削 弥」

 果たして陽大が抱いた感想が、「地獄に仏」であったかどうかは余人が窺い知れない。


 のし掛かってきた重圧は、あまりにも重かったからだ。


 弓削も自分がどう思われているかは感じ取っていたのだが、考えるのは最低限度に留めた。少々、陽大の反応に不満はあるのだが、それを言っても陽大の信用を失うだけである、と自覚している。


 そして間の良い事に、そのタイミングで弓削へ電話がかかってきた。


「はい」


 ディスプレイに表示されている番号も確認しないまま出るのは、このメールやメッセージアプリでの連絡が当たり前となっている昨今、わざわざ電話を掛けてくる相手を何人も知らないからだ。


 ――接触できましたか?


 電話の向こうからは女性の声。


「合流できた。僕はこのまま事務所に戻るつもりだ。内竹さんは?」


 ウチダケと呼ばれた女性は、「丁度いいです」と答えた。


 ――私も事務所で書類整理してますから。


「なら丁度いい。また後で。それでは」


 相手に見えないであろうに、電話に向かって頭を下げるのは弓削の癖だ。


「予定通り自宅へ行けば良いですか?」


 運転席の安土へ弓削は「ああ」と短く告げた。


 弓削は自宅兼事務所を郊外に持っていた。沿線にはバス路線しかないため、やや不便ではあるのだが、電車の騒音に悩まされる事はない。


「広い……」


 陽大が呟いてしまう敷地は、二区画分、100坪弱。半分を庭と、ワンボックスカーでも2台は停められるカーポートがある。


「事務所と兼ねてますから」


 カーポートへ入れたセダンから降りながら、弓削は少し照れくさそうにしていた。敷地も家も単身者が住むには広いのだから、ある意味、無駄が多いと言える。


 家の方は、延べ床面積44坪と言うところか。


 だが自宅と事務所を兼ねていると言えば、陽大も「そうなんですね」としか言えない。


 ――何の仕事をされてるんですか?


 気になったが、その言葉は出てこない。余裕は、まだ生まれていなかった。午前中は、これからの仕事の事ばかり考えていたが、今となっては仕事どころではない。「死ぬまで戦え」と言う言葉に現実感などなかったが、ぶつけられた敵意や悪意は否応なく現実であったと感じさせられたのだから。「舞台」の事など冗談のようにしか聞こえないのに、その二つだけで現実であると証明してしまっているくらいだ。


 生きるためには、仕事以前に、あの悪意と敵意をどうにかしなければならない。


 そう考えれば、どんどん気が重くなってしまう。


 ――どうしろって? 身を守る術を教えてくれるって言うけど、それって相手を殺すと言う事にならないか? 今度は事故じゃないんだぞ?


 事故であったから、陽大は辛うじて正気を保てている。その正気ですら、時折、気弱に支配されて潰れてしまいそうになっているのに、自分の意志で他人の命を奪うとなれば、その後の想像もできない。


「どうぞ」


 気だけでなく足まで重くなっていた陽大に、弓削が玄関のドアを開けて呼びかけていた。


「あ、すみません」


 礼を言った陽大が入った玄関も、一間半のスペースがあり、なかなかの広さだ。


 トルコ絨毯の玄関マットが敷かれているがりかまちはレッドパインの無垢材。


 ――広いな。


 恐縮しながら上がった室内の壁は、壁紙では泣く漆喰だった。


 拘りのある家だという事は、ものを知らない陽大でも分かる。人工島は土地代こそ安く、公営住宅が充実しているが、建築費は他県とそう変わるものではない。それで言えば、パタパタと呼ばれる簡易な工法で使われる事など有り得ない、漆喰と無垢材で作られた家の建築費は陽大の想像を絶するものだ。規模では的場邸の半分ほどであるが、建築費は弓削邸が3倍以上だろう。


