第9話「教室の非日常」

 ――やる事、いっぱいだ。


 翌朝、少し早く登校した教室で、孝介は拳を握っては開くという行動を繰り返していた。《方》で身体を動かすという事、そのものは難しい作業ではなくなっている。難しいのは、やはり後にも先にも効率的な動きだ。拳を握る事だけでも、その練習になる。


 単純な動作の繰り返しであるから、これは練習と言うよりもリハビリか訓練に近く、ならば早朝の教室は集中したい時には最適だ。


 ――程好く明るくて、人がいない。


 ただ孝介がそう思えるのも、クラスメートが登校して来始める僅かばかりの時間だけだ。そうそう奇妙な動きはできなくなる。


「おっと……」


 訓練に夢中になっていた孝介は、思わず呟き動作を止めた。他者から見れば、黙々と開いて閉じてを繰り返す両手を見つめている等、ノイローゼの兆候と見られてしまいそうなくらい奇妙な動きだったはずだ。


 いずれ誰かが来る場所なのだから、考えて行動していなければ、ただの変わり者に見られてしまう。


 ――周囲に誰がいるか、何があるかを感知する事も必要になる。


 ふと耳に蘇ってきた矢矯の言葉は、こういう事態を想定して言った訳ではない。


 ――真っ直ぐ前を向いていても、周囲に誰がいて、何があるか。それぞれの距離はどれくらいか。移動するとして、どれだけの時間がかかるか。自分が行くならば? 相手が来るならば?


 それらを把握して初めて、剣を振るうだけの隙を窺えるのだ、と言うのが真意だ。ただし身体操作にせよ感知にせよ、《方》の中でも簡単な部類に含まれるのだが、何の消耗もなく使い続けられるものではない。多用すれば孝介や仁和では荷が勝ちすぎる。


 ――やる事、いっぱいだ。


 もう一度、握って開いてを繰り返した所で、不意に教室が騒がしくなった。


「ちょっと困ったことになってさァ」


 聞こえてきたのは女子生徒の声。顎を殆ど動かさず、頭のてっぺんから出しているような声は高く、どうにも孝介の癪に障ってしまう。髪を茶色に染め、耳にはピアスホールを開け、道ばたで売っているような安いシルバーアクセサリーをつけている女子生徒は、「街で見つけた~」などと見出しが付けられ、情報誌に写真が載ったりするタイプだった。


 それでも出された言葉に比べれば、不快感は随分、マシだった。


「失敗しちゃってさァ。堕ろさなきゃならないんだよねェ」


 主語が省略されているが、何を「堕ろさなきゃならない」かは想像が付く。


 ――子供かよ。


 孝介が言ったのは、堕ろさなければならない対象の事だろうか、それとも女子生徒の事であろうか。


 ただ女子生徒は、誰がどう思っていようと関係なく言葉を続けた。


「だからぁ、一人500円でいいからさぁ、カンパして欲しいワケよ」


 中絶費用のカンパを募っているが、それ以上は孝介の興味を引かなかった。そもそも顔と名前が一致している程度でしかない相手には500円でも渡したいとは思わない。


 しかし無視していればいたで、向こうからやってくる。


「500円」


 孝介の席の前へやってきた女子生徒は、遠慮会釈なしにハンドバッグを開き、ここへ入れろと顎をしゃくった。


「……」


 孝介は当然、無視したのだが、顔を逸らした途端、間髪入れずに机をバンッと叩き鳴らされた。


「ちよっとぉ! 無視してんじゃないわよ」


 強調したかったのか、「ちょっと」と発音していない。


「俺は勘弁してくれよ。他を当たってくれ」


 姉弟二人暮らしなのだから、他人にカンパする余裕などはないんだ、と言葉の裏に潜ませたのだが、それを察してくれる相手ではない。クラス全体がカンパをしている状況なのだから「空気を読め」と言う雰囲気を出してくるだけだ。


「あんたさぁ、昔ぃ死んだ親の金で随分と派手に暮らしてるらしいじゃないのォ?


