第2話「しょぼくれた男」

 安土がその気になれば、中堅以下の百識ならば、詳細をすぐに集められる。


 そのベクター――矢矯やはぎ じゅんは、本来ならば、こんな地下で戦う必要のない男だった。


 ――団体職員?


 安土が首を傾げさせられるのは、生活ができない程の低収入ではないからだ。また年齢は24歳と若年ではあるが、贅沢な暮らしを望む事もなかった。


 何故と何度も首を傾げさせられる。


 ――直接、訊きますか?


 その方が早いと思ったが、即断即決とはいかない。矢矯の為人ひととなりを知らなければ、上手くいくものもいかなくなる。特に矢矯には、こちらへつくメリットがないのだから。


 そんな矢矯が勤めているのは、この人工島のインフラを司る管理局。所属している部署は各種プラントの運用、保守、改良、更新を担当する所であるから、当然のように24時間勤務だ。休みはシフト制であるが、薄給という訳でも、ブラックという訳でもない。


 ――そんな事はどうでも良いけど。


 日が昇ったばかりの道を走っていた自転車を停止させながら、矢矯は大きく溜息を吐くように深呼吸した。


 時計の針は、まだ始業時間よりも2時間半も早い時間を指している。昨夜は就寝が遅かったのだから、疲れが当然のように残っているが、それでも頭を振りつつ、ビルへ入っていく。


 エレベータを待つ間に自動販売機へ小銭を入れる。別に何でもいい――という訳ではない。買うのはいつも決まって炭酸飲料だ。特にカフェインの含有量が多いもの。


 落ちてくる缶がガタンと音立てたのと、エレベータの到着を示すチンという音が重なると、思わず口元に笑みが浮かんでしまう。そう言う何でもない事に笑ってしまうのは、矢矯の性格だ。


 エレベータに乗り、浮遊感を堪能するまでもない時間で到着する階にあるのは、プラントの運転を司っている部署であるから、24時間、同僚が働いている。


「おはようございます」


 挨拶と共に軽く頭を下げる矢矯だが、夜勤を担当していた職員が「相変わらず……」という顔を向けていた。


 こんな時間に出勤してくる矢矯は、有名な「変わり者」だった。


 しかし矢矯本人は、そんな事を気にしてはいられない。今日はプラントの制御当番ではないから、制御室から離れた執務室へ入り、一日に予定している仕事を確かめる。担当工事の設計積算が優先順位の高い仕事だ。


 ――やりたくねェ。


 この仕事が一番、やりにくい。そこに昨日からの疲労が回復していない今、集中して進めなければならない状況とが重なると、溜息ばかりが増えてしまう。だからと言って投げていい訳ではない。設計積算は「南県式」と呼ばれる公共工事の積算方式が取られている。設計した図面を元に、工事に必要な資材や機器を洗い出し、建設物価を参照して積み上げていく――積算する事で、工事価格を決定させる。それにより、理屈の上では儲けがない状態にする事になる。談合されたとしても、その価格を下回らなければ落札できないのだから、されたところで痛くないと言う訳だが、当然、監督職員の労力は増す。


