第36話 自覚、錯覚


 俺は幸せな夢をみていたんだと思う。


 そこはとても綺麗な庭園で、美しく咲く花を俺は誰かと一緒に眺めていた。

 特に何かをするでもなく、話すわけでもない。ただ隣に並んで同じものを綺麗だと思う、それだけの時間。

 なのに満たされていて、幸せで。


 自然に顔が寄せられ、俺は目を閉じた。

 目を閉じる前に見えたのは、微笑むジェラードの貌だった。



+ + +



「――って俺がされるほう?」


 起き抜けによくこうも大きな声が出たな、と自分でも思った。

 声とともに上半身が勢いよく布団から跳ね上がる。動揺したせいなのか、はたまた腹筋が酷使されたせいなのか、体育でマラソンを走った時以上に心臓がばくばくと音を立て息苦しい。


 そういう夢を見たせいか、布団をめくり己の下半身の心配をしてしまったのだけは内緒にしておこうと心に決めた。

 こんな時にようやく感じた。俺が女で本当に良かった。



 しかし、何故かやたらとリアルに感じられた唇の感触が、いつまでもそこに残っているようで、つい自分の唇をふにふにと触ってしまう。

 あたたかくて、少し渇いていて、でも柔らかくて。

 前世の俺にとっての初めてのキスは、我が家で飼っていた犬のハナ子さんにされたディープなもので、ほんのり生臭いドッグフードの香りがした。同じ哺乳類ではあるが、それ以外の経験はない。だから、正直その感覚が現実のキスと同じものなのかすら判らない。

 だが、夢に出てきた相手が、ジェラード様だったことが問題なのだ。

 俺は困惑しっぱなしだが、これは、やはりそういう意味で好きなのか?

 今の性別的には問題はない……といえばない。


 混乱していたせいか余計に意識しすぎて、一人布団に潜り込むと、俺はひたすらじたばたする。


 脳裏をよぎるのは、ジェラード様の何気ない姿。

 俺の前世がどんな姿であっても、今の俺を受け入れてくれたこと。それでいて、今の俺が「俺」というと、ちゃんと窘めてくれるところ。俺を、そのままの俺として受け入れてくれる優しさ。


 考えてみても嫌いになる理由がみあたらない。


 頼れる上司であり、俺と同じ漆黒の髪をもち理解もある。……年齢はさすがに離れている気がするが、前世の俺の年齢を足せば、俺のほうが年上だし。

 ただ、俺がジェラード様の中の母様に勝てるかといわれると、正直自信は皆無だ。


 この世界の始まりである、一作目の「天の乙女」はヒロイン選択式ゲームだった。だから、ヒロインであった母様と陛下のどちらも使用してクリアしている。だからこそ、母様がどれほど理想的なヒロインであったかは知っているつもりだ。

 母様の立場は、もう一人のヒロインであった陛下とは異なり、儚く、美しく庇護欲を駆り立てられる美しい聖女だった。陛下は美しさと強さを兼ね備えた完璧なヒロインという立ち位置だったから、どちらのシナリオも遣り甲斐はあったけれど。


 そんな母様以上に俺が出来ることなんて、微塵も思いつかない。けど、俺は行動しないことの苦しさを知っているからこそ、今世では動きたいと思う。


「……だけど、アリアに聞かれたら全否定されるんだろうな」


 布団の上で、俺は膝を抱えた。


「せめて攻略本があればなぁ……」


 自分でも情けない独り言が漏れたものだと思う。

 だけど、怖いじゃないか。ここがゲームの世界だというのは知っているのに、ステータスも見られないし、好感度も推し量れない。相手の言葉に対する選択肢も見えないし、そもそもセーブもロードも出来ない。


 失敗したら嫌われてしまうのだろうか。

 恋をしないと決めていたくせに、俺はこうして悩んでしまうなんて。



 ――コンコン。


 部屋にノックの音が響いた。

 この音は親父殿やアリアのたてる激しい音ではない。つまりは……。


「よっす! 元気になった?」

 やはりルーナだ。

 性格は激しめであるのに、ルーナは昔からこういうところは丁寧だ。ちなみに母様のノックはとても軽やかで優しい。


「もう大丈夫だと思う、熱は下がったみたいだ」


 そういうと、ルーナはいつもの笑顔で俺に寄ってきた。

 ベッドの脇にある椅子に腰かけると、水差しから水を入れ、俺にグラスを手渡してくれた。


「熱が引いたからなのかな? なんかすっきりした顔してるね」


「そうだな、多分すっきりしたんだと思う。なあ、ルーナ……このゲームの事前情報って、攻略にかかわる情報はなかったのか?」


「直接攻略にかかわる内容は無かったよ? せいぜい攻略対象キャラの情報だけかなー」


 それは当然と言えば当然だ。ゲーム発売前や当日に攻略本が手に入ってしまったら、ゲームの楽しさが激減してしまう。

 だからこそ、一週目は無難なエンディングを目指しつつ、あわよくば誰かと恋愛を……というのが恋愛ゲームの鉄則だと思う。

 肩を落とした俺を見て、ルーナが笑う。


「なになに? ジェラード様の攻略情報が欲しかったの?」


「さすがに攻略は無理でも、怒らせない告白からの友情ルートとかないかなって思ったんだけどさ……」


 ルーナは珍しそうに目を丸くした。


「へえ! なんかいいね! 動く気持ちになったんだね、前のあんたより格好いいじゃん」


 そういうと、俺の頭をぽふぽふと撫でてきた。


「でも、恋敵が母様だろ? 明るい未来なんか想像できないよ、俺は」

「でもさ、事前情報だとジェラード様はちゃんと『攻略対象』の一人ではあるんだから、可能性はゼロじゃないと思うよ? ……ただ、心を病んだ状態のキャラクターではあったはずだから、難易度は高そうだけどさ」


 ルーナは唸りながら腕を組む。

 俺のことなのに、俺以上に悩んでくれている姿がありがたい。


「なあ、ルーナは俺が『男』を好きになるってどう?」


「それの何が問題なの? 前世だろうが、今世だろうが、あんたが好きになった相手なんだから胸を張ればいいのよ。……アリアの性格は最悪だったけど、恋してたあんたを否定したことは一度もない! 私はね、あんたが幸せになれるなら、なんだっていいのよ」


 そう言って笑うルーナの姿がぐにゃりと歪んだ。

 涙というのは厄介で、悲しくないのに、嬉しくても涙がでるのは勘弁していただきたいものだ。

 ルーナが「仕方ない」って呆れた顔で俺の頭を抱え込む。


 俺は、ルーナと双子で本当に良かった。


 気持ちはもう、動き出したみたいだ。

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