「どうぞ、こちらへ」


 弓削が手招きした先はLDK。一階は洗面所、トイレ、風呂などを除けば、八畳間の和室とLDKだけであるから、LDKは20畳を超える広さがある。


「弓削さん、おかえりなさい」


 キッチンでお茶を用意していた女性が、弓削に向かって一礼した。


 その女が、弓削へ連絡してきたウチダケだ。


「そちらの方は、いらっしゃいませ」


 内竹が陽大へも一礼する。歳は陽大よりも上だが、弓削と比べればかなり下であるから、二人が夫婦とは思えない。弓削を名前の弥と呼ばず、「弓削さん」と名字で呼んだ事からも分かる。


「初めまして」


 陽大は声を上ずらせていた。同年代――陽大は知らない事だが、ウチダケは19歳――と話をするのは、久しぶりすぎて緊張してしまう。


内竹うちだけ神名かなさん。内外の内に、植物の竹で内竹、神様の名前と書いて、神名だ」


 弓削が紹介すると、神名は少々、気恥ずかしそうな顔をした。仰々しい字面だと自分でも思っているからだ。陽大と同じく、学校に通っていた頃はキラキラネームと馬鹿にされた事だろう。


「僕は無店舗の古本屋をやっていてね。彼女はスタッフだ」


 弓削は陽大へ奥の窓際にあるソファを勧めた。


「内竹さん、コーヒーを頼む」


 弓削の声を余所に、陽大は目を庭へと向けた。


 ――広いな。


 感想は相変わらず、それしかない。リビングスペースは駐車場から繋がっている庭に面しており、そこには季節が良くなればBBQなどもいいのではないかと思わされるウッドデッキがある。


「扱っているのは、本だけでなく、ゲームやDVD、CDも扱っている。女性向けの品もあるから、内竹さんがいてくれると助かっているよ。男が行かない方が良い分野だからね」


 ハハハと弓削が笑っていると、神名がコーヒーを淹れたカップを二つ、テーブルに載せた。


「倉庫整理、伝票整理、データ整理……雑用しながら近県への出張買い取りは、少しどころではなく重労働です」


 給料と労力が合っていないと言うのは、冗談めかしているのだから本気ではない。


「倉庫整理は僕がやっている。力仕事はできないだろう?」


 コーヒーを口につけながら、弓削は改めて陽大を見遣った。


 そこから話す内容は、矢矯が的場姉弟に話した事とほぼ同じだった。自分がコーチ役であり、陽大へ負けない技術を授けると言う内容だ。


 そのアプローチも、よく似ている。


「弦葉くんの《方》は、僕の《方》とよく似ている。障壁を張れるのだろう?」


「はい。それしか使えません。それも、強くはなくて……」


 投石ぐらいは防げるが、《導》の爆炎や稲妻を防げる程ではない。《導》による障壁は、それこそ実体化して視覚的にも捉えられる規模になるのだが、そんなものは陽大も弓削も持っていない。


「僕も使えないよ。六家二十三派に所属しているなら兎も角」


「はい?」


 弓削から出て来た言葉に、陽大は目を瞬かせた。


「六家二十三派。百識を大雑把に分けた場合、六つの家と、二十三の派閥に分けられると言われています。その他にも、独自の集団もあるけれど、その六家二十三派が主流とされているんです」


 歴史的な話だ、と神名が説明してくれた。


 その六家二十三派に所属していない――直系どころか傍系でもない百識が、弓削であり、矢矯であり、的場姉弟や陽大もそうだ。


「はぁ……」


 陽大は生返事しかできなかった。自分の生家ですら、歴史と問われても答えられないのに、百識の歴史と言われて分かるはずがない。


 弓削や神名も、六家二十三派と言う言葉は知っていても、具体的に誰がどこに住んでいて、誰が当主であると言う事は知らない。


 そして重要でもないのだから、その話はここまでだ。


「話を戻すよ。障壁の《方》で、戦う方法を教える」


 その方法は、弓削が矢矯に近親憎悪を覚える原因でもあった。



「身体に沿って障壁を張り、その形を変化させる事で身体の動きをコントロールするんだ」



 障壁の形を変えると言う考えは、陽大にはなかった。


 障壁の形は球が基本だと思っていた。レモンのような長平楕円体や、ラグビーボールのような長球になる事もあるが、人間の形に合わせる――それも沿わせて発生させると言う考え方はなかった。


