第6話「的場家の夕べ」
確かに消耗する度合いは、身体強化に比べれば緩やかだ。身体強化ならば、連続使用は5から10分で効果を維持できなくなる。インターバルは、その時々によって変わるが、1時間は必要となる。
慣れと練習だと言う矢矯の言葉は、あらゆる意味で正しかった。こんな《方》の使い方は、近道がない。
――こんなものは、遺物ですらない。やっている百識も、俺くらいなものだ。
二人との接し方に慣れ、常体で話し始めた頃、矢矯は自嘲気味にそう言った。ただ《導》が強烈な火力を有している理由は、学ばせやすいと言う理由があるのではないか、とまで言うのは、若干でもない侮蔑の色があるのだから、矢矯が完成された大人ではない事を示していたが。
――どんな力でも、限界を超えてでも大きく発揮させようとする事は、そう難しい話じゃない。制御もクソもない、暴走でもいい訳だから。けど、精密に制御する事は、例え小指の先を1センチ動かすだけでも難しい。
聞きようによっては「それができる俺は凄い」と言うようにも聞こえるが、孝介にとっても仁和にとっても初めてとなる「教師」と言う役目に、矢矯の適正は優れていた。
だからと言う事もあり、今夜の予定が白紙となっている矢矯は二人から自宅に招かれていた。
「……」
二人の両親が残し、孝介と仁和が守ると決めた家は、矢矯から見れば豪邸そのものだった。
セカンドリビングまで持つ5LDK、80坪超の豪邸だ。
――こんな家の維持なら、確かに。
矢矯は、それが姉弟が戦う理由である事は聞いた時は、「高々、そんな事で?」と疑問に思っていたのだが、この家ならば税金だけでも年間30万円超だ。学生がアルバイトで生活費と共に稼ぐのは不可能だ。
「凄い家だ」
夕食を準備している仁和の姿を見ている矢矯がいるのは、14畳の広さを持つリビング。仁和が立っているキッチンとは9畳のダイニングと6畳の茶の間が隣接している。視線を90度、隣へ移せば、2階へと上がる階段を備えたインナーテラスと、その向こうには庭が見えた。その庭にも広縁が接しており、その広縁の向こうは8畳間の和室だ。
――何千万、かかった?
流石に建築にかかった費用までは訊ねるのは失礼であるが、仁和の料理を待っている孝介が答えてくれた。
「モデルハウスのリユースだから、1000万くらいだって親父が生前、言ってましたよ」
モデルハウスとして展示場にあった建物を、的場家が購入した土地へ移築させたのだ。だから2階には、普通の住宅にはないスペースがあった。スタディコーナーやキッズコーナーになっているスペースは、住宅展示場であった頃は資料スペースだったのだろう。
「なるほど、それで」
矢矯は無礼と思いつつも、頭の中で金額を計算した。建物が1000万。この敷地は100坪はあるから、駅からやや遠いため坪単価8万として800万。
――1800万なら、俺でもローンが組める、か?
そう考える矢矯だが、こういうものはイニシャルコスト――導入費用よりも、ランニングコスト――維持費用が高く付く。また土地や建物の取得にかかる手数料を考えれば、こんなものでは済まない。
――確かに、手放せば戻ってこないかも知れないな。
姉弟がこの世界へと入ってきた理由について意識が向いた。同等のものを手に入れるために費やす時間は、姉弟の年齢が倍になって――それも並以上の苦労を背負い込んで――やっと、と言う所だろうか。それも可能性の話だ。
「今、用意しますね」
そんな矢矯の横顔へ、カウンターキッチンの向こうから仁和が声を投げかけてきた。慌てた声だったのは、ぼんやりとした顔が手持ち無沙汰だと感じたからだろう。
「いや、大丈夫」
同じく矢矯も慌てた声を出してしまう。勢いに押される形で夕食をごちそうになろうとしているが、いつもならば寧ろ矢矯が奢っているところだ。ごちそうになる事に慣れていない。
「簡単なものしか作れないんで……すみません」
「いやいや、十分十分」
自分が作るわけではないのに頭を下げた孝介に、矢矯は思わず笑ってしまい、急いで夕食の用意をしている仁和は何か言いたい風な顔をしていた。
仁和が何も言わなかったのは、孝介はスプーンを持ち上げるのに苦労していたからだ。
――《方》で生きると言う事は、《方》によって歩き、《方》によって食事をし、顔を洗うと言う事です。
矢矯の教え通り、食事を《方》による操作で行おうとしているのだが、スプーンですら口元へ運べそうにない。
――親指と中指で保持して、人差し指は添える……くらい?