 確認を終えたところで、エレベータに乗る前に買った缶を開け、鞄から無水カフェインの錠剤を取り出す。


 その無水カフェインを炭酸飲料――これもカフェイン入りだ――で飲む。


「……」


 程なくして靄がかかっているような感覚が消え、目は覚めるのだが、同時に強烈な胸痛と頭痛が襲いかかった来る。


 歯を食いしばって顔を伏せて胸を押さえ、痛みが消えるまで暫く待つ。言えれば、矢矯は肩で息をしながら顔を上げた。


 頭痛は残るが、仕事をする体勢にはなれた。


「さて……やるか」


 気持ちを向けるため自然と多くなってしまう独り言は、まだ薄暗いオフィスでは嫌に大きく聞こえてしまう。


 その響きに苦笑いさせられるが、その時間も惜しい。


 ――仕事しなきゃな。時間が惜しい。


 早朝出勤している理由は、残業ができないからだ。終業後は、いつものメンバーでいつもの「イベント」がある。


 しかし今夜の場合は、そんな碌でもない事ではない。


 ――映画が7時半からだから、それまで食事もできるな。


 考えているのは、あの三名の中でも一人の事だけだ。



 白と銀のコスチュームを身につけていた騎士役の女だ。



 本来、あんな場所に立つ必要のない矢矯が参加している理由は、その女が理由だった。


 毎日毎日、イベントがある訳ではなく、今夜は久しぶりにデートができると言う訳で、いつも以上に時間はシビアに使っていかなければならない。


 ここ最近の朝駆けが幸いし、図面は完成している。必要な性能の精査も終わらせているし、それを満たす諸元を持つ機器の選定もしているのだから、ここからは積算が主だった仕事だ。


 ――材料や機器の拾い出しは面倒だが。


 その一つ一つを建設物価や積算資料と突き合わせる作業は、兎に角、骨が折れる。


 ――撤去したポンプ類は、廃棄物じゃなく有価物。その分を控除……。


 金額を入力していく矢矯であったが、慣れた手付きに対し、簡単なミスが現れ始める。


「おっと……」


 独り言を言いながら、マウスでセルを移動させる。


 ――有価物でも、計上はインゴットじゃなくスクラップだ。


 数字が変わると溜息交じりに修正していく。この手の小さな、そして単純なミスが多いのが矢矯の欠点だ。途中途中で行う見直しの頻度が上がり、その時間はタイムロスになる。


 そして興が乗ってくると、時間の概念がなくなっていく。


「おはよう」


 出勤してきた職員が声をかけると、悲鳴こそあげないが、驚きで肩を震わせられた。


「……おはようございます」


 早鐘を打つ胸に手を当てつつ、矢矯は挨拶を返した。職員は常体、矢矯は敬体で話しているのだから、同僚ではない。矢矯を直属の部下に持つ係長だ。


 係長は矢矯の手元を一瞥すると、軽く溜息を吐いた。


「時間外労働は、事前の申告ないと認定されんぞ」


 自主的な早出は給与にならないという言葉は、もう何度も繰り返してきた事だ。時間外労働は上司の命令があってこその事。残業を断って、翌日、早朝出勤すると言うのは筋が通らない。


「……残業は、ちょっと……」


 そして言葉を濁すのも、いつも繰り返してきた。自分のやり方がフェアでない事は自覚している。


「まァ、いい」


 係長も、そこまでしつこく言う気はなかった。矢矯に求められる事は仕事が第一であり、私生活の不必要な部分にまで入り込むべきではない、と心得ている。


「すみません」


 矢矯はもう一度、そう言った後、顔を時計の方へ向けた。8時10分を過ぎた頃だった。これから同僚たちが登庁してくる頃だ。


「……」


 手を止め、朝の引き継ぎまでは休憩する事に決めた。


 ――よし。


 スマートフォンを取り出し、IMクライアントを立ち上げる。


 ――今夜、映画の前に少し時間もあるし、食事もどうですか? 何か食べたいものがあれば、そこへ行ってもいいし。


 打ち込むのは、恋人へ送るメッセージだ。





 しかし送られた側である女騎士からの返信は、日が暮れる寸前までかかった。


 彼女にも仕事があるのだから、早くしろと責める所ではなく、矢矯とて責める気はない。


 ただ返信された内容については、文句の一つも言いたかったかも知れないが。


 ――今夜はルーの劇団の方へ行く事にしました。何だか今、厳しいらしいの。そっちは、先月も行ったし、いいでしょ?


 簡単なメッセージに対し、矢矯からの返しは早かった。矢矯の方は、いつも返信が早い。そこが些か、女騎士には精神的なストレスを覚えてしまう点だ。


 ――分かりました。今夜は適当に過ごします。


 ――不満そうね。


 その短い返信に、女騎士は溜息を吐かされ、いつもいつも自分を優先しなければ気が済まないのか、と眉を顰めた。短文での返信は、矢矯が不機嫌になった時の特徴だ。


 ――先月も会ってるのに。私にも友達付き合いがある。


 友達と言うのが、先程、返信にも書いた白いクロークコートを着ていた女「ルー」だ。


「メイ」


 その「ルー」が声をかけてきた。


 些か妙な呼び名であるが、これは普段から登録名で呼び合っているからだ。女騎士の登録名は美星――中国風にメイシンと名乗っているため、メイという愛称で呼ばれている。ルーの場合はルーシェと名乗っているからだが、しかし登録名をアルファベットでRuushieと登録しているため、このままでは「ルーシェ」とは読めない。敢えてカタカナ表記するとすればルゥウシェとなるし、英語にせよ仏語にせよ、「ルー」と発音するならば、少なくともRではなくLから始まるスペルになる。


