神戸から尾道へ
台風は私が思っていたよりも強く神戸の街を呑み込んでいった。病院の壁は一部が損壊し、海は波を高く空中に投げ出すと、その損壊した部分に激しく打ち付けている。病院は激しい叫びを上げた。人間は息を潜めその営みに耳を傾ける事しか出来ない。誰もが恐怖と戦っていた。近年稀に見る巨大台風という触れ込みは本当のようで、吹き荒ぶ嵐は病院をミキサーのように掻き乱していたのだ。
午前五時三分。世紀末的な病院の中にいて、この状況で確かに世界を生きている人物が一人だけいた。桜ちゃんだ。彼女はこの状況を楽しむようですらあった。私だけでなく多くの看護師とドクターが病院内で立ち竦んでいた時、彼女はダンスでも踊るように患者さん一人一人に声をかけて回った。私たちは彼女の作った轍を進んでいく事しかできなかったが、それを恥とは思わなかった。それどころか彼女の作った轍を進んでいった事で医療従事者としての誇りを取り戻す事が出来た。動かなければならない。患者さんは私たちよりもっと不安なはずなのだ。そういった当たり前の事でありながら緊急時に忘れてしまいがちな事態を思い返す余裕を与えてくれた。
この時になると、私だけでなく看護師やドクターたちであったり患者さんたちは心に一つの確信が浮かんでいたのではないかと思う。尾道桜という看護師は、本当に白衣の天使なのだろうという確信が。それは決して看護師の美称としてだけの意味ではない。言い換えるなら天使が白衣を着ている。そういう意味であった。しかし私たちはあるタイミングで気付いてしまう。これは永遠ではないのだと
午前五時十八分。あれだけ荒れていた海は転じて凪になった。風の音はどこからも聞こえない。病院の中にいる一人一人の呼吸音が重なった。その時、外からざぎゅずざぎゅずと湿気た砂を踏む音が響いた。窓の外に目をやると桜ちゃんが歩いていた。ゴミや木の枝、病院の壁の一部、なにかのパーツと思われる金属製の部品といった多くのものが作り上げた一本の道を。その光景は旧約聖書でモーセが海を割った光景の再現であるように見えた。その道の方向には約束の地カナンではなく、ホームセンターのコーナンしか見えてはいない。
桜ちゃんはそのまま一本の道を歩いていき姿を消してしまった。
再び風が吹き、海は騒ぎ始めた。モーセが割った海が追ってきたエジプト人達を飲み込んだように、私たちのいる病院に再び世紀末的に損壊していく予感が躙り寄ってきた。
忙しない日々は、考えるという行為を遠ざける。台風の通過と桜ちゃんがいなくなってからの数日間はてんやわんやで、時間がいつもより早く吹き抜けていった。シフト調整での連勤や患者さんの移送、病院内の掃除と片付けなど、イレギュラーの連続に辟易や疲労を顔に張り付けた看護師とドクターが病院内をゾンビのように練り歩いていた。しかし一週間もすればいつもの日常が訪れた。そうして考えるという行為を、私は再び取り戻し始める。白衣の天使を目にした人々は彼女の再訪を期待し、当直でなかった者は彼女を悪魔か疫病神のように扱った。どうして桜ちゃんは病院を去ったのか。これについて答えられるものは誰もいない。いくつもの憶測が病院内を飛び交った。そのどれもが信憑性に欠けていた。憶測でそれらしい理由をでっち上げるのは容易い。しかしその理由たちは、あまりにも整合性が取れすぎていたのだ。人間というものは、そこまで整合性が取れた行動が出来るものだろうか? そうは思わない。桜ちゃんがいなくなったのは、突発事故のような衝動的なものである。これはそうであると思い込みたい私のエゴなのだろうか?
病院から桜ちゃんが消えたのと時を同じくして、父もまた姿を消した。母と祖母は口にはしないものの、あの忌々しい日々を喪失していくのだという事実に安堵しているように思えた。一方で祖父は、力なく毎日空を見上げるようになった。雲がある日もない日も。晴れた日も雨の日も。まるで子どもが、手を離して空高くに飛んでいってしまった風船を目で追い続けるように。祖父に痴呆の兆しが起き始めた。物事が一つ終わりを見せると、新たな物事が始まりを告げる。そういう風に世の中は出来ているのかもしれない。
私は病院を辞める事にした。
そして家を出て、神戸から離れようと思う。看護師という仕事のいい所は、就職先に困らない点ではないだろうか。どこに住むかは決めていなかったが、今決めた。尾道にしよう。桜ちゃんの名字と同じあの町なら、なにか面白い事がありそうなそんな気がするから。台風のような強風は真っ平御免だが、少しくらいの風なら立ち向かえる気がする。この数日間で私は多少何かを飛び越えたような気がするから、太平洋や大西洋は無理でも瀬戸内海くらいなら飛び越えられる自信がある。瀬戸内海にはいくつも島があって、そこを飛び石みたいにすれば苦労をしない。それを試すには尾道は最適だと、そう思わずにはいられなかった。
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