 そして障壁を防御に使うのではなく、身体を支える事、動かす事に使うと言うのは、陽大の想像の範囲にもなかった。





 ――正解を引いたみたいですね。


 弓削邸を後にしながら、安土はほくそ笑んでいた。矢矯に的場姉弟を任せた時に比べて気持ちが楽なのは、前回の成功がある。矢矯の時に上手くいったからと言って、今回も上手くいくという保証はないのだが、今回は制裁マッチではない。賭けが成立しないような組み合わせはない。


 ――敵討ちだとしても、まぁ、そう無理な事はできないでしょう。


 愛車を発車させる安土は、ミラー越しにすら背後を見なかった。


 安土が安心した通り、弓削は陽大のコーチ役として過不足ない相手であった事は間違いない。


「筋力ではなく、《方》で身体を支え、《方》で身体を動かす」


 弓削も矢矯と同じ事を言っていた。


 ただし差異もある。


「身体に密着して障壁を展開するんだ」


 アプローチはそれぞれ違う。矢矯は念動によるコントロールだったが、弓削は障壁を張る事により、鋳型を使って己の身体を鋳造するかのように整える。その「方向性は同じだが、アプローチが違う」というのが、弓削がどうしようもなく矢矯に反感を持ってしまう原因でもあるが、それは陽大には無関係だ。


「ん……」


 まずは球体ではなく、人型に障壁を展開する事から始める事になるが、その一歩目が既に陽大には難しい。今まで考えた事もなかった使い方なのだから当然だ。「障壁」とは文字通り、障りになる壁の事であり、防御に使う《方》である、と言うのが常識なのだから。


 ――指先までは無理だ。少し大きめにして、包もう。


 手形に変形させる事を諦めた陽大は、完全な人型ではなく、棒人間のような形にした。


「……」


 その様子に、弓削がフッと薄笑いを浮かべた。


「最初は、それで正解だ」


 指先、爪先、二の腕や脹ら脛の曲線に沿って障壁を変形させるなど不可能な話だ。ならば細部に拘らず、できる範囲で行うのが正解だ。


「この変形を維持できるようになれば、次のステップだ。リアルタイムで変形させる。構えから攻撃に移るわけだが、まぁ、まだ先だ」


 立っているだけで精一杯と言うのでは、この方法で攻撃はできないのだから、先は長いのだが、スジは良いと弓削は感じた。枝葉末節に拘らず、流れを理解できるのは得がたい才能と言える。


「……ありがとうございます」


 障壁を解除した陽大が礼を言うと、弓削は驚いたような顔をしてしまった。


「まだ大したことを教えていないよ」


 弓削は思わず、吹き出してしまった。まだ理屈を教えただけだと思っているのだから、こんな段階で礼を言われるとは思っていなかった。


「大事なのは、イメージできるかどうかだ。画集や写真集、あとはスポーツや格闘技の映像なんかも参考になる」


 障壁を人型にする技術で、何が一番、役に立つかと言えば、弓削は「イメージ化」だと思っている。その為には、写真や画集、動画を見るという方法もある。


「幸い、そういうのには不自由しません。職業柄ね」


 神名もそう言って微笑んでいた。神名も弓削と同様の《方》を持っているのだろう。


「店舗がないとは言え、古本屋ですから」


 倉庫には資料になりそうな物が大量に眠っている、と弓削は喉を鳴らすように、特徴的な薄笑いを発した。


「ありがとうございます」


 頭を下げる陽大に、二人とも「どういたしまして」と返したのだった。

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