第三章 〜神戸は晴天の台風〜

真実

 ベッドに横たわる母は、ただの物体でしかなかった。昔に憧れた母の面影はどこにもなく、そこにいるのはただ生かされている物体。こんな物体に、私は人生を弄ばれていたのか。そう思うと怒りよりも悔しさが、汗のように体の表層に吹き出してきた。

 祖母は席を外していて、いなかった。趣味の刺繍を途中で放り出しているのを見ると、御手洗にでもいっているのかもしれない。こぎん刺し。それは同じ模様が縦にも横にも並んでいる。循環。昔からよく、ポケットティッシュのカバーなどを祖母は作っていた。それを使いなさいと母に渡されて、学生時代は仕方なく使っていたがあまり好きではなかった。もっと見栄えのいい、クロスステッチで作った花の柄なんかの方が良かった。こぎん刺しなんて年寄りくさい。そんな事をふいに思い出した。今見ても、こぎん刺しのその模様は気持ちが悪い。刺繍針が、鈍く光っている。

 横たわる物体を見ていると、言ってやろうなんて思っていた言葉の数々が行き場を失っていくのを感じた。こんな物体になにを求めていたのだろうか。ただ本当に物体になるだけの、目の前のこれに。賞味期限ギリギリのこれに。私は何をぶつけようとしていたのか。悔しい。私の三十年間はいったいなんだったのだろうか。父という記憶を塗り替えられ、私の嘘を許容する事で自らの嘘を私に押し付け、救いは皆で分け与えるなんて言葉で自分のつらさを軽減する事を正当化した母。自分本意ではありながら、それを悟らせないように巧みに父や私を取り組んだ母。呪術師のような母は、呪いを四方八方にばらまくだけばらまいて、自分は静かに死んでいこうとしている。それを悔しいと感じてしまう時点で、私の心は自らのつらさを人に押し付けて軽減させようと考える母の呪いを一等強く受けているのだと自覚させられ、なおも悔しい。

「ようちゃん?」

 眠っていた物体は、突然言った。それがあまりにも突然の事で体を震わせた。いざ呪術師と対峙すると蓄積された呪いが敏感に反応しているのだと身をもって感じた。父から受けていたと思っていた呪いは、母からしっかりと受けていて、それはこの五年間母と出会っていなくてもしっかりと潜伏していたのだろう。まるでヒ素中毒のようだ。その症状は、今になって表層に現れ出している。体の至る所に、母の存在を感じる。目の前の母はこんなに弱っているというのに、私の中の母はいまだ強い力をもって、深刻な症状を具現化しようとしているのか。悔しい。

「看護師さん」

 そういって伸ばされた手は、ゴム手袋みたいに作り物めいた手の形をしただけの物体にしか見えない。

「洋子だけど」

 自分でもぞっとするような冷たい声が喉から漏れた。誰の声かと一瞬疑ったが、紛れもなく、それは私の声だった。

「洋子? 誰?」

 それは言った。

「えっ?」

 どうも焦点の定まらない目線。呆けた表情。私は知らなかったが、もしかしたら。人を呪わば穴二つ。父や私への呪いは母に返ってきているのかもしれない。多分、いや、きっと。

「お母さんも記憶の混濁がひどいそうやわ。お父さんと一緒や」

 振り返るとそこに祖母の姿があった。以前より腰が曲がっている。しかしなぜか、あの頃よりも元気そうに見えた。祖母もまた、救いというものを見付けたのだろうか? だが救いという名を冠した優越感や自己満足とは違うようにも感じる。

 目も合わさず私の横を抜けてベッド脇の椅子に座ると、中断していた刺繍を再開した。黙々と針を刺していく祖母。誰も喋らなかった。静かに時間だけが過ぎていく、ゆっくりと、今まで会ってなかった時間を吸収していくようにゆっくりと。

 よくよく考えてみると、母に憧れを持っていた時期はあった。それなのに母の事を好きだったといえるような記憶は何ひとつない。それは母の呪いに、本能のようなもので頑なに拒否を示していたからではないだろうか? 母の呪い。それは確かにあった。目では見えない、だが形而上には確かにあった。母はこのまま死んでいくのだろう。その時しっかりと母からは魂の分の二十一グラムが抜け落ちるのだろうか。それとも、それ以上のなにかが抜け落ちるのかもしれない。母自身にかかっている呪いの質量や、これから誰かにかけようとしていた呪いの質量が。それこそ役目を終えたように、そこからすっぽりと抜け落ちていくようなそんな気がする。

「いつまでこっちにおるんや?」

 祖母はいつも突然だ。

「今日中には帰る。つもり。あんまり長くいても仕方ないでしよ?」

「おかあさん、このまま死んでまうかもしれんのやで?」

「仕方ないよ。人間なんて、いつかは死ぬんだから」

「人間に見えるか? これが」

 言葉に詰まった。心の中を覗かれているような気がして、鼓動がはやくなる。祖母は黙々と刺繍を続けている。こぎん刺し。いくつも同じ模様を作り続ける祖母が、窓から差し込む明るい日差しとは裏腹に不気味に目立つ。

「人間に見えるか? これが」

 同じ質問を繰り返す。返事をしなければ。と思うのにうまく言葉が出てこない。額に汗が出てくる。脂っこい嫌な汗が。

「人、に見えるけど、当然」

 喉がひりつく。無理やり出した言葉は、どこか作り物めいた響きを床に落とした。嘔吐物のような言葉が床にへばり付いているような気がする。それを吹き飛ばすように、強い風が一度だけ窓から廊下へ抜けていった。床に落ちた言葉は今どこにあるのだろう。

「ようちゃん、お父さんの事ほんまは好きやったんやろ?」

「どうして?」

「見とったら分かる。呪いにかかってる姿は、なんや滑稽やったわ。なんやかんやいうても、ようちゃんはお父さんの姿を目で追っとったやろ」

 今となってみれば、思い当たる節はいくつかある。最初に父の変化に気付いたのは、私だった。一緒に生活しているのに、誰も父の変化に気付いていなかった。お父さんが変だよ。私がそういってから、みんながそれに気付いたのだった。それは私が家族の中で誰よりも父を見ていたからだ。それに私がコンパで会った男は、父に似ていた。それだからこそ、私はやすやすと彼に付いていったのだ。

「呪いなんて、そう簡単に取り除けるもんやない。呪いはずっと続く。おばあちゃんやって呪われてるから、分かるんや」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る