第2章「払い戻した命」

第1話「殺人犯・弦葉陽大」

 幼い頃から夢見がちだったと思う。


 善意と悪意の総数を比較すると、善意の方が多いのだと考えていた節がある。地球は丸いから、悪い事をしても良い事をしても、ぐるっと回って自分に帰ってくる、と教えたのは祖父だっただろうか。


 勇敢な物語には、常に勇敢なエンディングがあると信じていた――そんな夢見がちな少年・弦葉つるば陽大あきひろは16歳。


 父親は南県に本拠地を持つスーパーマーケットチェーンの幹部、母親は看護師という家庭に生まれた陽大は、金銭的に不自由を感じた事はなかった。


 両親ともに忙しい身分であり、特に公立病院に勤める看護師だった母親は、カレンダー通りの休みではなかった。


 土曜日と日曜日に寂しいと感じた事もあったが、しかし祖父母から、他の子供たちが両親から受ける以上の愛情を注がれて育った事は今でも感じている。



 しかし陽大が括弧書きで「現実」と書かなければならない世界を知るまでに必要だった時間は、10年にも満たなかった。



 小学校に上がった頃、「それ」は始まった。


 幼稚園からの幼なじみは校区という名の区別で離ればなれとなり、一人だけ上がった小学校では、皆が同じ保育所から上がってきたクラスの中で妙な目立ち方をした。


 グループ分けが済んでしまっている教室では、誰かから話しかけられる事もなく、溶け込むのに苦労させられた。世界の善意を信じていた陽大少年は、人と争う事が嫌いだった事も、その一因だったかも知れない。


 争う事が嫌いな陽大少年は、休み時間のドッジボールができなかった。ボールをぶつけられなかったからだ。逃げるしか思いつかないのでは、ドッジボールは楽しめない。


 そのくせ身体だけは大きかったのだから、排斥される原因は十分にあったと言えるだろう。


 決定的に顕在化したのは、10歳になる歳の時。


 ――30人から40人程度の集団を、効率よく支配するには、実に良い方法がある。


 後に陽大が恩人と思う事となる男が、そんな事を教えてくれた。


 ――集団を統括する最も基本となる行動は、目的意識の統一だ。何か一つの事に向かって突き進めるならば、その集団の団結は強固なものとなる。プロスポーツならば優勝とかな。学習塾で学校崩壊が起きない理由は、皆、勉強すると言う目的を持って通っているからだ。


 その目的意識の統一ができない事が、学校で起こる問題の一つ学級崩壊に繋がるのだと言われると、陽大も納得するしかなかった。


 ――しかし大抵は、上手くいかない。運動会や、校内の合唱コンクールなど学校行事には様々なものがあるけれど、好き嫌いがある。運動会では優勝したいが、合唱コンクールはどうでもいいと考える子もいれば、その逆もいるからな。体育で50メートル走は速く走りたいが、社会科のテストで100点を取りたいとは思わなかったり。


 それだけ目的意識の統一は難しいと言う事だ、とは言わなかった。


 ――しかし、逆の見方をすると、これが実によくできている。


 寧ろ、そこにこそ方法を見いだせる、と言った。



 ――全ての失敗を、たった一人の生徒に押しつければ良い。



 即ち、運動会で勝てないのも、合唱コンクールで優勝できないのも、その一人のせいにしてしまえば、そのクラスは纏まると言う事だ。


 生徒が抱く不満を全てぶつけられる相手を用意すれば、「異分子の排除」と言う目的意識を持てる。


 ――その一人を選ぶ基準は、何でも良い。家が貧乏、逆に金持ち。背が高い、もしくは背が低い。運動ができない、特定の球技だけが得意……等々。ああ、物心つく以前から自分たちの集団にいなかった者、というのも十分、基準になる。


 背が高く、運動が嫌いで、裕福な家庭に育っている等々――つまり保育所からではなく、別の幼稚園から小学校に上がってきた陽大少年は、その基準を満たしていたのだ。


 それを生徒が行ったのであれば、これはイジメとなり、社会問題となる。



 しかし教師が意図的に利用すれば、問題として発露しない。



 ――生徒は、自分たちは健全なコミュニティの運営を行っていると考えている。その健全なコミュニティに侵入してきた異分子を排除する事は、正当な権利であり、またコミュニティの一員として負っている義務と思っている。教師が、それを認めれば、果たして暗黙の了解となり、無意識のうちに正当化されてしまう訳だ。


 小学校4年から中学まで、陽大のいた世界は、善意とはほど遠い世界だった。



 生け贄役――それが陽大に押しつけられた役割だ。



 故に事件が起き、陽大の人生に今も影を落としている。





「は……解雇……ですか?」


 出勤してきた途端に呼び出され、告げられた言葉に陽大は唖然としてしまった。


 自動車部品を製造する小さな工場に採用されて3ヶ月が過ぎ、仕事にも慣れ、何とか職場にも馴染めそうだと思っていた矢先の出来事だった。


「急で悪いんだけど……」


 作業着姿の社長は、苦い顔で口をモゴモゴさせつつ、タバコに火を点け、気分を落ち着かせるかのように一度、大きく煙りを吸い込んだ。


 そして出された言葉は……、



「執行猶予中だっていうじゃないか」



 陽大は思わず息を呑まされた。執行猶予中と言う単語に対してだ。


「4人も殺してたんだって?」


 それは陽大が13歳の時の事だ。


 小4の頃から続き、耐えてきた生け贄役に耐えられなくなった一瞬の出来事だった。


 ――止めろよ!


 声にできなかった叫びと共に振り払った腕は、取り囲んでいたクラスメートを階段の下へと突き落とした。


 不意を突いた形となり、またクラスメートたちの中では長身だった陽大が必死で振るった腕であったから、その力が加われば、起こる。



 当たり所が悪かった。



 そして間が悪いとしか言いようがないが、第90代首相が少年法を完全廃止した事と重なり、刑事裁判に掛けられる事となった。


 ここでも、もし死亡したのが一人であったならば、また判決も変わったのかも知れない。


 だが死者は4名――事故か否か殺意の有無が争われる事となったが、4人もの命を奪った陽大に告げられた判決は、懲役3年、執行猶予4年というものだった――。


「……困るんだよ……」


 社長の声が震えていた理由は、察するしかない。4人の命を奪った殺人者が目の前にいる事に対する恐怖かも知れないし、そうではないかも知れない。


「……はい……」


 陽大は社長の震えは、自分に対する恐怖ではない、と思った。


 ――ここで殺人者が働いている事を知られて、仕事が減るのを止めなきゃダメだからだ。


 さして多いとは言えない社員数の会社であるが故に、仕事の数は死活問題となる。陽大にどのような事情があろうとも、酷い現実を突きつけなければならない、そんな立場を悲しんでいるのだ、と。


 陽大の事情を知っていれば、また或いは違ったかも知れない。陽大が生け贄役であった事、そんなシステムを意図的に利用した教師がいた事は、やむにやまれぬ事情と言える。


 しかし現実には、4人を殺した「少年犯」が刑事裁判に掛けられた事を世間は、喝采を浴びせた事だけ知られている。特にネットの過去ログを漁れば、どれだけの者が刑事裁判に好意的であり、その処罰が軽い事に対し、感情的になっているかが分かる程に。


 民事では殺意は否定され、情状酌量の余地ありと勝訴しているが、それはネットで拡散されるような、皆に望まれるニュースではなかった。


 だから伝えられない。


「……お世話に、なりました。ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」


 陽大の性格では、それしか言うべき言葉はなかった。





 少年法の廃止が喝采を以て迎え入れられたのは、1948年の成立から一切、変わっていない、と勘違いされていた部分があるからだ、と言われている。正確に言うならば、数度、変えられているが、金科玉条の如く扱われていた事が一因だろう。


 まず2001年、刑事処分――つまり家庭裁判所ではなく通常の裁判所で裁かれる年齢が16歳から14歳以上へと引き下げられた。


 次に2007年、少年院送致の下限年齢を14歳から12歳へと引き下げられた。



 それらの改正を経て、第90代首相が少年法の完全廃止を宣言するに至った。



 そして並行して進められたのが厳罰化だ。


 少年法では「罪を犯すとき18歳未満に満たない者に対しては、死刑をもって処断すべきときは、無期刑を科する」とあったが、それが廃止された裁判では、陽大には所謂「永山基準」が用いられた。犯行の罪質、動機、態様、殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状を考慮したとしても、4名の殺害は看過できず、殺意の有無、未必の故意などの情状酌量などを認定したとしても、懲役3年、執行猶予4年が限界だった。


 無論、陽大のような例は希――それこそ百万人、二百万人に一人の事であるが、その確率が陽大を救うものではない。


 黙って私物を整理する陽大に誰かからか掛けられる言葉はなく、小さなディパック一つに纏まった荷物を肩に掛けて出て行く。


 それでも工場から出た直後、陽大はくるりと回れ右をし、


「お世話になりました」


 そう言って、深く頭を下げた。


 それをしなければ、自分の持つ礎が崩れてしまうような、そんな気がしているからだ。


「……」


 ゆっくり三つ数える程度の時間、頭を下げた陽大が踵を返しながら考える事は、預金通帳の中身と生活費の事だ。贅沢をしていられる経済状態ではないが、この数年、常に節制して来た。それでも何もせずにいられる期間を計算すると、精々、3ヶ月と言う所か。


 ――仕事、探さないと……。


 親に頼ると言う選択肢はない。あの事件以来、母親は公立であったがため何とか務められているものの、父親は閑職へと追いやられた。楽な生活をしている訳ではない。


 職探しは何度も繰り返してきたが、それでも慣れると言う事はない。簡単に次が決まる訳ではなく、また将来に対し、悲観的になっている性格こそが、生け贄役に選ばれた理由でもある。今、背にのし掛かってきている重圧は相当なものだ。


「はァ……」


 思わず出てくる溜息に、横付けされた車の急ブレーキの音とが重なった。


「?」


 思わず車の方を見る陽大に、車の後部座席から顔を見せる男がいた。


「弦葉陽大さんですか?」


 箱バンの後部座席から顔を見せていたのは、父親程に歳の離れた男だった。薄緑の作業服を着た男は、中小企業の社員だろうか。


「以前、弦葉さんが働かれていたタキイ工作所から紹介されて、探していました」


 今、解雇された工務店の前に務めていた場所の名前だった。


「事情があってタキイさんでは雇用を続けられなくなったけど、真面目な青年だから、と聞いています。一度、話をさせていただけませんか?」


 ドアを開いて招き入れようとするのは、次の職場を紹介してくれたと言う事だろうか。


「あ、はい」


 正に渡りに舟だ、と陽大は乗り込んだのだが――こんなタイミングで現れるものだろうか?

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