第10話「矢矯の破滅と再生」
矢矯が何故、欠席を知らせたのか、その理由は例え孝介と仁和が訊ねたとしても、答えはしなかった。
今朝からは、もう遅刻しない程度に寝坊できたのだが、早朝出勤が習慣化した矢矯は、睡眠不足と言う最悪の体調で最悪の一撃を受けたからだ。
――そうですか。お疲れ様でした。今までありがとうこざいました。
こんな短いメッセージで、矢矯は美星は破局した。
「……まぁ、仕方がない」
独り言のように呟いた矢矯は、当然だ、と思う反面、自分のしてきた事が、随分と空虚になってしまったようにも思う。
空虚感は数秒で苛立ちへと変わり、苛立ちの原因が怒りだと気付いた時、仕事のために割く時間はなくなった。
矢矯は孝介と仁和に「今日は行けなくなりました」と伝え、スマートフォンの電源を切った。
仕事は……そこまで集中できていずとも終わらせられる。
定時に出られるが、しかし出たからと言って、今日からは時間を持て余すような気がしていた。
その日の仕事は、さて、どうだっただろうか? 何かを注意されたり、叱られたりと言う事がなかったのだから、無事にこなす事ができたのは確かだ。
――何、食う?
夕食に迷う。いつもならばファストフードでいいと思う所だが、これ以降、贅沢な外食をする機会がなくなるのだ、と感じていた。
――それはそれで寂しい、か?
しかし豪勢な食事は選択肢にはない。
結局は、いつも通りファストフードを選んでしまうのだが、足を止めるかのように着信があった。
「?」
見覚えるある番号ではないが、そもそもメモリに同僚の連絡先すら入れていないのだから、見覚えのない番号だからと無視していてたら仕事の話だった、と言う事もあり得る。
出ない訳にはいかない。
「はい、矢矯です」
「こんばんは。安土です」
いつも通りの調子で通話をタップした矢矯だったが、あまり気安く電話をかけてきて欲しくない相手だ。
「何の用ですか? ちょっと気分が良くないので、今日は的場君たちの所へは行かないつもりですが」
特に昨夜の事があるのだから、寧ろ今日は声すら聞きたくない。思わず出そうになる溜息を堪えるのに苦労させられるが、友達とも言えない相手だからこそ無礼な行動は控えるのが矢矯の信条だ。
そんな矢矯へ投げかけられた言葉は、想像もしていなかった。
「食事にでも行きませんか?」
そんな仲ではない。
しかし安土が結論から話したのは、話に引き込む為のテクニックだ。
「あのチームから抜けたと聞いたもので」
ルゥウシェや美星のチームから離脱したと言う事を掴んだから、電話してきたのだ。
「……耳が早いですね」
どうやって掴んだのか気になったが、矢矯にそれを深く訊ねる気はない。世話人などをしているのだから、それこそ蛇の道は蛇と言うものだ。
「食事でもしながら、少し話を聞いていただけませんか? ごちそうしますよ」
「高くつきそうですが」
そう言いながら上げた視界に、愛車にもたれ掛かって電話を手にしている安土が入ってしまうものだから、矢矯は意識的に安土から目を逸らした。ここにいれば嫌でも視界に入ると、意図的だ。
「話だけでも聞いて下さい。ごちそうしますから」
安土は直接、話が出来る距離にいるにも関わらず、スマートフォンでの通話を続けながら、もう片方の手に持った愛車のスマートキーを示した。送っていくから自転車は置いて行ってくれ、と言うジェスチャーだ。
――車、必要か?
自分の車好きを棚に上げ、矢矯は思った。人工島はゼロから都市計画が施行された場所であるから、公共交通機関が充実しているし、商業区が集中して作られているのだから、態々、自家用車で移動する必要はない。
矢矯と同じく、自分の車で移動する方を好む安土が愛車を走らせた先は、矢矯が「縁の遠い場所」と思う程の、括弧書きで「高級」と書く程の中華料理店――酒家だ。
「いらっしゃいませ」
出迎える店員はタキシード姿。案内される廊下は和モダンと言った風の作りで、間接照明が落ち着いた雰囲気を出していた。
――ジャケットがいるんじゃないのか?
