第16話「安土の手札」

「怪我してない」


 孝介が両手を広げて見せたのは、控え室で待機していた医師へ、無事だとアピールするためだった。


「戦ってねェんだから。《導》だって回避した」


「紙一重だったでしょ」


 仁和がパンと軽く、孝介の後頭部を叩いた。


 しかし紙一重であっても無傷には違いなく、今回は医師の出番はない、と退出を促すのは同様だった。


「診察してもらうんだ」


 そこへ最後に入ってきた矢矯が止めた。


 グローブを外して帽子を脱ぐ矢矯は、無傷同然の自分であるが、診察を受けるつもりでいる。


「怪我をしていなくても、初めて《方》で身体操作をして走ったんだ。消しきれなかった反動で筋肉を痛めているかも知れない。強化も保護も、全部、手動でやるしかない方法だからな。ミスはどうしても出てくる」


 デビュー戦で孝介と仁和が使っていた、身体強化とは比べものにならない負担がかかっている。


 誰でも使えるようパッケージ化された《方》ではないからこその弱点だ。身体の状態、動き、周囲の状況を全て感知――これとて手動でするしかない――を完璧にこなせる事が最前提としてあり、その感知した情報を確実にフィードバックし、念動を使って打ち消す事でしか無傷で成立させる方法がない。


 できているのかと問われると、孝介も仁和も自信はなく、事実、できているとは言い難い。走れたのだから、全くできていないとも言えないが、中途半端な成功は気をつけなければ身を蝕む。


「時速100キロで走った経験なんてなかったでしょう? 感想は?」


 医師は問いかけるのだから、退出する前に診察するつもりだ。仁和と孝介が美星の前に駆け寄ったスピードは、目測でそれくらいだった。オリンピックのゴールドメダリストが時速50キロに達していない事を考えると、身体への負担は推察しやすい。


「気分がいいって感じるより、必死の思いだった事しか感じられませんでしたよ」


 診察用の丸椅子に腰掛けた仁和の感想は、果たして医師の望んでいたものであるかどうかはわからない。


「そう」


 医師はそう言うと、ブーツと靴下を脱がせて触診を開始した。


 その結果は――、


「応用ができたのね」


 矢矯の教え方が上手かったのか、それとも仁和の適性が高かったのか、壊滅的な筋肉や神経の断裂は起こっていなかった。


「これなら《方》の治癒も必要ないわ。湿布でも貼って、暫く大人しくしていればいいでしょ」


 次は孝介だと振り向く医師だったが、触診を始める前に矢矯が口を挟む。


「ところで、……相手は?」


 心配した口調で訊ねたのは、自分が平らげた三人の事だった。


「……」


 何を言っているんだという顔をする医師であったが、医師も矢矯の性格や経歴を知っている。


「全員、無事よ。命に関わる部位を失った訳じゃない。ルゥウシェだけは美星の《導》に巻き込まれたから重傷だけど、それだけ」


 問題はないと言いながら、医師は視線を矢矯の剣へと向けた。タングステンカーバイドとコバルトの合金製だというの剣は、舞台で用意されている日本刀とは一線を画す武器だ。


「相当なスピードで、相当な鋭さを持った刃が通り過ぎていったのね。バッシュの腕や足もくっつく。リハビリ次第で、三ヶ月後に箸でご飯が食べられるわ。ルゥウシェは……ま、美星の《導》が与えたダメージは兎も角、ベクターさんが斬ったところは治る」


 心配いらないと言われると、矢矯は「そうか」と短く答えた。


 仁和と孝介も気にした様子だったが、一瞥しただけで言及はしなかった。そう言う心配をする事も含めて矢矯の性分だ。安土が二人の師に選んだ事にも、その性格は加味されている。好ましくないと感じるのならば兎も角、そう感じていないのだから問題にすべき事ではないはずだ。


