第32話 映らぬ鏡
どたどたというどこか焦ったような足音が迫ってきたかと思うと、次の瞬間、扉が壊されそうな勢いで開かれた。
「今すぐそれ貸して!!」
ついさっき、呆れたように出ていったはずのアリアが勢いよく駆け込んできた。
女心と秋の空……どころではない切り替えの早さだ。
血相を変えたアリアが言うには、今しがた親父殿がエランド様を連れ帰ってきたらしい。我が家で酒を飲んだあの日から、二人はすっかり飲み友達のような関係となっていた。
アリアは俺に真っすぐ手を伸ばすと、高圧的な態度で声で「貸して!」と言ってきたが、何の説明もなく、俺とルーナは顔を見合わせる。
「何をするつもり?」
ルーナの問いに、アリアは「調べるの」と短く答える。
その言葉で、俺たちは彼女がやりたがっていることを理解した。エランド様の声は俺たちの知る人間のそれに酷似している。言葉や態度は全く違うが、声だけは別人だと思えない。
彼は俺たちと同じ時を生きてきた相手なのか――それを知りたいのだろう。
「私、エランド様が恋愛的な意味で気になるの。だけど、声だけがあいつに似すぎてて……『実は前世では元カレでした』とかだったら最悪じゃん? 安心したいの」
……知りたい理由はそんな単純な事だったのか。やはりアリアは恋のためには労力を惜しまないんだな。俺はある意味感心した。
+ + +
その部屋からは、親父殿の機嫌よさそうな声と、エランド様の笑い声が溢れていた。
そっと覗き込むと、卓には幾つかの酒瓶が並び、美味しそうな酒の肴も並ぶ。
ゴクリと大きく喉を鳴らしたのは、前世で酒豪だったルーナだ。
アリアは「エランド様、やばい!」とエランド様に見惚れているのか、ただでさえ低めの語彙力を失いかけている。
そんな二人にグイグイ押され、結果として俺たち三人は無様に転がり込むようにして部屋へと入った。
一瞬親父殿はぽかんとした表情をしたが、俺たちが深夜の酒宴に乱入したことには何の咎めもなく、すんなり同席の許可をくれた。
「娘と酒を飲めるっていうのは、幸せだな……」
などと、喜んで杯を飲み干すルーナと幾度も乾杯を交わしている。
「ヴァルター様、双子のお嬢ちゃんたちの成人は来年ですが……」
エランド様はこちらを多少気にする素振りもあったが、ちゃっかり隣を陣取ったアリアによって手慣れたように酌をされている
アリアは何故そんなにも酒宴の接待に慣れているのか……と疑問が浮かびかけたが、それはもう「人生経験の差」だろうと、一人で納得して胸の内におさめた。
酒を飲む気分でもなく、俺はアリアがどう切り出すかを見守ることにした。
「エランド様、これ見てもらってもいいですか?」
無策だ。……まさかの直球で本題に入れる神経の太さが羨ましい。
手鏡を渡されたエランド様は、裏の華やかな装飾を眺めたのち、くるりと鏡面を覗いた。
「これ……使えないじゃないか。こんなに曇っていては、飾る以外の使い道があるとは思えないけど……磨かないの?」
驚いた様子のアリアが、横からのぞき込み安堵の表情を浮かべた。
そうかと思えば、「酔ってきました」などとしなだりかかっている。
こんなにもわかりやすく甘えられるのはどうなんだろう。俺はエランド様の様子を窺った。
「これは誰に返せばいい?」
目が合ってしまったエランド様が、手鏡を持て余しているようだ。
「あ、俺が片付けます」
「――俺? お嬢ちゃんは男みたいな喋り方をするんだな」
完全に油断していたのだと思う。
今の俺は完全な素の状態だった。
「すまんすまん、俺の育て方が悪いってよく言われるんだが、俺は息子も欲しかったから嬉しくてな!」
酔っぱらった親父殿が、そんなフォローをいれてくれる。
やはり、親父殿は甘い。今のままの俺を受け入れてくれるなんて。
「そんなもんなのか? まあ、俺としてはこっちの可愛いお嬢ちゃんに酌をしてもらえて酒がすすむけどな」
そう言いながら手鏡を俺に返してくれた、が。
「しかし、この鏡……曇りの中に黒い靄が動いた気がするんだが、なんだこりゃ……」
その呟きに答える前に、アリアの「えー、やだー! なんか怖ーい」とか「守っていただけますか?」とエランド様に甘える声で消されてしまった。
まだまだ宴は続きそうだったが、俺は一足先に部屋へと戻った。
曇った手鏡に映ったという黒い靄……ホラーが苦手な俺としては今すぐにでも手放したいが、宝物庫に戻すまでは責任もって管理しなくちゃならない。
しかし、何かが引っかかる。
俺はさっきの出来事を思い浮かべてみた。できる限り詳しく、鮮明に。
ルーナと親父殿は普通に酒を楽しんでいたみたいだから、多分あの二人に関することじゃない。
ならばアリアはどうだろう。女の武器を全力で使う姿は、まるで獲物を狙う獰猛な獣だ。俺には到底まねできない……。
だが、別段引っかかるところはない。
そうなると、アリアと陽気に酒を飲んでいたエランド様だけではあるが、俺が部屋を出るときには甘えるアリアを掌の上で転がすように口説いていた気がする。
彼もまた、アリアと同じ狩猟者なのかもしれない――そう思った、その時。
眼、だ。
ようやく違和感の正体に気が付いた。
言動が柔らかく、人たらしかと思うほど相手の懐に飛び込むのがうまい。
そして、アリアをうまくあしらえるほど女性の扱いにも長けている。そんなエランド様なのに、その眼に真意が感じられない。
あんなに楽し気な笑い声をたてながら、彼の眼は一度も笑っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます