第7話「覚醒・的場姉弟」

 幸運と不幸は背中合わせだ。


 翌朝が早いと言って夕食後は早々に辞した矢矯は、いつも通りに早朝から――上司の視線を気にしながら――仕事をこなし、定時に庁舎を出る。



 庁舎を出ながら連絡する相手は――、


「……」


 美星からの返事は早かったのだが、文面は矢矯が求め、納得するものではなかった。


 ――今日、ルーの本番だから。


 二人で映画というわけにいかないのだ。そもそも美星と矢矯が「舞台」に上がっている理由が劇団の援助なのだから、今日の本番を欠席して映画へ行くと言う選択肢はない。


 ――チケット、ありますか?


 軽く逡巡しながらメッセージを送ったのは、一緒に観劇も悪くないと思ったからだが、やはり期待通りには行かない。


 ――当日券もあったと思います。


 特別に矢矯の分が用意されている、と言うようなことはなかった。


 ――ありがとうございます。開演は7時でしたっけ? その頃、向かいます。


 そう結んだメッセージに、返事はなかく、矢矯は溜息すらなくスマートフォンをシザーバッグに入れた。


 しかし「それでもいい」と投げ遣りになりつつも思ってしまうのは、矢矯の「正体」がそうだからだ。今、タイプした文面を思い浮かべ、敬体だらけの遣り取りは果たして恋人同士が遣り取りなのだろうか、と浮かんだ疑問も、すぐに消えた。


 そんな自分が的場姉弟にものを教えるなど、随分と偉ぶった行動ではないか、と思ってしまうのだが、人から頼まれ、また頼られているものを中途半端で投げ出すのは格好の付かない話だ、と言い訳がましくなってしまう。


「いや、止めよう」


 ひとちても、恨み言は浮かんでくる。


 ――7時開演なら、それまで晩ご飯に付き合ってくれてもいいのにな。


 そのメッセージは送らない。今日、送られてきた短いメッセージが伝えている事は、美星は矢矯と食事に行くよりも、最後の打ち合わせをしているルゥウシェと弁当を食べる方を選ぶと言う事なのだから。


 そんな苦い表情だけが残ってしまった所へ、シザーバッグからもう一度、メッセージ着信音が聞こえてきた。


 スマートフォンを取りだして確認すると、そこにあるのは孝介からの連絡だった。


 ――ベクターさん、今日も来ていただけますか?


 今日も二人は放課後から、昨日と同じ銭湯で言われた通りの練習を続けている。一日や二日で身につくはずがないからこそ、矢矯は反復練習を命じていた。


 毎日、眼前で見ていてやる必要はないのだが、矢矯は断らなかった。


 ――7時から用事があるので、少ししか見れませんけど、行きますよ。


 返信は矢矯が笑ってしまう程、早い。


 ――待ってます!


 一言であるが、孝介が画面を凝視して待っていたのかと思うと、矢矯の顔には自然と笑みが浮かんだ。





「ベクターさん、来るって」


 スマートフォンを傍らに置きながら、孝介は明るい顔を姉へと向けた。


「よかった」


 仁和が言う「よかった」は、弟が肩で息をしている状態を見ての事だった。


 短文を打つだけで息が上がるのは、今、孝介は矢矯に教えられた通り身体を《方》で操作しているからだ。手足を振り回すだけならば、昨夜のうちにできるようになっていた。しかし後先を考えない「当たればいい」くらいで振り回す事と、スマートフォンを操作するような精密な操作を比べると、後者の方が比較にならない程、難しい。


 額から汗が噴き出す程の集中力と、息が上がる程の緊張を引き替えに、孝介はIMクライアントを立ち上げ、メッセージを送る事ができた。これは拳を強振する事よりも、余程、難しい。



 それを矢矯に報告できる事を指して、仁和は「よかった」と言ったのだった。



「ああ。よかったぜ」


 携帯電話から木刀へと持ち替え、孝介も練習を再開した。ゆっくりと正確なフォームを身体に叩き込む練習であるが、その高揚した気持ちからか、振るった木刀はフォームの確認ができない程、速かった。


「ちょっと、ちょっと」


 仁和から注意されて初めて気付く孝介は、メッセージを送れた気分に乗せられてしまっていた。


「いけね」


 構え直した孝介は改めて構えを取ったが、浮き足立っているのは間違いない。


「ブレてた。傍から見てもブレてたんだから、相当なものだったわよ」


 仁和から飛ぶ溜息を混じりの指摘は、真正面で相対していずとも、軌道が逸れていたかハッキリと見て取れたからこそだ。最短距離を振り下ろさなければ、相手の攻撃が先に命中する。そうならないための練習が、正しいフォームを叩き込む、この練習だ。その上で、《方》を使った身体操作でスピードを付けるからこそ、ただの振り下ろしが不破の攻撃となる。