 ただし、何もかもを問題にしなくていい訳ではなかった。


「こちらも、湿布と痛み止めを出しておくから、暫く安静にしていればいい」


 孝介の方は、やはり仁和に比べれば負担が強かった。筋肉痛で済む程度ではないと判断しての言葉だ。


 しかし最も強く警告の言葉を向けられたのは、次に医師が視線を向けた相手だ。


「ベクターさん」


 矢矯は自分へ視線が向けられた時、サーコートを脱ぎ、私服に着替えようとしている所だった。


「はい?」


 手を止めて発した返事は、些か気の抜けたように感じられたのだが、医師の目は笑ってなどいない。


「顔が赤黒いです。無水カフェインを常用してますね」


 矢矯が常用している薬の事だ。


「まだ深刻な影響が出ている訳ではないですが、いずれ出てきます」


 しかし矢矯は医師に対し、肩を竦めただけで受け流そうとする。



 止める気がなく、また止める訳にはいかないからだ。



 ――もう無理をする必要はないと思ってたけど、無理する必要が出て来たんでね。


 美星と共にルゥウシェの稚拙な劇団を守る必要はなくなったが、的場姉弟を鍛える必要ができた。これからも日々のスケジュールに変化はない。


「受け流してもらっては困ります」


 医師は矢矯を睨むような目つきで立ち上がる。出場者の体調も調査しているのだから、矢矯がどこでどんな薬を処方されているかも知っているからだ。


「寝るにも起きるにも無理矢理で、睡眠導入剤もベンゾジアゼピン系とチエノトリアゾロジアゼピン系を併用してますね。その影響が肝機能にも腎機能にも出ています。用量や用法を守らない服薬は――」


 尚も言葉を連ねられる矢矯だが、いい加減にしてくれとばかりに片手を突きつけて言葉を切らせた。


「何で、そこまで気にしているのかは分からりませんけどね。それ程、俺が惜しまれる存在でもないでしょう?」


 医師が、どのような価値観で自分を見ているのか、矢矯には分からない。舞台の関係者として矢矯が持つ百識の技量を計れば、それ程、惜しい人材でない事は一目瞭然だ。


「必要だからやっているだけで、必要がなくなったら止めますよ。今、いきなり生活を正せと言われても、できない理由は分かるでしょう?」


 そう言えば、医師も黙った。



 孝介と仁和の事を考えると、矢矯は生活のペースを変える事はできない。



「いいですか?」


 そんな室内へ安土がノックした音が響いた。


「お疲れ様でした」


 労いの言葉と共に向けるのは、笑み。


「ベクターさんが加われば、そう簡単に報復マッチは組めなくなります」


 全くなくなる訳ではないが、これで時間が稼げる。孝介と仁和が矢矯と同等の《方》を使えるようになれば、より適当な相手と組めるはずだ。


「頑張って」


 そう言って一礼した安土に、孝介、仁和、矢矯は揃って目を丸くした。そんな一言だけを言いに来る相手とは思っていなかったからだ。


「ベクターさんの《方》が向いていたので、安心しました」


 三人の疑問を察した安土は、労いもその確認に来るついでだと教えてくれた。


「自分の見立てが間違ってなかった事を確認しないと、不安で仕方がなかったものですから」


「まだ誰か、俺たちみたいに師匠を付ける相手がいるのか?」


 孝介の質問に、安土は答えなかった。


 ただ三人へ向けて手を振っただけで控え室を後にし、廊下で待っていた男に駆け寄る。


「すみません。お待たせしてしまって」


 安土の声に顔を向ける男は、すいと口の端を吊り上げて笑みを作った。作ったと表現するしかないのは、その笑顔が苛立ちを隠す為のものだと感じられてしまうからだ。


「構いませんよ」


 声にも同じく、苛立ちが含まれていた。


 もっともそれらは安土くらいでなければ感じ取れない、僅かな違和でしかなかった。


 矢矯よりも若干、背の低い男は三十代半ばから後半くらいだろうか。卵形の顔を明るい茶髪が縁取っているが、白髪染めだ。そろそろ白髪染めが効果をなくし始めている。


 メガネを掛けた一重まぶたと言う風に、矢矯と似た要素の多い男は、安土によって矢矯と同じポジションを頼まれる事となっている。


「多分、近々、連れてこられるはずです。鍛えてください」


 孝介や仁和と同じように、百識として鍛えて欲しいと安土は続けた。


「……ええ」


 僅かな間を置いて答えた男の目は控え室に向いていた。ドアが閉められているため、誰へ向けられているかは分からないが、男が睨んでいる、ドアの向こうから感じられる気配は矢矯のものだ。


 ――近親憎悪、ですね。


 安土はそう思っていた。二人は似た要素を多く持っている。だからこそ、孝介や仁和と同じように、未熟な百識を育てられると安土は踏んでいたのだった。

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