第4話「教師、見参」

 学校にいても、焦燥感は後から後から沸いて出てくる。


 孝介は朝から溜息を繰り返していた。


 ――制裁って事は、格上が出てくるって事か?


 先日、自分が戦った相手よりも戦歴のある相手が来る、と考えると、背筋が寒くなる。


 ――あのまま続けてたら……?


 勝てていたとは思えず、殺されていたはずだ。


 逃げるという選択肢も存在するが、それでは解決しない。こう言うルールが存在できる最低限の条件は、「執行する方法を心得ている」という一点だ。


 逃亡は時間稼ぎにしかならない。


 そう思っていた時であるから、安土からの連絡はありがたかった。



 ――コーチ役を見つけました。放課後、迎えに行きます。



 時計が終業時間を指した瞬間、孝介が仁和を連れて校舎を飛び出せば、先方の車が正門前に横付けされていた。


「あれ?」


 仁和が車を指さす。


 それを見て、スペックや価格を気にしてしまうのは、孝介も車が好きだからだろう。赤い国産SUVは、高級と言う程、高級ではないが、300万超だ。2リッターエンジンとターボを搭載している、国内最速SUVと言われている事を知っている。


 ――どんな人が乗ってるんだろう?


 背伸びして運転席に視線を向ける孝介であったが、その視線を遮るように安土が窓を開けた助手席から身を乗り出す。


「こちらへ」


 運転席にいるのが、安土の言う「コーチ役」だ。


「初めまして」


 後部座席のドアを開けた仁和は、運転席の男に頭を下げた。


「こんにちは。初めまして」


 そう挨拶を返した矢矯に対し、姉弟が抱いた感想は同じ一言だった。



 ――しょぼくれてる。



 どこか燻ったような印象を受け、その印象が他の事柄を塗りつぶしていた。それ程、特徴がないとも言える。身長は、180センチに少し足らないくらいだろうか。長身と言う程の長身ではなく、痩せているとは言いがたいが、太っているとも言えない。強いて言うならば小太りと言えるかも知れないが、標準体重の彼――矢矯は、殆ど印象に残らない。


「ベクターさんです」


 安土に紹介され、辛うじて印象に残ったのは一礼した横顔にも見える赤いフレームのメガネだけだった。


 矢矯と本名は名乗らないし、紹介もされない。舞台に上がっているのだ。本名を名乗る事がリスクを持っていると知っているからだ。


 同時に、姉弟の名前も訊ねないのは、矢矯の良識とでも言うべきだろうが、だから印象に残らない。


 ――双方共にダウン系でしたか。


 車内で会話がない事に、安土は内心、溜息を吐きたくなっていた。矢矯も孝介も仁和も、無口と言う訳ではないのだが、如何せん、初対面だ。すぐに雑談できるようにはなれる状況ではないし、友達付き合いしろとは言えないが、多少なりとも打ち解けてくれない事には、ここから先が思い遣られてしまう。


