第16話 かつての聖女

 母様が目覚めたと連絡が入ったのは、あれから一月近く経ってからのことだった。


 ルーナと親父殿は幾度か母様の様子を見に行っていたが、結局俺は目覚めるまで一度も行くことが出来なかった。

 母様は目覚めてすぐ、あの時、あの場にいた全員に会いたがっていると親父殿から聞いたが、ジェラードはともかく、俺の存在がまた心に傷をつけてしまう結果となったら……そう思うと、どうしても二の足を踏んでしまう。


 だが、母様の一番の理解者であろう親父殿が「大丈夫」だと力強く微笑んだから、今日はその笑顔を信じてみる事にした。


 ルーナとファレル、そしてジェラードと俺。あの日、あの場に居た全員で、光の塔で待つ母様の元へと向かった。


 ここは小高い丘の上にあり、遠くから見るとまるで朝日が昇るように煌めいている。ところどころには水晶のように透明感のある石が散りばめられていて、それが反射することで、より幻想的な美しさだ。


 本来ならば、闇の加護を持つ俺やジェラードはここに入る事は許されていない。

 しかし、塔の主である陛下から特別に許可をいただき、入る事を許されたのだ。


 案内された扉の前に立つと、逃げ出してしまいたくなるような不安に駆られ、なかなか足を踏み出せなかった。

 その様子を後ろから見ていたルーナが「大丈夫」と小さな声で言うと「さあ、いくよ」と俺の手を取り、部屋の中へと導いた。


 部屋の中には色とりどりの花が飾られ、母様らしく華やかだった。来るときはなんとなく病室のようなイメージをしていたのだが、ここは応接間のようで、ゆったりと大きなソファーとテーブルだけが置いてあった。そしてそこには、先に訪れていた親父殿と、その隣に支えられるように立つ母様がいた。

 俺の姿を見た母様は、どこか戸惑ったように笑い、目をそらす。その様子が申し訳無くて退室しようとしたが、その前に口を開いたのはルーナだった。


「お母様、ずっと聞きたかったのですが……お母様は『聖女』であった事、沢山の人々に愛された日々と、私たち家族。どちらが大切なのですか?」


 母様が顔を上げ、つらそうな顔でルーナを見つめた。


「それは――」


「言い訳はせず、答えて下さい。恋仲であったジェラード様ではなく、お父様の愛を選んだ事に後悔がおありですか?」


 その質問に、思わず俺の隣に立つジェラードの表情を見た。しかし今日の彼に不穏な様子は見られない。

 そして母様は、隣に立つ親父殿の顔をみて、親父殿は微笑んで見つめ返している。そして、長い時間の後、母様を促すように頷いた。


「聖女であった日々がなければ、こうして愛しい方と家族を持てる事などなかったでしょう。だからこそ、わたくしは聖女であったことも、家族と過ごす今も幸せです」


 でも、と母様は言葉を続けた。


「家族を得る事ができたからこそ、もしあのままジェラードを選んでいたら、その未来はどのようなものになっていたのか……。幸せな日々だというのに、そう考えてしまう事がありました。恋人であった頃、いつか彼との子供が生まれて、娘であれば『セラ』と名付けたいと話していた。そんな夢をみていた頃の思い出が消せずにいたのです」


 そして、彼と同じ漆黒の目と髪を持つ娘を見たとき、自分の未練を「セラ」の名に込めてしまったのだ、と。


「お母様は、お父様がお嫌いですか?」


 ルーナがなおも質問を続ける。

 俺は、何を言えばいいのか、ここに居てもいいのかさえわからなかった。だが、ルーナが「ここにいてもいい」というように、しっかりと手を握り続けてくれた。


「もちろんお父様、ヴァルターを愛しています。その気持ちに偽りはありません。しかし、私に愛を語った人達が離れて行くことが悲しかったのかもしれません……」


 母様の双眸から涙が溢れた。


 以前ルーナが「お母様はヒロインなのよ」と言っていた言葉を思い出した。


 ヒロインは沢山の男性に愛され、求められる。

 選ぶ立場であるヒロインは、誰を選択しても幸せな結果しかない。だが、ヒロインに選ばれなかった攻略対象キャラたちの心が自由になる事を想定していなかったのかもしれない。