仕事帰りに気軽に寄れる店ではない、と矢矯は自分の姿を気にしていたが、安土は矢矯が気にしている事こそを気にしていた。
「構いませんよ。私の連れなんですから」
安土ははにかみながら、誰も文句は言わないと言う。行き付けだ。そして矢矯も、服装は兎も角、ガラが悪いわけではない。
「高級感はありますけど、お高いお店ではありませんから」
案内された個室で、安土は飲み物のメニューを手渡しながら、「お酒は?」と訊ね、その直後に苦笑いさせられる。
「医者から止められてます」
矢矯は飲酒できない。こんな無茶な生活をしているのだから、当然のように薬を服用している。肝臓の値はかなり悪い。
「そうでした」
調べ上げて把握している安土の謝罪は、それも含めて計算だ。
「お茶で良いですね」
安土が頼むのは飲み物だけ。
――既にコースで予約を入れていた? 断られると思ってなかったのか?
怪訝そうにする矢矯へ、で安土が切り出す。
「単刀直入に言います。あのチームを抜けたのならば、的場姉弟のチームに参加していただけませんか?」
「あまり、気分が乗りません」
矢矯は即答した。的場姉弟の事は気になるが、今すぐに舞台へ上がる気にはなれない。
――それだけ、メイさんは特別だったんだ。
矢矯が早朝出勤を始めとする無茶を繰り返しているのは、何とか美星と会う時間を作るためだった。
つまり時間があるから会っていたのではなく、時間を作って会ってきた――。
的場姉弟は、まだそこまでの存在ではない。
「美星さんの事ですか」
安土には散々、想像し、想定していた展開だ。
「失礼ながら調べさせてもらいました。矢矯さんは、かなり無茶なスケジュールで仕事をしてまで時間を作っていましたけど、彼女、作ってくれていましたか? 昨日も言いましたが、大切な存在であるはずの貴方を打ち上げに呼ばず、私を誘うようなのを見ていると、とてもそうとは思えません」
安土へ反論らしい反論はできない。事実だ。それ以外の何物でもない。
「それは、そうですが……」
矢矯も、どれ程、美星が自分にしてくれたを考えても、今は何も言えない。
覚えがない、と思ってしまう。
「チームを抜けたと言う事は、彼女から何か返答があったでしょう? 返事は、もうしましたか?」
「いえ……」
美星の簡単な返事を見抜いている安土であるから、矢矯は居心地を悪くする。そんな話をする程、親しい訳ではない二人だ。丁度、飲み物が運ばれてきた所だが、矢矯はこの一杯で席を立ってしまいたい衝動にも駆られる。
その雰囲気を安土は待ち構えていた。
「もっと言います。的場姉弟の制裁マッチが、決まったんです」
ショックにショックを重ねる。
「ルゥウシェとバッシュの……つまり、矢矯さんが昨日までいたチームです」
――乗って下さい。
「……」
祈るような気持ちで見つめる安土は、ウーロン茶を一口、口に含んだ矢矯に、軽い動揺が浮かんだ事を見逃さない。
――あの二人が? あいつらと?
矢矯でも、勝ち目があるかないかなど、考えるまでもなかった。まだ鍛える事は山ほど、ある。
――身体操作、感知、その2種の《方》を効率的に使う術……まだ何も教えていない!
矢矯が身につけている事を全て教えてからでなければ、ルゥウシェやバッシュの使う《導》に対抗する事は不可能だ。
「手を貸していただけませんか?」
矢矯が新加入して欲しいと言う願いは切実だ。
「しかし……」
それでも矢矯が返事をできずにいるのは、昨日、美星へ送ったメッセージは勢いに任せてしまったところもあるからだ。
美星からの返信とて、売り言葉に買い言葉だと思っている節もある。
「もし、僅かでも美星さんが、矢矯さんの事を大切に思っていて、この事を惜しんでいると思うならば、メッセージを送ってみては?」
しかし安土は言外に、美星は売り言葉に買い言葉ではない、と断言する。
「少しは自分にも悪い所があると思っているなら、今まで矢矯さんが必死になって稼いできたものを返せと言えば、考える事柄もあるはずで。無視はできませんよ」
矢矯が稼いできたもの――金ではない。
矢矯が最も無茶をして稼いできたのは、「時間」だ。
「返せない事を詫びてくるはずでしょう?」
もしも矢矯の想いと同じ想いを抱いていたならば、失った時間を取り返す事を飲むはずだ、と言う言葉は、安土ならではの説得力があった。
「……」
矢矯は暫く黙っていたが、ポケットからスマートフォンを取り出し、IMクライアントを立ち上げる。
――お疲れ様でした。つきましては、渡してきた資金の返却日を決めたいです。いつなら返していただけますか?