 とは言え、そんな事を気にする二人ではない。


「ゴメンゴメン。ちょっとバタバタしていて」


 ルゥウシェは手を合わせながら、小走りにやってくる。練習前の打ち合わせが立て込んでいたのだ、と言う。ルゥウシェが所属している劇団は、それ程、大きなものではないのだから、公演をやる度に火の車だ。赤字が出れば団員から研究生まで、全員が金を出し合ってしのいでいると言うのが現状だった。


「今度のは活劇で、レンタル機材とか色々と足が出てるみたいで……団員一人一人の負担が、かなり重いみたい」


「そんな事だと思った」


 美星はフゥと溜息を吐き、しかし顔では笑いながら鞄から昨夜のギャラが入った茶封筒を取り出した。ただし額は矢矯と美星の二人分。



 渡す理由は、この貧乏劇団を維持するのが、四人の目的だからだ。



「いつもありがとう」


 ルゥウシェはまた拝み手を見せて、茶封筒を受け取った。


「これで、何人かサラ金に駆け込むような事がなくなる」


「止めてよ、それは」


 美星は腰に手をやり、ルゥウシェの顔を真正面から見据えた。


「役者がサラ金で、ヘラヘラした顔でペコペコ頭を下げちゃダメ。卑屈な顔になるわ。将来の名俳優、大女優、名声優なのに」


 その言葉は半ば世辞や煽ても入っているが、美星の本音が大半だ。それ程、彼女はルゥウシェを応援している。


「ん。ありがとう」


 ルゥウシェはもう一度、礼を言ってから茶封筒を鞄に入れ――その時、美星のスマートフォンが特徴的なバイブ音を鳴らした。ブ、ブー、ブ、ブと短音、長音、短音、短音が続くバイブ音は、IMクライアントのメッセージ着信を知らせる音だ。


「……」


 美星は誰からのメッセージか想像できるため、面倒臭そうな顔をしてスマートフォンを手に取った。矢矯からに違いない。


 ――そっちに集中してあげて下さい。前回の僕のギャラも、渡して下さい。


 今の美星から見れば、皮肉か当てつけとしか思えない短文だ。


「ベクター? しつこいんでしょ。私から言おうか? そうでないなら、バッシュに頼むとか」


 美星の顰めっ面に、ルゥウシェも表情を曇らせる。バッシュとは黒いクロークコートを着ていた男の名であり、ルゥウシェの恋人でもある。


「大丈夫。しつこいのは確かだけど。先月もご飯食べに行ったのに」


 些末な事に、親友と言っていい二人の手を借りる事は躊躇われた。


「別れれば? 束縛がキツいんでしょう?」


 ルゥウシェから見ると、矢矯は恋人とは言え、美星を束縛し過ぎている。


 ルゥウシェの言葉に対し、美星は即答しなかった。


「考えておく」


 ドタキャンが多いのも事実であるから、そこは再考する余地はある。


「ドタキャンした方がイニシアティブ取るのがマナーっていうけど、あいつ、どうせ連絡なんて待たないんでしょう?」


「まぁ……私が連絡するより早く、先はどこへ行こう、何を食べようって言い出すわね」


 それくらいにしてくれ、と美星は片手を少し挙げて話を打ち切った。


「一人の時は一人の事に、二人の時は二人の事に、自分がしている事に集中したいの。今は、ルーの劇団の事を優先させたいわ」


「ありがとう」


 ルゥウシェは微笑んだ後、「さ、行こう」と美星の背に回り、押した。

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