 500円程度で何いってんのよぉ」


 大声になればなる程、女子生徒の声は高くなり、孝介は顔を顰める度合いを強めていく。


「その遺産を、卒業まで後、2年近く保たさなきゃなんねェんだよ」


 イライラを募らせて眉間に皺を寄せていくと、言う必要のない本音が出てしまう。


「なんで、勝手に腹ボテになって、犬や猫みたいに中絶する人に恵まなきゃならないんだよ?」


 それは呟く程度の声であったから、幸い女子生徒の耳には届かなかったのだが、それでも断られて気分が良くなる事もない。


「500円程度で、アタシを怒らせないでくれるぅ?」


 クラスの空気がおかしな方向へと流れていこうとする中で、がらりと教室のドアが開かれた。


 姿を見せたのは、女子生徒と同系のファッションに身を包んだ男子生徒。女子生徒の彼氏だ。


「どうした?」


 騒がしいけどカンパが順調に集まっていないのか、と訊ねれば、女子生徒は孝介を指差した。


「ああ、猛~! こいつがカンパしてくれないってェ」


「何~?」


 猛はズカズカと大股で孝介へ近寄ってくると、女子生徒がしたように、強く孝介の机を叩いた。


「なぁ、お前。500円程度だぜ? クラスメートが困ってるってェのに、カンパもしねェのかよ」


「だから、勘弁してくれよ」


 孝介は即答で繰り返すだけだが、その弱気な声色とは裏腹に相手の動きを見る目だけは情けなさを滲ませない。


「てめェ!」


 激高した猛が拳を振り上げるも、孝介は立ち上がり様に腕を掴んだ。


 ――動きがハッキリと見えた!


 頭に叩き込んでいた身体操作のイメージが、今、発揮されたのだった。


 ――掴んだ腕を引っ張りながら背後へ、つんのめったところで腕を放し、背を押す!


 その時、孝介は今までで一番、上手く身体をコントロールできたと自覚した。


 猛は、そのまま床を滑走する事になる。


「てめェ……ぶっ殺すぞ!」


 悲鳴を噛み殺す周囲を余所に、猛は倒れた机から零れたカッターナイフを手にしていた。精々、「ひっ」という短く小さい悲鳴で済んだのは、このカップルが多かれ少なかれ学内に影響力を持っているからだろう。


 ――使いこなせるのか?


 しかし孝介は涼しい顔だ。つい先日、ナイフで戦った事と、今、ナイフと木刀という違いはあるが、刃物を武器として扱う術を練習している孝介であるから思う事がある。


 ――ナイフを使う練習、一日、何時間やってる? 何日、続けてきた? まず間違いなくしていなェだろ。


 ナイフを抜けば誰もが逃げ腰――猛ならばへっぴり腰と言うだろう――になると思っているから抜いただけだ。逃げ腰ならば難しい事ではない。相手が反撃する意志を持っていないのだから、突く、斬る事に集中すればいい。


 ――相手が《導》を持っていても、同じだ。逃げるにせよ、戦う足だけは残してかなくちゃならない。


 これを矢矯は「回避」と言うのだと教えてくれた。


 ――さて……。


 どうするかと《方》を体中に巡らす孝介であったが、猛へと500円玉が投げ渡された事で中断されてしまう。


「ゴメンゴメン。弟の分は、私が払うわ。だから、ぶっそうなの引っ込めて」


 仁和が軽い音を立てさせ、500円玉を指で弾いたのだった。


 本来ならば、猛も引っ込みが付かない所であるが、騒がしくなってきた廊下の喧噪に教師の声を聞いてしまうと引っ込むしかない。


「……チッ。最初から出しとけよ」


 捨て台詞を残し、猛とその彼女は教室から出て行った。回る教室はここだけでない。時間が勿体ない。


「……悪ィ」


 ばつの悪い顔をする孝介に対し、仁和の返答が「別に」と短い。


 手に持ったスマートフォンに映る受信メッセージこそを、孝介に見せたいのだ。


「ベクターさんから」


「!」


 孝介が慌てて確認した自分のスマートフォンにも、同じくメッセージを受信されていた。


 内容は――、


「あ、そうなんだ……」


 孝介が落胆するようなものだった。


 ――すみません。今夜は、行けなくなりました。


 理由は何も書かれていないが、理由を問うメッセージは送らない。理由もなく矢矯が欠席する訳がない、と言うくらいは心得ている。


「それでも俺たちは、放課後、続けるんだろう?」


「勿論」


 矢矯が来ようと来まいと、孝介と仁和の行動は変わらない。安土から制裁マッチは日時が決定した連絡はないが、このまま永遠に来ないと言う話にはなるまい。猛と彼女ではないが、時間は惜しい。


「頑張ろう」


「うん」


 軽く握った拳を胸の前で構えてみせた姉に、弟は頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る