第8話「積み木崩し」

 そのままの流れで、練習を終えてから今夜も三人で夕食、となったならば、矢矯が今夜、感じる事になる屈辱はなかった。


 だが現実には、日が落ちるくらいで矢矯は二人と別れなければならなかった。


 ――間に合うか?


 スマートフォンで時刻を確認しながら愛車に乗り込む矢矯は、心持ち急いでいたが、それ程、ギリギリの時刻ではない。5分前行動が当たり前になってしまっている矢矯は、その5分前ですらギリギリに感じてしまうからだ。ただ車で向かえば駐車場を探す事となり、その分、時間を浪費してしまうのだが、それを差し引いても早い時刻から行動している。


 ――キャパ200の劇場に専用駐車場なんてねェよ。30分で100円か。


 ボヤきながら車から降りる矢矯は、ふと視界に一人、見覚えのある女を捉える。


「こんばんは、矢矯さん」


 にこやかな笑みと共に挨拶してきた安土は、矢矯が来るのを待ち構えていた。


「こんばんは」


 矢矯が挨拶を返しながら、安土が降りてきた車を見遣った。一体、いくらから「高級車」と言うのかは人それぞれだが、矢矯から見れば十分、高級なセダンだ。


「黒塗りより、白の方が高級感があるでしょう?」


「それは同感です」


 赤い愛車の矢矯であるが、何を考えていたのかを先回りし、安土は簡単な一言で済ます。車の話がしたいのではない。


「今夜、劇団の公演があるんでしょう?」


 劇団――矢矯が維持に協力しているルゥウシェの貧乏劇団だ。


「ええ。初日です」


 矢矯は初日と言ったが、この一度しか公演はない。


「そうですね。私も観劇です」


 安土はそう言いながら、上着の内ポケットに手を入れ、そこからチケットを一枚、見せた。チケットは今夜の公演のものだ。


「何故、それを?」


 矢矯が思わずそう訊ねてしまう貧乏劇団の観客など、身内しかいない。


 しかし態々、買ったのかと思えば、簡潔な回答が出てくる。


「小口ですけど、出資者なんです」


 何故、出資しているかは訊く必要はあるまい。


 ――俺をコーチ役にするためか?


 矢矯が思った事が正解であるかどうかは分からないが、安土も正解かどうかを言うつもりがない。


「割と厳しいですよね」


 駐車場から出て劇場へ向かう道々、安土は饒舌だった。


「どこもそうとは言えませんけど、劇団の台所事情って火の車という所が多くて、赤字の額が百万や二百万と言う所も少なくないんでしょう?」


 それが戦う理由だろうと言外に言われるのは、矢矯としては、あまり面白い話になるとは思えない。


「隙間、ありますね」


 まだ開演まで時間があるとは言え、スカスカの客席を見渡した安土は態とらしく肩を竦めて見せた。


「黒字ではないでしょうね」


 席に座らず立っている矢矯は、安土の事よりも美星がここにいないかと周囲を見渡していた。


 ――メイさん……来てるだろ?


 全席指定ではなく自由席であるから、安土の隣よりも美星の隣に座りたいと探すのだが、見つけた美星の姿は、恐らくは他劇団の役者と思われる一団と最前列に陣取っていた。


「……あぶれてしまいましたか?」


 心持ち、肩を落として美星の方を見ている矢矯に、安土は自分の隣を指差した。これだけ隙間があるのだから、別に安土の隣に座る必要はないのだが、このタイミングで指されれば腰を下ろしてしまう。


「すみません」


 一度、断ってから腰を下ろした矢矯に、安土は「いえいえ」と言いながら笑った。


 それ以上、矢矯から言う事はなく、開演を迎える。


 隙間は埋まりきらなかった。


 さて、その公演内容と言えば――、安土も欠伸が出てしまいそうな内容だった。


 ――衣装も機材も一流と言えば一流。カクテルビームなんかの色彩演出も多彩ですけど……。


 安土が横目で見遣ると、矢矯ですら欠伸をしていた。とは言っても、矢矯は低血圧から来る頭痛持ちであり、欠伸は体質だ。退屈と思って繰り返している訳ではないのかも知れないが。


 劇から興味が失せてしまうと、安土の興味は周囲に向く。


 客席を見回すと、退屈しているのは少数派で、9割程度は何やら盛り上がりを見せている。9割は同業者、もしくはルゥウシェたちの友達だろう。内輪のノリが強いのだから、盛り上がらない訳がない。


 安土の興味を引くのは、退屈そうにしている1割の方だ。


 ――友達から誘われて、お義理で見に来てたと言う所ですか? つまらなさがトラウマにならなければいいですけど。


 そう思いつつ、もう一度、視線を矢矯へ戻す。


 ――矢矯さんは、どう思われているのでしょうか?


 直接、訊かないくらいの分別は、安土にもある。


 ――終わってしまいました? 山場はどこだったんですか?


