第30話 過去あるもの


 思えば、俺はなんて失礼なことをしてしまったのだろう。


 あの時、俺がとるべき行動は、師であるジェラード様に手鏡を見せることだった。

 突如起こった現象の解明のためにも、そうするべきだった。


 しかし、俺は急に湧き上がった「前世の姿をジェラード様に見られたくない」という気持ちに負けて、気づいた時にはアリアの持つ手鏡を奪い取るかのように取り上げ、走り出していた。


「外に出ればよかったかもしれない……」


 俺は何故か階段をひたすらに駆け上がっていたようだ。

 今ならば、前世で見たパニック映画やホラー映画の主人公たちが「なんでそこに逃げ込む!」と突っ込みたくなるような場所に逃げ込んでしまう気持ちが理解できる気がする。

 きっと彼らも、今の俺のように頭が真っ白になってしまったのだろう。


 気づけば塔の最上階で、目の前にあるこの扉は、二年前に一度だけ訪れたジェラード様の室だ。

 さすがに無断で開けるわけにもいかず、俺は肩で息をしながら廊下の隅にしゃがみこんだ。


 数度深呼吸をして気持ちを落ち着け、再度手鏡を覗き込む。そこに映るのは、やはり前世の姿だ。

 あちらで命を落とした頃の、今のジェラード様よりも僅かに若い男の姿。


「こうして客観的にみると、俺は細かったんだな」


 アリアの「お断り一択」が存外こたえているらしい。

 二卵性とはいえ、やはりそこは双子らしく、どこか前世の祐希ルーナに似た男らしからぬ容姿。髪を上げる仕草をすれば、先ほどのように鏡の中の悠里おれも前髪をあげる。

 線は細めだが、そこまで顔は悪く無い気もするのだが……などと自分にフォローをいれていると、コツコツと階段を上がってくる音がした。


 このタイミングでここに上がってくる人間がいるとしたら、それはこの部屋の主くらいなものだろう。

 俺は焦って、姿を隠せる場所の皆無な廊下の片隅で、可能な限り息を潜めながら身を縮めた。


「――そなた、何をやっているのだ?」


 顔を上げなくても表情が分かるほど、呆れきった声が降り注ぐ。

 これがかくれんぼならば、はっきり言って秒殺だ。


 意を決して顔を上げると、そこにはジェラード様が一人、俺を見下ろしていた。


「あれ……アリアやゲオルグ様は?」

「あの者たちには、そなたが置いてきた書類を渡し、残りの仕事を引き継がせてきた」


 俺は仕事を放り出したまま逃げ出した事に、ようやく気がついた。

 サッと顔の熱が下がり、青くなっていくのがわかる。


 その顔の変化を目の当たりにしたからなのか、ジェラード様は「ふむ」といいながら俺の隣……つまり廊下に腰を下ろした。


「じぇ、ジェラード様! ダメです! こんなところに座り込んでは叱られます」


 誰かに見られたら……焦って周りを見渡した、が。


「大丈夫だ、私の室になど誰も好んで近寄ろうとはせぬ。それに、見られたところで私を叱れるような存在など陛下しかおらぬだろう」

 そう言って微かに笑った。


「そなたが落ち着くまで、こうして座っていても構わない。私が口を滑らせない限り、知られる事も咎められる事もない」


 つまり、さっきの俺の奇行を心配してくれたということか。そして、俺に合わせてこうして座り込んでくれている――。

 何故か、心臓の音が体中に響いている気がするが、理由はわからない。


「さて、手鏡を確認させてもらうが、よいか?」


 正直躊躇ためらわれたが、逃げ続けることができない以上、拒否してもしかたがない。

 俺は手鏡を手渡した。


 ジェラード様は軽く首を傾げながら「曇っている」と呟き、俺にそれを差し出す。

 俺が覗くと「俺」が映る……。


 この姿を見たら、彼は何を思うだろう……。

 不安に襲われたが、意を決した俺はジェラード様の膝の間に座り直し、手鏡を使うことにした。


「せ、セラ、そなた! 公爵家の令嬢ともあろうものが男の膝の間に断りもなく座るなどと……」


 滅多に感情を出さないといわれているジェラード様が珍しく焦っている様子だが、こうでもしないと一緒に覗き込めないのだから仕方ない。


「そこは『はしたなくて申し訳ありません』って言っておくので、とりあえず鏡を見てもらえますか?」

