芥子色のライダース・ジャケット take #3




 芥子色のライダース・ジャケットを着て、北へ500キロ。

 一泊二日の小旅行に出た。


 毎年空が高くなると、クロゼットからこのジャケットを取り出し、夫ともに、クルマを交代で運転しながら、東北のとある古い町へ――――。


 海を見下ろす南向きの山の斜面に、彼岸花とコスモスが咲いている。

 白、ピンク、オレンジの可愛らしいコスモスと、鮮やかな赤の、細い繊細な花弁を持った彼岸花が迎えてくれる。そして、いくつもの墓石が段々の墓所に立ち並んでいる、先祖代々の山寺の墓地だ。


 “あの日”を生き延びた幼い姪子は、それを「黒い壁」と呼んだ。

 海を見渡すこの墓地の小山のふもとにある丘の上に作られた幼稚園。当時5歳だった姪はそこの園児だった。

 大きな地震が起こり、高台のその幼稚園からは、見下ろす海がどんどん沖へ引いていくのが見えたという。五〇年前の大津波を覚えていた老婆の園長先生がとっさに危険を察知し、子どもたちを高台にある山寺へ避難させた。だが未就学児童の歩みは遅い。幼な子はおんぶし、歩ける子は手を引き、のろのろと園の裏の山道を歩いていた時。


 「あのね、うみからね、くろいね、かべみたいなのがね、きたの。ずずずーんって。くるまとか、かんばんとか、ぜんぶね、のみこんでね。ずずずーんって、きたの」


 あの日を生き延びた姪子は、故郷にやっとたどり着いた私との再会を喜んでくれた後、そのようにして語ってくれた。普段は明るく、健やかな姪だが、おねしょが止まらなくなり、時折突然震えては、泣き出すことが多々あったと、兄嫁は言っていた。私は彼女をきつく抱きしめるしか、できることを思いつけなかった。

 

 我が家はあの町の山の手のほうにあった。五〇年前の大津波のときだって、さすがに我が家までは津波は来なかった。だから年老いた両親も油断したのだろう。我が家の脇を流れている小川をつたって海から駆け上ってきた『黒い壁』は、我が家もろともすべてを呑み込んで去っていった。両親は亡骸なきがらすら、見つかっていない。だからこの墓にも、彼らの遺骨が収められているわけではない。


 長い年月のあいだに角の取れた、石でできた階段をゆっくりと踏みしめながらあがってゆく。わずかに苔むした急な斜面には、いつも音がない。

 そして我が家の墓につく頃には、ふもとの小さな町が一望にできる。


 右手にひしゃくの入ったバケツ。

 左手には母の好きだった東京のかりんとうの包みと、父の好んだ国産のウィスキー。そして線香が入った紙袋をたずさえて。


 もはや、泊まる場所すらない、故郷の町。

 兄が住まう仮設住宅は、兄の家族だけでいっぱいだ。

 夫はここへ来たがったが、無理を言って隣町に唯一開業しているホテルに置いてきた。


 静かなこころで、親子水入らずを楽しみたかった。


 墓前に着くと、ゴミを取りさり、御影石の墓石にしょろしょろと、ひしゃくで水をかける。

 黒い石は水を吸い、るりるりと輝く。

 墓石の影で線香に火をつけ、そのたもとに捧げる。

 ゆっくりと、あたりに線香のこうがただよう。


 こころが安らぐ、くん、とした匂い。


 手土産の和菓子は、墓前にいくつか捧げるだけ。それは、カラスと野良猫が食べてくれる。ウイスキーをすこしだけ、墓前の杯に注いで。

 そして墓石の前にバンダナを敷いて、腰掛ける。

 ただいま、と手を合わせてから。


 生前はこんなに帰省しなかった。

 特に両親と親密であったとは言えないかもしれない。

 大学進学を機にこの町を離れ、東京で就職し、結婚した。

 東京生まれの夫の実家に住まい、子どもにこそ恵まれなかったが、四〇を越えてなお、大きな病気ひとつすることなく、健康でいられる。それは両親が与えてくれた貴重なギフトだ。


 父母とは、死別してからのほうが素直に顔向けができる。

 彼らにとって、自分がどんな子どもだったか、ここに来て思いをめぐらすと、反省したり、自慢げになったり、こころはあわただしくなる。ひとりで頬を赤らめたり、鼻息をあらげたり。


 そしても私も不惑の歳となり、時々死を意識する。

 父母のいる世界は、決して対岸の異国なのではなく、ここから地続きの世界なのだと、信じられるようになった。

 自分も中年になり、いつかは年老いてゆく。髪には昔のようなコシがなくなり、うっすらとしたぜい肉が、腰の周りを覆うようになる。


 ―――ライダース・ジャケットなど、似合わない歳になってゆく。


 青春の象徴のようなこのジャケットを、いつまで着られるのか。

 けれどそれは、自分自身の意識のありようなのかもしれないと、既にこの世にいない人たちの墓石の前で、私は思う。


 若くありたいわけではない。

 自分らしくありたいだけだ。

 芥子色のライダース・ジャケットを颯爽と着て、肩を張って歩くこと。

 まっすぐな心で微笑むこと。

 なめし皮のジャケットは、年を経るごとに肌に馴染み、着やすくなる。

 まるで第二の肌のように。


 あつかましくも、そう開き直れたこころを、物言わぬ御影石の墓石がからからと笑ってくれた。

 秋の墓前は、私を甘やかす時間のようだ。


 東京では、ネオンの灯りが灯りだす時間。

 町明かりのごく少ないこの町は、いつもよく早く陽が暮れる。日が暮れたらあの急な階段を降りられなくなるから。そう思って私は、腰を上げ、バンダナを畳んで。


 そっと、墓所に別れを告げた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る