第二章 〜尾道から神戸への道中〜

台風の予感

「ようちゃん帰っておいで」

 電話越しに震える祖母の声は、母がもう長くはないと如実に伝えていた。

 夜勤明けで霧がかかったような思考の中で、「はい」と無感情な言葉が口をつく。思い浮かんだ母の顔は若い。一番必要としていた時期の母の顔。その顔ばかりが渦を巻いた。いつから母を必要としなくなったのかなんて覚えてはいない。父の記憶と同様に、母の記憶もどこかに置いてきてしまったのかもしれない。

 今でも桜ちゃんがいなくなった日の記憶がよみがえる事がある。その日は父という枷から解放された日であるから。しかし母にとっては、そうではなかった。あの忌々しい日々からの解放は、母に重大な欠陥をもたらした。父を支えているという優越感や自己満足がなくなってしまうと、母は自信を喪失していった。それは精神面に大きな瑕疵を作り、そこからドボドボと抜け落ちていく母という概念。母は自分を完全に見失ってしまう。仕事は手に付かず、会話もままならなくなり、基本的な日常生活を送る事が困難になっていった。祖母は献身的に母に尽くしていたと思う。実際に目にしたわけではないが、主従という関係外にある場合の祖母は強い女性だったから。それは昔、祖父が退職して家に籠もるようになる以前の姿を見ていたからこそ知っている事実だ。とはいっても祖母だって、それから幾つも年を重ねている。いつまでも強いままではいられない。そうして堪らなくなって、私に電話をしてきたのかもしれない。もしくは母の最期を看取らせる為だけの連絡だったのかもしれない。それについて私が伺い知るのは野暮だろう。

 幾つかの衣類を取りに家へ帰ろうかと考えた。しかし母の傍らで長居をしてもどうにもならない。母の顔を見たらすぐに帰ると意志を固めて、そのまま尾道駅に向かう事にした。なにしろ家に帰るには駅を通り過ぎて、また戻ってこないといけない。夜勤明けの体には、それすらも手間なのだ。


 尾道の駅に新幹線は止まらない。新尾道という駅は、新神戸駅と同等の扱いといえるのではないだろうか。どちらもアクセスが悪い。尾道駅のみどりの窓口で、福山から新神戸まで新幹線に乗るのに必要な券を買った。乗車券自体は尾道からのものだ。この長方形の乗車券が、尾道と神戸を繋ぐのかと改めて考える。妙な気分になった。そして改札機を通ると同時に、それは可笑しさであると気付いた。肺の空気が漏れる。可笑しいにもいくつか意味がある。この時点での可笑しさとはなにに当たるのか。今は分からない。ずっと分からないかもしれない。それすらも分からない。

 ピンポンと間抜けな音が後ろから聞こえて振り返る。おじさんが改札機でひっかかっていた。あたふたとしているおじさんを見ていると、単純に可笑しくなってきた。この可笑しいは単純なのに。と、どこか達観している自分の存在を感じた。


 魂というものの存在はいまだ解明されていない。それが脳に宿るものなのか、心臓に宿るものなのか、はたまたどこにも宿りはしないのかもしれない。しかし海外の医師の実験において人が死んだ際に体重が二十一グラム軽くなったという説がある。眉唾物ではあるが、もし事実であったとしてその魂というのはどこに宿っていたというのだろうか。死の瞬間に体から抜けていくというのは、魂というものが死んだ一人の人間とは無関係な存在であるともいえるのかもしれない。寄生虫のようなもの。死んだ宿主の体にいたところでなんの恩恵も受けられぬと判断する魂。それは新しい宿主を捜しにいくのかもしれない。生きていても生きていないような人間というのがいる。彼らは魂に寄生され、生きるという行為を食い荒らされたのではないだろうか。もしそうなら自分に優越感と自己満足という生きる糧を与えていた父を失って、母は魂に見限られようとしているのではないだろうか。


 魂が抜けたような顔をしたおじさんが隣につっと現れた。さっき改札機でひっかかっていた、あのおじさんだった。彼はため息を吐くとスマートフォンの画面を睨んだ。そこには娘と呼ぶにはいささか幼すぎる女の子がいた。彼女は笑顔をおじさんに投げかけている。笑顔とため息の入り組んだ関係性を検証するには情報が少なすぎる。とはいえ一つの仮説をたててみる。


 彼女は単純に考えると孫だろう。おじさんは若くに子を授かった。それは今でいうところの授かり婚というもので、おじさんは両家両親の反対を押し切り駆け落ちをした。そして東京でなんとか日雇いの仕事を探り当てながらぎりぎりの生活を続け、なんとか出産の日を迎えた。子どもは女の子だった。孫の顔を見れば両親も自分たちを認めてくれるのではないか。そう考え女の両親の元へ向かうが、バブルが弾けた影響というのは思っていた以上に大きかった。日雇いの仕事で生計をたてていた男は経済の大きな流れを確認するだけの余力がなかった。日本は大きな変革の時期にあったというのに。女の父は失踪し母は余命幾ばくかの弱々しい姿で、二人と一人の姿を瞳の奥に認めた。

「出て行って、それはそれで良かったんかもしれんな。ここにはもう残り滓しかあらへん。その子の為にも……名前はなんていうんや?」

「京子や」

「東京の子やな。京子、あんたは東京で生まれて東京で死んでいくんや。こんな残り滓しかあらへんとこにおったらあかん。お母さんとお父さんの支えになったりや」


 ホームに福山まで向かう電車が着いた。

 私の仮説はそこで途絶える。気付けばおじさんは隣からいなくなっていた。私の心にしこりのようなものを残して。電車の扉は開いたのに誰も降りてくる気配はない。私は電車に乗り込んだ。しこりに気付かない振りをして。

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