 そういうと「とりあえずとはなんだ……」と眉間に皺を寄せながら、俺の背後から鏡を覗きこむ気配がした。


 ごくり……とジェラード様の喉が鳴る音がした。


「これは……誰だ?」


 そこに映るのは俺一人で、背後にいるはずのジェラード様の姿はない。


「これは誰だ、セラ」


 もう一度、同じ質問をされる。

 俺は深く呼吸をすると、顔を横に向け、困惑した様子の師を見つめる。

 鏡の中の俺も、きっと俺と同じ動きをしたのだろう。ジェラード様が軽く息をのむのが分かった。


「これは、俺です。セラとしてこの世界に生まれる前の『前世』の俺の姿です」


 こんなこと言っても、きっと理解されない。それどころか、嫌われてしまうかもしれない。思考が不安で満たされるほど長い沈黙が続いたが、俺の耳もとに聞こえたのは「なるほど」という声だった。


「前世、か。そういう概念が存在することは知識として知っていたが、実際にその記憶を持つ者のことなど考えもしなかったな……」

 ジェラード様は顎に手を当てて、何かを考えている様子だった。


「アリアも映ったと言っていたな、彼女もセラと同じく、前世の記憶があるというのか。だとしたらここに映るのは『前世の記憶』を持つものにかぎられる、ということになるのか?」


 俺は静かに頷いた。

「どういう仕組みかはわからないけど、その可能性はあると思います。ただ、前世の性別とここでの性は変わってしまうこともあるみたいです……俺のように」


 気持ち悪いと拒絶されるだろうか……。俺は怖くて目を逸らした。


「この姿は何歳くらいの頃か? 私よりも若そうだが……」

「26歳……でした。俺があちらで死んだのがその年齢なので、その姿に映ったのかもしれません」

 言いながらも疑問が浮かぶ。ならば陽菜アリアのあの姿は何だったのだろう? 享年の姿が映し出されるのならば、彼女は老女として映るはずなのに。


「死んだ、のか……」

 ジェラード様は「辛いことを訊いた、許せ」と俺の肩を強く握った。


「あ、大丈夫です。死んだことはちゃんと受け入れているし、今の人生も嫌いじゃないから、気に病まないでください」


 なんとなく、彼に悲しそうな表情をさせたくなかった。それよりも――。


「あの、ジェラード様は俺が男だったと知って……気持ち悪くはないですか」


 一番気になっていたこと。

 そう訊いた声が、思っていたよりも上ずっている。


 しかし、返ってきたのは何の拒絶も感じさせない「何故か?」という疑問の声だった。

 俺は思わず身体を捻り、自然と向かい合うかたちをとっていた。

 知らず、彼の長衣の胸に手を当てながら。


 襲いくる期待と不安に、何も言葉を繋げずにいると、彼は心底不思議そうな表情で首を傾げた。


「今、そなたはセラなのだろう? 過去がその姿であったとして何故今のそなたが『気持ち悪い』に繋がるのだ? ……まあ、その記憶のせいで口調がそれだというのなら、多少は直したほうがよいのかもしれないが」


 まさか、このタイミングで口調を叱られるとは。

 叱られているのに、口の端が上がってしまう。気持ちがとても軽くなった気がする。


「いや、俺の口調は前世もあるかもしれないけど、親父殿が叱らないせいで直す機会がないというか……」


 言い訳をしたせいか、容赦なくビシッと脳天に手刀が落ちた。


「せめて『俺』は直すように。公的な場くらい令嬢であることを忘れぬようにな」


「……今は、公的ですか?」


 そう訊くと、ジェラード様は深いため息を一つ吐き出す。そして眉間に深い皺を刻んだかと思うと、ふっと緩み苦笑した。


「ここでなら、見逃すくらいはできよう」


 その一言が嬉しかった。

 舞い上がりそうなほど嬉しいというのは、きっとこんな気持ちなのかもしれない。


 そんな喜びに浸る間も無く、膝の間から退けられてしまったけれど。


 しかし何故、こんなにも気持ちが軽くなったのか。

 何故ジェラードには見られたくなかったのか。


 その理由はわからなかった。

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