可能性は、まやかし

 ナースコールが鳴る。誰もいない部屋ではなく、誰もいなかったはずの部屋から。桜ちゃんが緊張を内包しているような気がする。ナースコールが鳴った部屋がどこであるかを確認して、肩が少しだけ跳ね上がったように見えたから。

「次は、私が行くから」

 私の心臓が早鐘を打った。ナースステーションから一歩踏み出す。今日何度目になるか分からない、薄暗い廊下を進んでいく。不安を増長させるような廊下。家にも一本だけ廊下がある。その突き当たりの部屋には父が幽閉されている。日がな一日、家に籠もっているためか時間の感覚に疎い。夜中であろうと昼間であろうと廊下に突然現れるのだ。ぬぼっと現れる姿を地縛霊みたいに感じた。地縛霊を目にした経験なんてないけれど。家にある廊下と病院内の廊下はどこか似通っていて、不安を感じるのはそのせいだろう。しかし不安の原初が家なのか病院なのかは、私自身でも分からない。なんにしろ不安は付き纏う。私の意志とは無関係に。乱暴に。


 領主と呼ばれた男の部屋で窓ガラスは再び割れて、ひゅおうひゅおおうと風がわざとらしい音を立てながら存在を主張している。なにが窓ガラスを割ったのかは一目瞭然だった。木の枝。それはベッドに引っかかって、人間の腕みたいにゆらゆらと揺れている。領主と呼ばれた男の気配を感じた。乱れたベッドの上から。揺れている木の枝から。割れた窓ガラスから。気配は満遍なく立ち上って、部屋全体を満たしていた。体の中に入ってくる領主と呼ばれた男の気配。それは確かに私を犯した。足から力が抜けていく。膝。次いで尻に走る衝撃。私はくずおれてしまったようだ。


 廊下の先から歩いてきた父を避ける。父はすれ違いざまに、「ようちゃんはどこや?」と視点の定まらない目を私に向けた。父の記憶障害の原初はそれだった。

「お父さんが変だよ」

 母は私の言葉を聞いて、「失礼な子ね」と私を窘めようとした。しかし私の説明を聞くと、すぐに父にいくらかの質問をした。質問の内容は覚えていないが、過去と今に跨がる色々を聞いていたような気がする。母はすぐに電話をかけた。そしてすぐに父と私を車に乗せた。母の運転する姿を見るのはとても久し振りに思えた。車で学校に行けるなんてラッキーだなと思っていた。この日から呪いが連綿と続いていくとも知らずに。

 事故の影響で記憶に関する脳の機能が著しく欠損した父。最初の内、父の記憶障害について私はかわいそうだと思った。しかし、それは流れ星が過ぎ去る瞬間より短い期間だった。壊れたおもちゃを気が付けば邪魔に思うのと同じ。父の存在が目障りになり、同時に家庭との不調和を起こした。もしもそれを第二次反抗期と呼ぶのであれば、私はまだ過途期にあるといえるのかもしれない。長すぎる反抗期は、私のモラトリアムを象徴しているようにも考えられる。しかしこの生理的拒否反応を第二次反抗期と呼ぶ事を、私は良しとしない。それもまた反抗期的反応といわれてしまえばおおっぴらに否定は出来ない。しかし本当はそれを否定して突っぱねようと思えばそう出来ると知っている。なぜなら最初に廊下で父を避けた時、そうしてしまった私を私自身が許せないでいたからだ。父への生理的拒否反応は、父に私を重ねることで私が私自身を避けてしまうのを回避する為の皮肉であり、小さな小さなプライドを固持する為の仕様もない言い訳でしかないのだから。


 部屋に満ちた領主と呼ばれた男の気配は、小さな小さな私のプライドを犯し尽くす。自尊心をレイプする。

 初めて痴漢にあった時、声が出なかった。尻から伝わる熱。助けての一言が出なかった。恐怖が一瞬で私を支配した。逃げたい。それしか頭になかった。次の駅に着くと、私はすぐさま電車を降りた。痴漢男が電車を降りる気配はなかった。それで私は逃げ切ったと勘違いをしていた。電車に向き直ると、痴漢男は胡乱な表情を私に向けていた。何度思い返しても痴漢男のその表情は、領主と呼ばれた男そのものだった。

 私のプライドは、何年も磨かれずにいる底が擦り減った革靴で踏みつけられた。汚らしく、そして、惨めに。ベッドのひっかかった木の枝に手を伸ばすと、それは冷たく私を愛撫して、慰み者にするように見え隠れする嫌悪をゆらゆらと揺れる度、ちらちらと見せつけてきた。


 ようちゃんはどこや?

 廊下から父の声が聞こえた気がする。立ち上がると膝に付いた小さなガラス片が重力に負けて落ちる。その音を聞いて足を出す。再びガラス片が落ちていく。この部屋に留まろうとする私の心の欠片。それはいつか読んだ小説の章節に似ていた。心を支える為に体を投げ出すように、体を支える為に心を投げ出す。どちらであっても、それは確かに自殺と呼べるのではないだろうか。一度ではなく何度も手首に刃を当てた過去がある。それは心を支える為の細やかな犯行。人生への反抗。いや、そんな立派なものではなくて、これはただ現実から逃げているだけ。でも私の賞味期限はとっくに私を追い抜いてしまい、なにから逃げているのかを見失い、追っ手もいないのにただ無様に逃げている。吹き込む風の音が聞こえない。


