第20話 お付き合いはじめてました


 頬に唇が触れるというのは、思っていた以上に恥ずかしいものだった。


 アニメやゲーム、そして漫画などでよくある甘い空気の中、あえて頬にキスする場面を見るたびに「この流れで頬?なぜ唇にいかない!」といったもどかしさを感じていたが、今ならそのハードルの高さを痛感する。


 頬が精一杯なのだ。

 あの顔に、彼の唇にどうやれば自分の唇をくっつけられるのか。

 近づけば近づくほど心臓に悪い!


 彼の唇が触れた頬。そこだけ発熱しているようで、まさに顔から火が吹きそうな状態だ。


 目の前のジェラードは、そんな俺を興味深そうに観察している。

 そして、ようやく俺は思い出した。


「そうだ、伝えたい事だ!」


 突然声を上げてしまったからか、ジェラードが珍しく目をまるくした。


「どうした、セラ?今日は一段と面白いな」


「あの、俺のこと……どう思う?」


「どう、とは?」


「す、すすすすす、好き、とか」


俺の言葉を受けたジェラードは心底呆れたような表情をしている。


「今さらそれを聞かれるとはな。そうだな……セラならば、好きでもない相手に触れたい、口づけたいと思うのか?」


「質問に質問で返しちゃダメって先生に言われたぞ?」


 思わず前世で小学生だった頃の担任を思い浮かべた。

 しかし、好きじゃない相手にアレコレしたくなるか……と言われると悩んでしまう。彼だっていわゆる成人男性なのだから、そういう欲求を解消する相手の一人や二人は必要なのではないか。前世の俺にだって、次元の壁はあったが沢山の嫁がいたわけだから……。

 そう悶々としていたら、彼の手が俺の右手に伸びた。


「セラ、そなたに『選ぶならジェラードがいい』と言われた日から、この関係はルーナとファレルに近い関係なのかと思っていた。だが、伝わっていないのなら改めて――」

 彼は跪いたまま俺の手をとり、その指先に唇をつけた。


「あの日そなたが私を選ぶと言ってくれたように、私はセラと共に過ごしたい。……どうだろうか?」


 そう言ってゆっくりと顔を上げたジェラードは、一瞬驚いた顔をした。何故だろうと思っていたら、彼が俺の肩をふわりと抱き寄せた。

 俺はなんとなくそのまま肩に顔をうずめる。


 そして気づいた。俺の目から涙が溢れていたことに。


 好きな人が俺を選んでくれた。

 俺を忘れられない俺ごと、彼は受け入れていてくれたんだ。


 それが嬉しくて、心に溢れる気持ちを言葉にしたかったのに、優しく頭を撫でられるせいで声にならなかった。


 泣き止むまでの長い時間、俺はずっと抱きしめられていた。

 彼の長衣の肩口は、涙と鼻水で悲惨な事になっていたが、こればかりは仕方ないだろう。



+ + +



 夜、俺はジェラードと共に屋敷へ戻った。


 ファレルとルーナも揃い、久しぶりに賑やかで楽しい食事会になるはずだった。

 目の前には母様が指示をだし、料理長が一生懸命考えて作ってくれたであろう豪華な食事の数々が並ぶ。


 しかし――かつてこれほど気まずい食事はあっただろうか。


 上座に座る親父殿が、酒をあおりながら一人鼻を鳴らして涙を溢している。母様はそれを完全に無視して「このスープは美味しいわね」とルーナや俺に話しかける。

 目の前に座るファレルは親父殿にチラチラと視線を送っていたが、隣にいるルーナに「アレは無視!」とたしなめられている。

 そして俺の隣で平然とした顔をしているのは、さっき親父殿に「セラと婚約させていただきます」と挨拶をしたジェラードだ。


 ルーナと母様は嬉しそうにはしゃいでいたし、ファレルも「おめでとう」と言ってくれたが、しかし。


「娘なんて生むんじゃなかった。嫁にやるのはまだまだ先だと思っていたのに、なんで二人揃って相手を見つけてくるんだ……」


 次々と空いていく酒の瓶を床に転がしながら、一人愚痴ぐちと泣き言をいう親父殿。その存在感に面倒くささを感じながらも、親父殿から生まれたわけじゃない、とツッコミたい気持ちを抑えながら黙殺する。

 鼻をすする音が大きくなってきたが、そこは母様を見習って存在を忘れることにした。


 それよりも、隣で優美に食事をとるジェラードが、俺の婚約者になったことが嬉しくて仕方なかった。

 頬の筋肉が緩みっぱなしでいたら、卓の下でルーナに足を蹴られた。


「いつまでもキモいよ。けど、おめでとう」


 ルーナはニヤリと笑う。

 そんなルーナの微笑みを見て、ファレルも「ルーナも幸せそうですね」と目を細める。


 前世では「何を企んでるの?」と誤解され続けたルーナの笑顔が、ちゃんと受け入れられている。


 前世あっての俺達だけど、この世界に生まれてこれて本当に良かった。

 このゲームに未練をもってくれたルーナに感謝したい。


 平和で穏やかな時間が続いてくれたらいい、そう思っていた。


 ナプキンで盛大に鼻をかむ親父殿を見て、母様が口元だけ微笑みを浮かべた表情をしているのを眺めながら。



 ただ、俺はまだ気づいていなかった。

 乙女ゲームは、平和なだけでは終わらないということを。

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