「気をつけるよ」


 そう言いながら姉の姿を横目で見た孝介は、矢矯から投げかけられた言葉がリフレインしている。


 ――孝介君は……、もう少しでもできた方が良い。


 姉の2倍、3倍できなければ生き残れないと言われたが、その姉は今、孝介よりも上手だ。


「頑張らないとな」


 孝介も振り上げもう一度、矢矯から教えられたフォームをなぞっていく。振り上げて振り下ろす――ただそれだけの単純な動きであるが、それ故に手の内の工夫は無限大と言うのは、何とも面白く感じる。


 5分程度をかけて一挙動を終えれば、《方》を使った身体操作でメッセージを送った時と同じく汗が噴き出してくる。ゆっくりと素振りの一挙動を終えると言うのは、傍で見ている程、楽ではない。「動かないでいる」と言う筋力トレーニングが存在している事とよく似ている。


 鏡の前でチェックしながら、二度、三度と繰り返していると、磨りガラスの向こうに人影が見えた。


「ベクターさん!」


 待ちかねたと言う風に、孝介が明るい声を出した。


 磨りガラスの戸を開けると、矢矯が苦笑いをしていた。ここまで歓迎されると思っていないのは、普段の生活で受けている評価があまりにも低いからだろう。


「お疲れ様」


 敷居を跨いぐ矢矯は、二人が雑談して過ごしていた訳ではないという事を、室内の雰囲気で感じ取った。


「メッセ、苦労させられましたけど、送れましたよ」


 グッと親指を立てた拳を突き出した孝介は、その仕草も《方》を使って身体を動かしている。


「すごい」


 それには矢矯も目を丸くした。言う程、簡単な操作ではないと言う事は昨日、言った。そして苦労していたVサインの出し方なのに、今、サムズアップをして見せた。


 ――動きを多少なりとも把握してないと、できねェぞ。


 スポーツや武道のフォームであれば、図解を見れば分かるが、こう言う日常的な動きに図解などありはしない。


 つまり自分で考えて理解したと言う事になる。


 ――たった一日で、だぞ。


 飲み込みが早いと言う言葉は知っているが、現実に飲み込みの早い相手と言うのは、矢矯も初めて見た。自分の時はどうだったかハッキリとは思い出せないが、一日でここまでの操作はできなかった。


 少なからず嫉妬を覚えてしまうのだが、嫉妬は姉弟への指導に影響しない。


「なら、すぐできるようになりそうだ」


 矢矯は荷物を床に下ろしつつ、孝介に木刀を構えるように指示した。


 構えは、昨日よりも明らかに様になっている。真っ直ぐ構え、真っ直ぐ振り下ろす、と「真っ直ぐ」ばかりがつく行動は、単純明快であるが故に、出現する歪みも分かり易い。構えの最初から歪んでいれば、それを振り下ろせば更に歪むのは必定。それを防ぐ為に、全身が映る鏡を前にしてフォームを確認する必要がある。


「できてる。大丈夫」


 態々、口に出した矢矯の言葉は、孝介のプライドを刺激した。本音を言うならば、微妙な調整が必要である、と感じるところはあるが、「ほぼ」とつければいいと感じる程度だ。


「――ッ!」


 息を吸い、そして止めてから真っ直ぐに振り下ろす。鏡を見ながら、ゆっくりと確かめながら振り下ろしていくが、それも確認作業のみ――修正する必要はなくなっていた。


「できてる」


 矢矯がフッと微笑んでみせると、孝介も仁和も白い歯を見せて笑顔になった。


「できてますか」


 安心したというように、ホッと一息吐く孝介。


「ただ――」


 それに対し、矢矯が釘を刺そうとするのだが、孝介が先回りして言葉を発した。


「細かな問題は、山程、残ってると思ってます」


 昨夜の言葉は、孝介に強く残っている。



 今、仁和と同じだけの事ができていたとしても、孝介にとっては不十分――。



「うん」


 矢矯も頷いた。素早く振るうのは基本の一つであり、肝心なのは命中させる事だと言うのは、昨日から頻りに言っている事柄だ。


 ――スピードとタイミング。刃物を使う以上、攻撃力なんて考え方は不要。


 多くの百識が《導》による大火力を頼みとする中、矢矯の考え方は独特と言える。兎に角、「火力」を重要に考える者が大半――9割は占めるのが、あの舞台に上がる百識だ。


 だが現実には、振れば斬れる、突けば刺さるのが刃物であり、人間の身体は流血や痛みを無視して動けるようにはなっていない。


「その動作を身体に叩き込み、《方》で身体を操作できるようになれば……まぁ……」


 断言すべき所であるが、矢矯は言葉を濁してしまった。理由は様々だ。「これだけあれば大丈夫」と言うものではない事を知っているし、また「工夫は無限大」と自身で言った通り、完成は永遠に来ない技でもある。


「大抵の相手と、一勝負はできるだろう」


 そういうのが精一杯だった。断言してしまうと、どうしても安請け合いになってしまう。それは矢矯ができない。


 大抵の相手――この振り下ろしだけで天下無敵などと言う事はなく、誰を相手にしても勝てると言う訳ではないが、次の制裁マッチに選ばれる相手ならば、そこまでの遣い手は選ばれまい、と矢矯は考えていた。


 誰が選ばれるか、それを矢矯が知る術はないが。

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