「洋子さん?」今を取り巻く過去の記憶を吹き飛ばす強い風。桜ちゃんは私を覗き込んで笑った。

「こんな場所にいても、ろくな事がないですよ」

 ろくな事がない。確かにそうかもしれない。私は釣られて笑った。それがどんな意味の笑顔だったのか特に考えもしないまま受け入れられたのは、眼前にぶら下げられた救いの為。母の語った救い。桜ちゃんはそれと同じ認識で救いを享受しているように見受けられる。救いとはなんなのだろう。救いとはなんだ。与える側と受け取る側。いや違う。与える。それに対となる言葉は、奪うであるべきだ。救いを与えるとはよく聞く。だがよく考えてみると、与えるとは押し付けがましく傲慢ではないか。与えるという事は同時に奪うに等しい表現とも受け取れる。救いを与えたが為に他の救いの可能性を考慮させないというのは、確かに救いを奪うと言えなくもない。暴論極論大いに結構。母と桜ちゃんによる救いの横暴は私を縛り付ける大きな鎖。私は笑顔を顔に張り付け、膝に食い込む心の欠片の存在を静かに留保させておく。救いとはなんだ。私が与えて欲しい救いとはなんだ。

「ねえ、桜ちゃん」

「なんですか?」

「救いってなんだと思う?」

「優越感と自己満足ってところですか」

「それって本当に救い?」

「救ったつもりで救われていない人もいれば、なにもしていないつもりでも救われてしまう人もいるはずです」

「それが答え?」

「可能性です。いくつかの」

 淀みなく答える姿に嘘はない気がする。強い風が髪を攫う。

「可能性なんて、まやかしじゃない」

「そうかもしれません。でも、まやかしが救いにならないなんて言い切れますか? 言い切れないはずです。まやかしであるからこそ、自分の中で答えを導き出して、それが救いになる人だっているはずなんです。救いは与えられるだけじゃない。自らで生み出す事だって可能なんです。まやかしによってそれを理解させられたなら、与えられただけの救いこそがまやかしだったって思えませんか? そこにただ漂っているだけなんです。救いなんてクラゲみたいなもんですよ。ゆらゆらぷかぷかです」

「桜ちゃんって変な子ね」

「ごめんなさい。前言撤回。やっぱり洋子さんは普通じゃないです」

「あんたにだけは、言われたくないわ」

「ですよね。まあこんな問答に答えなんて、あるわけないんですよ」

 領主と呼ばれた男の亡霊の中、私と桜ちゃんは笑った。さっきとは違って、今回は素直に笑えたような、そんな気がした。


 台風は猛威を振るい続けて、病院は崩れてしまうのではないかと思うほど大きく揺れた。嵐の中を進む船と大差ない。しかしいつになく、心は穏やかだった。

 それは桜ちゃんとの話のおかげだろう。母の救いという言葉からの違和感は、私の中で幾分大きくなりすぎていた。母は私の数少ない本当の家族だ。それ故に私は、違和感を是としなかった私自身も是としなかった。母を正当化する為、自らにぎゅっと圧をかけ続けて私自身を批判し続けていた。母を正当化する道理はない。それは私自身を批判する道理もないというシンプルな筋道であった。当然の事。誰もが意識なんてする必要がないのに、私は過剰に意識してこれに当たる必要があった。それは私が人より劣っていたり、普通じゃないからというわけではない。意識する必要があると体にプログラミングされてしまっているからだ。プログラムは実行される。その為にあるのだから。

 ただ母の問題に筋道を見いだしたからといって、私の全てが変わるわけではない。父は私の中の一番のわだかまりであるし、母の問題と父の問題は全く別次元の話だ。それに領主と呼ばれた男であり同時に痴漢男でもある男の亡霊は、いまだここに存在している。そして私の膝に食い込んだガラス片は痛みを伴う。

「ここは私一人で大丈夫だから、他をお願い」

「はい。お願いします」

 頭を下げてから病室をするりと抜け出していった。再び男の気配が高まる。しかしその雰囲気に甘んじるつもりは毛頭ない。過去に立ち返る必要はあれど、過去に執着を残す意義などない。


 病室は一転。私は電車の中に立っている。男の手を払いのけると、尻から伝わる熱は雲散霧消していった。電車が駅に到着して扉が開く。電車から降りて、私は振り返る。そこには胡乱な目の存在などない。あるのは、この病室と同じ。死んだ男の亡霊。ただその気配だけであった。追憶だけで当時の恐怖が消えるわけではないし、当時の私を救うなんて事は出来ない。そうであっても、心には確かに自己満足の欠片が見えた。膝に食い込んだガラス片は床に落ちていた。ここにいた男の正体を知る事で私の心が救われはしない。しかしここにいた男の正体を消すことで私の心が救われもしない。あんたなんて興味がないし、私に二度と関わらないでくれと強く訴える。それが私にとっての救いなのかもしれない。桜ちゃんは優越感と自己満足こそが救いだと言った。確かにそれは私にも通じる点があるのかもしれない。男の気配はここから完全に消えはしないが、それでも私が気にする程の気配の大きさではなくなっていた。というよりは、私が無視できる気配の大きさの幅が広がったといえるのかもしれない。ベッドに引っかかった木の枝を手に取ると、風が荒々しく髪を撫でた。昔、父が私を撫でたように荒々しく。

 父は子どもの扱い方が下手だった。頭を撫でる時、肌に触れるのを躊躇するように髪だけを荒々しく撫でた。そうすると髪の毛はぐしゃぐしゃになる。子どもながらに、髪の毛が乱れてしまうのをみっともないと感じた。やめて欲しいと思いながらも言葉にはしなかった。どうして言い出せなかったのか。それを覚えているほど、私の記憶力は立派なものではない。父との記憶は嫌なものばかりで、記憶に残したくないと思えば思うほどにそれは根を深く張った。過去の私は本当に父を嫌っていたのか。それすらもう私には分からないのだ。割れた窓の外は暗い。腕時計を見る。時刻は午前四時五十分。

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