交わっていく、ねじれた線

 私は指定席を取っていた。でも桜ちゃんが自由席だったので、私も自由席に座る事にした。

 一度会話が途切ると話し始めるタイミングが掴めないのか、桜ちゃんは口を閉ざしていた。話す側だけでなく、聞く側である私もまた聞くタイミングを掴めないでいた。桜ちゃんに話して欲しい反面、それを聞く事で自分があらぬ方向に変わってしまうのではないか。そんななんともいえない不安のようなものが私の底からぽこり、また、ぽこりと顔を出してにやにやと見てくる。

その顔は母であり父であり祖母であり祖父だった。そんな錯覚を覚えた。いや、桜ちゃんが言っていたように虚構でありながら、これは真実なのかもしれない。


「そういえば、どうして神戸に帰るんですか? 神戸が嫌いなのに」

 少しだけ言い淀んだ。しかし隠す事でもないし、これをきっかけに父の話を再び聞けるかもしれない。私は口を開く。それを嫌がるように、口の中の粘っこい唾が糸を引いたのをうっすらと感じた。

「母がね、もう長くないの。父がいなくなってからというもの、どんどんと弱くなっていってしまったみたいで。昔桜ちゃんが言ったの覚えてるかな?」少しだけ溜めてから言う。

「救いが優越感と自己満足だって話」

「そんな話、しましたっけ?」

「してたの。私はそれがね、とても的を射ているように思った。そしてそれは確信に変わった。母はね、父に救いを差し出して自分を保っていたの。優越感と自己満足によって。父がいなくなった後の母は、もう、ただの機械みたいなものだった。ルーティンで動いて、そのまま劣化していくだけ。誰も油を差してはくれなかったみたい。次第にルーティンすらこなせなくなっていった」

「油を差すのが、洋子さんでも良かったんじゃないですか?」

「そうはいかなかった」

「どうしてですか?」

「それはおいおい話をするから、今は父の話を聞かせて」

「そう……ですね」

「ええ」

 納得がいったように桜ちゃんは軽く背筋を伸ばす。覚悟。話す覚悟が出来たのが手に取るように分かる。そして私も、覚悟が出来た。

「お父さんは、祈ってました」

「それはさっき聞いたわ」

「ごめんなさい。そうでしたね。祈りは誰に向けたものだったのか。結論を先に言ってしまうと、それは洋子さんでした」

「私……」

「はい。そのあと、お父さんは少しだけ私と話をしてくれました。一言一句とまではいきませんが覚えています。お父さんは私の顔を見て、こう言ったんです。君からは洋子の匂いがするって。そう言ったんです。私は最初、意味が分かりませんでした。でもこちらを振り向いたお父さんの顔を見て。ああ洋子さんって、そうか、洋子さんの事だったのかって合点がいきました。顔がそっくりだったんで、すぐに分かりましたよ」

 桜ちゃんは思い出したように優しく、しかしどこか悲しそうに笑った

「それで?」

「あとは家庭の話を少ししていました。僕は記憶喪失なんだ。とか、他には、洋子さんと一緒で呪われている。とも言ってました。そう、さっき洋子さんが言ったのと同じ。呪われているって、そう言ってました」

「私と一緒?」

「呪いっていうのがなんなのか、私にはちんぷんかんぷんです。でも、洋子さんは分かってるんじゃないですか?」

「いいえ。私にも、よく分からない」

「そう、ですか……」


 沈黙が重たい。

 呪いが私と桜ちゃんの間にも派生してきたのかもしれない。蔓延る呪い。呪い。一つ疑問が浮かんだ。私と一緒で父も呪われているというのはどういう事だろうか。私の呪いは父によってもたらされたものである。それならば父は、自らの呪いが自らに返ってきたのだろうか。人を呪わば穴二つ。そんな言葉がある。自業自得じゃないか。私とは違う。でもなにかが、ひっかかる。なにかが。

「あともう一つ」少しの間は意図的なものではないように思う。言いにくいのだろう。

「洋子は悪くないんだ。僕がハンドルをしっかり握っていなかったのが悪かったんだ。とも言っていました」

 事故。電信柱に父がぶつかった時。そうだ。私は、あの時父の隣に座っていた。どうして忘れていたのだろう。

 目の前で父が頭から血を流す姿を、顔にべったり付いた血を、私は知っていた。なのに知らない振りをしていた。いや、違う。私は本当に忘れていたんだ。意図したわけではない。私の心を守るために、私の脳はその記憶を私の中から消し去ろうとしていたんだ。しかしパソコンでファイルを削除した時のように、ごみ箱というフォルダに削除したファイルが残るのと同じ。その時の記憶は完全に消えてなくなってしまったわけではなかったんだ。


 蘇る記憶。犬。幼い頃、動物が好きだった。特に犬が好きだった。幼い私でも手を差し出せば、優しく寄り添ってきてくれる。そんな犬が好きだった。幼い私は興奮している。犬がいるよ。父に告げる。そして、父の腕を手繰り寄せる。幼い私の両手。父の声。驚いたように聞こえる。途端に父の左腕が私の体を押さえつける。衝撃と同時に、慣性の法則で体が動く。大きく前に動く。金属がぶつかり、曲がり、壊れる音。そして父の呻き声。父の私を押さえる腕から力が抜けて、手のひらが私の太腿の上に落ちた。パパ。そうだった。この頃は父の事をパパと呼んでいたんだった。海外のホームドラマを見て、パパという呼び名に憧れた。それで、お父さんと呼んでいたのをパパに変えたんだ。パパはハンドルと横のガラスにガツンって頭をぶつけた。車がすごく横に揺れたからだと思う。血が出てる。パパの頭とか目の横とか鼻とかから。大丈夫? パパ。パパ。なきごえ。さっきのわんちゃんが、さかさまになって私とパパを見てる。パパ。死んじゃった。私のせいで。パパが。私がパパの手をぎゅってしたから。わんちゃんを見てほしかったから。私のせいだ。私のせいで。私が、私がパパを。殺しちゃった。大好きなパパを。私が。パパ大好き。


「洋子さん?」

 あの時、私が父の腕を引き寄せた。それでハンドルを左に切ってしまった父。そうだ。あの時、私は助手席に座っていた。父が運転する車の助手席に。

「父は自分が悪いって、そう言ったの?」

「正確には、洋子は悪くない。としか言ってませんでした。でも、きっと、お父さんは自分が悪いんだって、そう思っていたんだと感じました」

「そっか」

 私は勘違いをしていたようだ。

 我が家に隠された一つのロジック。

 呪術の使い手は、父ではない。

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