時間のことは、言わなかった。学芸会程度の出来でしかない劇団に投資する理由もなくなったのだからと言って、今までの分、全てを返せと言うのは乱暴な話かも知れない、と思いながら打ったメッセージだった。
安土には、美星の返事など予想も想像も容易いが。
「時間の事は言わなかったですね?」
そして矢矯が送るメッセージの内容も、予想できる。ウーロン茶を飲みながら笑みを浮かべて矢矯を見返す安土は、言ったのは金の事だけだと確信している。理不尽だと感じる事を言う矢矯ではない。メッセージを見ずとも、言ったのは金の事だけだと分かってしまう。
そして美星が送ってきたやたらと素早い返信内容は、安土の予想通りだった。
――お断りします。あれは全て、今は私が管理しているものです。
この返信は予想以上に早かった。
「返してはくれないようです」
矢矯は天を仰ぐように、背を逸らせた。
返すはずがない。そもそも返す宛てがないのだから。
「まぁ、そうでしょうね。でも多分、続きがありますよ」
矢矯が首を傾げさせられるのは、安土が言う「続き」が何を指しているのか分かっていない。
「追い打ちがあるんですよ」
安土の言う「追い打ち」は素早い。
――そんな事を言うなら、あなたも返して下さい。私が、あなたに使った時間の全てです。
時間――矢矯の先回りをしてきた。
矢矯にとっては想像の埒外であったから、その衝撃は凄まじく、何もかもが怒りに転じてしまうに十分だった。
「ふざけんな……ッ」
ギッと歯軋りした矢矯は、思わず吐き捨てた。
――どれだけの時間を、俺の為に作ってくれたのか!?
これは美星自身に訊かなければ分からないが、矢矯が想像できる範囲では、少なくともルゥウシェやバッシュのために作った時間よりも短い。
「先回りされましたか?」
安土は視線で告げる。
――多分、もう一通、来るはずですよ。
事実、間髪入れずに来た。ただし、美星からではない。
――あんた、抜けたのにメイにメッセ、送ってるんだ。
ルゥウシェからだ。
――返して欲しいものがありますからね。
――あんた、しつこいんでしょ! ちょっとでも脳があるんなら、メイの気持ちを考えろ! 迷惑かけてるんだよ!
矢矯がどう返事しようと、用意していた言葉だったのだろう。
――援護射撃っぽいのが来たでしょう?
矢矯を見る安土。
――言い返したい気持ちをかき立てられているでしょう?
安土は確信しているが故に、一も二もなく飛びつく提案ができる。
「反撃する気はありますか?」
矢矯が頷くと、安土は上ずろうとする声を抑えつけた。
「インターネットバンキングは、していますか? 劇団へ渡すお金ですけど」
「してます。その方が、決済しやすいらしいので」
――ここも言われるがままに行動しましたね。
意外な一面だと思うが、これとて安土にとっては好ましい。
「なら先に使ってしまえばいいんですよ」
安土がスマートフォンで示したのは、フリーマーケットのアプリ画面。
「これ、私が出品しているバッグです」
ダチョウの革を使った、特に値段の高い白いバッグだ。
「購入して下さい。そのままお金はお返ししますから」
舞台が終わったのが昨日なのだから、精算はまだのはずだ。
今ならば使える――ルゥウシェの手形決済は空手形にできる。
「調整しますから、全額、使って下さい。心配せずとも、お金は後からお返ししますよ」
矢矯の行動は早かった。
「多分、これで態度を変えてきますよ」
安土がククッと喉を鳴らし、ウェイターが運んできたオードブルに手を付ける。
「私も資金を引き揚げましたから。次の芝居に必要な資金、かなり無理しなけば集まらなくなったはずです。となれば……」
安土の言葉が全て出る前に、矢矯のスマートフォンがメッセージ着信を告げた。
――秒単位ですか。
ギリギリだった事には、思わず安土も苦笑いさせられそうになるが、矢矯が見せたメッセージの内容が苦笑いすら封じ込めてしまう。
――矢矯さんの気持ちも、分からないでもないです。一度、私とバッシュを交えて、話をしませんか? 第三者がいる方が、ちゃんと話できるでしょう?