 一人、またひとりと自分に向けられた愛が減っていく事に耐えられなかったのだろうか。


 しかし。


「お父様だけでは、お嫌だったのですか?」


「そんな事は……。ただジェラードが、セラに――私の娘と親しくなっていくのは苦しかった。ジェラードは私を慕い続けて一人でいると聞いたのに、何故セラにも花を渡したのか、と。けれど、花はセラが手折ったのだと聞いた時、ジェラードから贈ったものではないと知って嬉しかった」


「お母様は、セラが憎かったの?」


「憎くは――ただ、とても苦しかったのです。あの日ジェラードに花を貰ったのは私なのに、何故ジェラードまで間違えてしまうのか……と」


 誰も、二人の話に口を挟めなかった。

 ただ、ただ聞くことしかできない。


「だから花を挿して、ジェラード様のところへ行ったのですか?ジェラード様の愛したお母様セシリアはここにいる――と?」


 この感情は、俺でも痛いほどわかる。


「――嫉妬、していたのですか。セラに」


 母様が手で顔を覆う。

 細い肩が小刻みに震えているのがわかった。これがゲームであれば、好きな場所でセーブをし、そこから新しい選択肢を自由に選びなおす事ができたはずなのに、この「現実」で選べたのは一度きり……。


「もし、もしもジェラードを選んでいたらと思う気持ちが消せないのです。その先にも、今と同じ……もしかしたら今よりも幸せがあったのでは、そんな浅ましい考えが消せなかったのです」


 母様はルーナの後ろにいた俺へと歩み寄る。そして、その隣に立つジェラードへと近寄った。


「もし、今、私が貴方を選んだらどうですか?貴方は私を愛してくれますか」


 母様は、こんなにも一人で悩んでいたのか、そう気付かされた。

 親父殿は、そんな母様を何も言わず見つめていた。



 誰もが沈黙していたその時、ジェラードが口を開いた。


「私はあの時、セシリアを心から愛していた。選ばれなかった日は生きている事が苦しく、ただ消えてしまいたいとさえ願った。しかし、闇の加護が強過ぎて自ら命を断つことは許されなかった……ゆえに、一人で生きる事を決め、隠者となる道を選んだ」


 ジェラードが、ちらと俺を見た。


「ただ、今はここにいるセラが気にかかる。出会いは良いものではなかったが、その名を知り、語り、日々を重ねるうち、娘のような気持ちになり……愛しい弟子のような気にもなった。そして、今は、この先を見てみたい」


 だから――と、言葉が続く。


「セシリア、私はセシリアを愛していた。私の中にも、そなたが今苦しんでいるような感情はある。だが、そなたには愛する者たちがいるだろう?だからこそ、今あるものを大切にするがいい――セシリアが共に歩く事を決めたヴァルター様は、素晴らしい人なのだから」



 ジェラードがふと思い出したようにファレルを見て笑う。「私がセシリアを振った、という噂が、噂でなくなってしまうな」と。


 ファレルは片眼鏡モノクルを片手で押さえながら苦笑し、ルーナは「そうね」と笑う。


 ただ、母様は一人静かに泣いていた。

 片思い程度にしか恋愛経験のない俺では、何の言葉もかけられなかった……。


「私は幸せです。幸せなのに何故、人はその日々が当たり前になってしまうと、今、掌に無いものを考えてしまうのでしょうか……」


 親父殿の胸に身体を預けながら、母様の涙は止まらない。


「セシリア、お前の掌をいつでも愛で満たそう。毎日、セシリアが笑顔になれるよう、限りない愛で包もう」



 親父殿が、生まれたばかりの俺にそうしてくれたように、包み込むように柔らかく母様を抱きしめた。

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