 ただ安土も、双方の仲立ちができる訳ではなく、会話などないままSUVは目的地へと到着してしまう。


 そこは――、


「銭湯?」


 コインパーキングに駐車したSUVから降りた仁和は、矢矯と安土が連れてきた場所を見上げ、首を傾げさせられていた。


 前世紀半ばをイメージしたようなレトロな外面の銭湯だったのだ。


「場所に関しては、ゴチャゴチャ言わないですよ」


 呆気にとられている兄弟を余所に、矢矯はトランクから帆布製とナイロン製の2種3本の刀袋を取り出し、それを肩にかけて銭湯へ入っていく。


「できた当時は、レトロな雰囲気だと持て囃されたけれど、流行ったのは開店したての時だけで、今では日中の営業を中止している銭湯です」


 あまり訝しそうな顔をするなと言うのは、この場を探してきたのは安土だからだ。


「ここで、コーチしていただける?」


 仁和が矢矯へと言葉を向けたが、主語を省略してしまっていては矢矯も自分へ向けられたものだとは気付かない。


「広い板張りの床があって、全身が映る鏡のある場所なら、それで十分ですよ」


 安土の方へ会釈しているのだから、仁和の疑問など気付けていない。


「ベクターさん?」


 人付き合いが得意という訳ではない孝介が名前を呼びかけたのは、脱衣所に入ってからだった。


「はい」


 矢矯は返事をしながら、3つの刀袋の内、帆布製を脇に立てかけ、ナイロン製の方を開けた。


「自己紹介らしい事もできてないですが、まずはコレを」


 刀袋に入れられていたのは素振り用の木刀だった。


「安土さんから聞いてはいるんですけど、改めて確認します」


 木刀を手に顔を見合わせている姉弟に、矢矯が声をかける。


 ――不躾とは思うけれど。


 まだ何もお互いの事を知らないのだから、少し雑談でもしてからの方がいいのではないか、と思うのは、どうしても優先順位を決めかねてしまう矢矯の性格だろうか。


「……感覚の鋭敏化ができると言う事は、軽いか強いかは分かりませんが念動もあると言う事ですよね。後、感応もある」


 矢矯の問いかけに、姉弟は言葉はないが頷いた。強いか弱いかと問われれば、どれもこれも弱い《方》でしかないが、有無だけを問うならばある。


「ならば十分です。私の技術を教えられます」


 パンと気持ちを切り替えるように手を叩いた矢矯であったが、その音で姉弟の意識にも若干、矢矯へと向けられる余裕が生まれた。


「あの!」


 コーチの方へ意識を切り替えようとする矢矯へ、仁和が少しばかり強い口調で話しかけた。


「何か? 質問ですか?」


 矢矯が面食らったような顔をするのは、やはり一瞬だけだ。意外でも何でもない。安土が孝介と仁和との間に、どれだけの信頼関係を築いているかは分からないが、矢矯とは初対面なのだから。そんな矢矯がコーチ役だと言われても、それをすぐ受けると二つ返事にはできまい。


 全て想像に易いが、矢矯の想像は外れてくれた。


「私も弟も、《導》は使えません」


 攻撃する手段になるようなものを持っていないと言う仁和であるが、矢矯は軽く片手を振って否定した。


「僕も《導》は使えません。心配ないですよ」


 今、口にした「心配ない」と言う言葉には、様々な意味を持っているのだが、姉弟にとって重要なのは「生き残れる」と言う点だろう。



 矢矯は《方》のみで勝利し、生き残ってきたのだから。



「矢矯さんは、一度も人命を奪ってませんから、安心して習って下さい」


 姉弟の緊張を和らげようと出した安土の言葉は、期待した程の効果はなかった。あの舞台で人を殺さない事の難しさを想像できる程、仁和にも孝介にも経験が足りていない。


「始めましょうか。簡単ですから、すぐ覚えられますよ。単純な事ですから」


 矢矯は「構えて」と二人に木刀を大上段に構えさせた。


「これが一番、覚えやすい」



 大上段に構えた武器を、そのまま振り下ろす――矢矯が教えるのは、それだけだ。



「はぁ……?」


 だが仁和には、高々、これだけで敵を斃せる程、簡単な話とは思えなかった。


 ――これに《方》の身体強化を上乗せして攻撃力を上げる?


 それだけ単純窮まりなく、馬鹿馬鹿しい動作だったからだ。しかも身体強化や感覚の鋭敏化を駆使しても、二人が身に着けている程度の《方》で上乗せできるのは、高々、知れている。デビュー戦で孝介がナイフを振るっていた事と何が変わるのか、と思わされていると……、


「攻撃力という考えは、捨てた方がいいですね。今は練習用の木刀ですけどね、本番で手に持つのは刃物。振れば斬れますし、突けば刺さります」


 仁和の思考を先回りした矢矯は、脇に立てかけていた帆布製の刀袋を手に取った。


「日本刀?」


 すらりと抜かれた刃を見つめる孝介が、その単語を口にしたが、矢矯は「ハンッ」と鼻を鳴らし、


「剣です。日本刀っぽい形をしてますが、剣身はタングステンカーバイドとコバルトの合金を使っているから日本刀じゃない。似た形の剣ですよ」


 似ていると言う言葉通り、矢矯の剣は七分反りのほぼ直刀であるし、玉鋼を使用していないのでは日本刀とは言えない。柄巻きも鍔も「グリップ」と言った方が正しいデザインだ。


 そんな剣を構える矢矯は――、


「当たらなければどうと言う事もないと言う事は、当たればとんでもない事になる、と言う事ですよ」


 そう言うと共に振り下ろされた剣を、二人は目で追う事すらできなかった。


 何かに当たった訳でもないと言うのに、空を振るわせて乾いた音を立てたのは、切っ先が有り得ないスピードで振り抜かれたと言う事だ。


「単純な事ですよ。《方》があればできる。だから、教えます」


 剣を鞘に収めながら言う矢矯だが、言う程、単純とは、誰も思えなかった。

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