いつも無意識にやっている事であるから、手順を意識すればスムーズではなくなる。
「難しいものです」
「慣れと経験だって言ったろう。慣れれば、動かす順番を変えてみてもいい。例えば、Vサインだって、掌をパーにして、薬指と小指を折る方法と、拳を握って、人差し指と中指を立てる方法がある」
「それは……」
やってみようとする孝介は、順番が逆になっただけで混乱している、それでなくとも、複数の指を同時に動かす事は、習って数時間ではできなかった。
「いずれ、できるようになる」
矢矯はテーブルに肘を着き、練習している孝介と料理を作っている仁和とへ視線を往復させていた。仁和の方は、流石に《方》を使って身体を動かしていたのでは料理など作れない。練習しているのは孝介だけだ。
「身体の動かし方と、剣を頭上から真っ直ぐ振り下ろす動作とを覚えるといい。それだけで大分――マシになる」
マシとはこの場合、仁和に対してだ。
孝介に対しては、マシになる、とは言わない。
「孝介君は……、もう少しでもできた方がいい」
十分とは言えず、また「もう少しでも」と言うのは遠慮した言い方だ。
本当に言いたいことは――、
「男は女の2倍、3倍の事ができないと死ぬぞ」
簡単そうに言った言葉だったが、それは矢矯の経験――信念からの言葉だ。
「2倍?」
姉と同じではダメなのかと言う意味で聞き返した孝介に、矢矯は軽く頷いた。
「女は、ある条件がついた場合、何をしても許される風がある。男は、どれだけヤバい状況でも、卑怯な振る舞いは許容されないだろう?」
手段を選ばない男を肯定する者もいるが、肯定する者以上に反発する者が現れる。
「しかし、例えば子供を守る母親は、生き残るために何をしても許されるだろう?」
子供ではないが、「弟を庇う」と言う理由で乱入してきた仁和に対し、即日、制裁マッチが発生していないのは、そう言う理屈だ。
「うーん……」
孝介は理解しがたいと言う顔をしてしまうが。孝介は、もう自分は生き残る為に手段を選んでいられないと思っているからだ。
「例えば、ホラー映画やパニック映画で、家族で逃げるシーンがあるだろう?」
そんな孝介に、矢矯はフッと笑って見せた。分かり易い例があると言うのだ。
「そこで、父親が息子に言う訳だ。“もし、父さんが途中で倒れたら、お前が母さんと姉ちゃんを守るんだぞ”って。これ、逆にしたら、ギャグにしかならんだろ?」
「こうだな。“もしお母さんが倒れたら、あなたがお父さんとお兄ちゃんを守るのよ”ってな。ギャグだな。親父や兄貴は何してんだって」
「ああ、それは確かに」
孝介も納得した。
「つまり、男はどんなに追い詰められても、やっちゃいけない事がある。これは、ハンデだ。とんでもない量のな」
それを背負った上で戦うのだから、2倍、3倍でも足りないはずだ、と矢矯は言いたいのだが……、
「何か、卑怯な話ですね」
孝介は顰めっ面のまま、吐き捨てた。
生まれながらにしてハンデを背負わされている、と考えてしまえば反発しか生まれないのだが、それこそは矢矯が考えて欲しくない方向だった。
「そう言う話じゃない。好む好まざるに関わらず、既に背負わされてしまった事を、どうこう言っても仕方がない事だろう。やるべき事をやる――それを身につけさせるために、俺はここにいる訳だ。身につけるより、誰にも届かない苦情を言う事を優先するか?」
鍛え甲斐のない話だ、と矢矯は顰めっ面になっていた。
「あ、いや……頑張ります」
孝介はテーブルに手を着くと、頭を下げた。
「はい、できました」
そんな孝介と矢矯の間に、仁和がおかずの大皿を置いた。
「ああ、旨そうだ」
それを見て、矢矯は目を細め、笑う。大皿に載っているのは、特に何でもない八宝菜だ。感動するようなメニューではないが、それでも笑みを浮かべる矢矯にはごちそうだ。
「白菜が甘い」
取り皿にとって一口、食べた矢矯が小さく、何度か頷く。
「にんじんは洋ニンジンじゃなくて、金時にんじん。豚肉の脂身と相まって、甘みになってる? だからタケノコの細切りも旨い」
味の分からない矢矯だからこそ、他人が自分に作ってくれた食事何もかも旨い。
「イカ、エビ、椎茸……いいね。こういうのが一番、いい」
白米と卵スープにも箸を延ばす矢矯は、食べるペースが早かった。
「ありがとうございます」
その言葉と食べ方には、仁和の方が少々、気恥ずかしくなるくらいだ。仁和は、自分の作ったものが美味しいとは思っていない。褒められるのにも慣れていないし、矢矯とも打ち解けられたとは言っても、そこまでフランクにはなれていない。
「けど、八っていうけど、八種類もないよな」
弟の反応は、丁度良かった。
「八っていうのは、いっぱいって意味で、八種類って意味じゃないの」
八百屋の八百と同じ意味だと言えば、矢矯は笑いながら指を折っていった。
「白菜、ニンジン、タケノコ、椎茸、豚肉、イカ、エビ、ウズラの卵……」
そこでもう一度、大きく吹き出す。
「八つあった」
二人とも数えていなかったのだ。
今度は、姉弟も吹き出していた。
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