 安土の周囲から疎らな拍手が起こり、緞帳が降りた。


「面白かったですか?」


 皆が足早に出て行く中、席を立とうとしない矢矯へ訊ねた事に他意などはない。


「片付けが済んでから、食事にでも誘おうかと思ってます」


 誰を誘うのかと質問を続ける事は、野暮というものだろう。





 しかし現実は、片付けが終わった途端、美星はルゥウシェたちと合流した。


「メイさん」


 矢矯が声をかけるまで、美星はルゥウシェやバッシュを労いつつ談笑していた。


「ああ、来てくれてたんだ。ありがとう」


 美星もにこやかに答えるのだが、矢矯が望む言葉は出てこない。


「何とか公演を終えられたわ。ベクターさんも、ありがとう」


「いや、俺は何も――」


 少なからず矢矯の投資もあり、そのお陰でできた公演であるが、それ言及する矢矯ではない。


「それより、これから、どうするの?」


 良ければ食事でも――と続ける事ができないのは、先日、矢矯はデートを断られたばかりだからだ。


「うん、これからルーたちと打ち上げ。ごめんね。また」


 美星は片手を振りながら、またルゥウシェたちの輪に入っていく。


「そう……か……」


 矢矯も、流石に頬を引きつらせていた。


「こんばんは」


 そんな輪へ安土が一歩、踏み出す。


「今回、チケットをありがとうございました。投資させていただいた安土です」


 にこやかに微笑むと、輪の中からルゥウシェが慌てて出て来た。


「ありがとうございます! お陰で今回の公演を無事、終わらせる事ができました!」


 同額以上の出資をしていると言うのに、矢矯へ向けた事などない声だった。


「ありがとうございます」


 美星も同様に感謝の言葉を口にした。


「大きな事はしていません。夢はお金では買えないと言えば、ありきたりな言い方になってしまいますが、いいじゃないですか。夢を現実にする為にお金が必要な事もあります」


 安土も、礼を繰り返すルゥウシェと美星も、笑顔だ。



 しかし次に出て来た言葉は、誰が望むものだっただろうか。



「そうだ。この後、打ち上げなんですよ。どうですか? 安居酒屋ですけど、一緒に」


 安土は一瞬、矢矯がどんな顔をしただろうか、と顔を向けそうになったが、自分を制した。


 ――ここは矢矯さんとの事を疑われたくありません。


 振り向くのは不自然だ。


「気の置けない仲間同士で楽しんで下さい。私は、お気持ちだけで十分ですよ」


「そうですか。残念です」


 社交辞令を口にしてルゥウシェは輪の中へ戻り、そのまま輪は繁華街の方へ移動した。


「仕方ないですね」


 安土は振り返りながら矢矯へ声をかけたつもりだったが、矢矯は既に背を見せていた。


「おっとっと」


 慌てて追いかけた安土は、追いついた所でまくし立てた。


「こう言う劇団では、俳優達がノーギャラである事は当然で、その俳優陣にもチケットノルマが課せられているって言いますよね。ノルマが果たせなければ、そのチケット代は持ち出し。その額は一人当たり十万超と言うのも当たり前の話になっているとかも、良く聞く話です」


 面白い話にはならない上に、今、矢矯は安土の話など聞きたくない。足が速まるが、安土もそれに併せて続ける。


「そんなノルマに頼った結果、客席には知り合いしかいない、という寂しい状況になっています。そこまでは貧乏劇団のイメージから想像できる範囲ですけど、今日の観客には、特に知り合いや友達が多かったですね。ノルマの消費を、演劇活動を通して知り合った俳優同士で行っているんでしょう」


 嘲笑が混じっていく。


「自分の公演を見に来てもらう代わりに、知り合いの公演を見に行くと言う事になっていますね、完全に。こんな流れでは、劇団そのものの収支は保たれても、劇団員の支出は増え続けてしまいます」


「あの……」


 矢矯は足を止め、何故、自分にそんな話をするのか、と安土を見返しても話は止まらない。


「ステップアップを考えるなら、第一歩は同じ小劇場でも審査の甘いところから、審査の厳しいところへと移っていく事となりますが、……じり貧ですよ、この劇団は」


 それは「前置き」だからだ。


「小劇場でも、審査の厳しい所に出演している劇団ほど面白いし、こんな内輪感やヌルさがなくなっていきます。出資する価値があるなら、そんな劇団ですよ。投資は失敗するものですが、大失敗です」


 自嘲気味に言うが、含まれているのは嘲笑しかない。大して面白くもない劇に、知り合いが演出から脚本、演出、出演までをこなしていると言う事だけで盛り上がっている9割の「知り合い」がいる空間は、内輪でない者にとってはヌルさしか感じられない。そして内輪感は居心地の悪さにも繋がっている。


「矢矯さん、いいんですか? 打ち上げに貴方を誘わず、私を誘うような人たちに」


「……ほっといてほしいです」


 矢矯はそう言うと、安土を一瞥し、それ以上は相手にしなかった。


「……」


 安土が果たしてどういう顔をしていか、矢矯は確認しなかった。



 笑っていたはずだ。



 愛車に戻った矢矯が取った行動は、安土が望んだ通りのものだったのだから。


 IMクライアントを立ち上げ、美星のIDを入力する。


 その言葉は、短い。



 ――俺はもう降りる。



 内輪だけで盛り上がり、矢矯の中で疎外感ばかりが立ち上がるだけならば、我慢できた。


 しかし安土を誘い、自分を誘わない疎外感は、我慢できなかった。


 それに対する返答は――その日は来なかったが。

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