一瞬で掌を返す様は、もうギャグマンガ――劇団であるのに喜劇とは思えない――か何かの世界だ。
矢矯の資金を引き出さなくされれば、
「そんな話し合い、する必要はないですよ」
安土が口の端を徐々に吊り上げていく。
――矢矯さんが対峙しているのは、言わばルゥウシェ陣営でしょうに。
第三者を交えた話し合いと言いながら、ルゥウシェもバッシュも「第三者」などではないのだ。
「相手がしたいのは、矢矯さんを袋叩きにする事だけなんですから」
それで自分たちのプライドを満足させ、出資した金の全てと土下座を引き替えに、二度と美星に近づかない事で許してやると言う落着点しか用意していない。
「けれど、日時の指定はしてみて下さい。ただし、あちらに任せると言えば、適当にはぐらかし始めるかも知れませんし。そうですね――」
安土の表情が、今までになく醜悪なものになる。
「来週の金曜日……とか」
「……何かあるんですか?」
問いかけた矢矯であったが、安土は「いいから」と急かした。
返信は、やはり早かった。
――いいですよ。
「だったら、やっぱり矢矯さんの事なんか考えてないって事ですよ。その日は――」
安土は堪えられず吹き出した。
「制裁マッチの日なんですから」
執行する力を持つ運営なのだから、ルゥウシェの気分や都合で日時の変更などできない。
「どうせギリギリでドタキャン……。矢矯さんが一番、嫌いな事でしょう」
ドタキャンではなく、制裁マッチを早く済ましてしまうつもりかも知れないが、その可能性を口にする安土ではない。
「馬鹿にしてる」
いよいよ矢矯が安土が望む方向に進んでいく。
「馬鹿にしてるでしょうね」
安土は食事の手を止め、真剣な顔を向けた。
「ルゥウシェも美星も、こう言う言葉を由とするでしょう?」
そして出した言葉は――、
「一人の時は一人でいる事に、二人の時は二人でいる事に、自分がしている事に集中したいの」
事実、美星もルゥウシェも、その言葉を口にしていた。
「つまり、相手が好きな事でも、自分が嫌いな事は一切、我慢しないと言う事です。相手の好む事をする時は、それがたまたま自分の好きな事と被っていた時だけ。自分が我慢する時は、辛うじて自分の好きな事に掠っていた時」
安土はハンと鼻を鳴らした。
「それは我が儘と言う事です。究極の」
だから当事者であるのに、平気で中立の第三者だと偽れる。もし矢矯が「話し合いの場」に来たら、果たしてどれ程の罵詈雑言を重ねるかは、安土すら想像できない。
「矢矯さんは、自分が嫌いな事、辛い事も、相手のためならばと我慢してきたでしょう? それを相手に強制した事がないと言うだけで、ルゥウシェや美星のしてきた我慢なんて比較にならない忍耐力がありましたよ」
茶を一口、飲む間が空くが、矢矯は言葉を挟まなかった。
「最近、よく言われる言葉がありますよね。当事者が幸せであればいい。余人が口を挟む事ではない、と言うの。でも、そう言う人たちって、愛すると言う言葉を思い遣るに置き換えて考えた場合、酷く歪な関係にしかなっていない人が多いんです。相手が何を望み、何を不満とするかを知らなければ、良い関係なんて築きようがないんですから。その思い遣りを、相手に伝えなければいけないでしょう。話し合いでも、以心伝心でも、行為でも何でも良いですけど、以心伝心なんて何十年と連れ添った夫婦でも無い限り無理ですし、話し合いとか行為とか……」
安土が冷笑を浮かべ、矢矯のスマートフォンへと向けた。行為ならば、そこに表示させられるメッセージが雄弁だ。
「二人でいる時は二人でいる事に、一人でいる時は一人でいる事に集中したいと言って、結局、自分の都合のいい時だけしか時間を割かないなんていうのでは、十分な話し合いなんて無理な話ですよ」
そんな言葉を口にしながらも、安土は矢矯が拳を握っている事に気付いていた。
「矢矯さんが、突然、斬りつけるように話を持っていった事に対し、卑怯だと感じてしまっているのは、分かりますよ。正義感から来ている感情だと思います。しかし、矢矯さんの正義感に気付いても、それでも何もせず、寄り添わなかった美星さんの責任は重大です。そしてルゥウシェやバッシュは、この期間、矢矯さんがいてもいなくても同じだと感じていた訳でしょう。だから蔑ろにできるんです。情がなかったとも言い換えられます。情や思い遣りは、小出しにていいものではないはずです」
矢矯に何も問題がなかったとまでは思わないが、美星の責任より重いとは考えられないし、ルゥウシェやバッシュのしたことは「酷い仕打ち」としか言いようがない。
「その忍耐力と正義感が、必要なんです」
だから――と、その次の言葉を、安土は選んだ。
「だから、頼らせて下さい。矢矯さん。お願いします」
「……」
それでも矢矯からの言葉は、出すまでに時間が必要だった。
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