交わる事のない、ねじれた線
「っていうか、洋子さん、血」
血はすでに止まっていた。それが必死に指へとくっつく様子は父に固執する祖父であり、また家に縛り付けられる父そのものであった。爪で軽く押してやる。再び血は流れ出した。流れ出す血は心を乱暴に掴んで引き裂くようなな暴力の片鱗を想像させた。桜ちゃんが領主に犯される姿が目に浮かぶ。
「そういえばさっきの、領主があの部屋にまだいるって話、あれどういう意味?」
伝線したストッキング。赤らんだ肌。私の中の暴力と心臓の鼓動の早さを助長させる要素。今は心に強い風は吹き込んでいない。それでも周囲を取り巻く強い風の存在を確かに感じている。今ここが台風の目であるかのように。
「ああ、あれですか? 特に深い意味はなくて、額面通りの意味ですよ。私、たまに見るんですよ幽霊とか」
あっけらかんと笑いながら言っているけれど、なにか怪しい気がした。それが信実であるなんて、外からは確認のしようがない。それと同様、嘘偽りであるとも断定は出来ない。結局は桜ちゃんの言葉を、そのまま受け取る事しか私には出来ない。
「幽霊か。死んだ人に会えるなら誰に会いたい?」
別に興味があったわけじゃない。話題を逸らすように、そんな質問をしていた。たまに自分の意志とは別のところで意識が働く。そんな時、突拍子のない出来事が世界に流出していく。私はそれを止められない。だって私の意志ではないから。誰かの意識だから。
「死んだ人とは、もう会いたくないですね」
いつもより小さな声の桜ちゃんは、なんとなく悲しそうに見えた。
「そっか」
「そうです」無理に言葉を繋ぐ必要なんてないし求めてもいないのに。言葉が止まらないのかもしれない。
「もう私の中では一区切り付いてるのに、また出会っちゃったら、次はもう区切りを付けれる自信がないです。だってそうじゃないですか? また出会えるのかもって、絶対期待しちゃうと思うんです。それでまた会っても辛いし、会えなかったらもっと辛い。そんなの誰も救われないじゃないですか」
その時、そこに母の目を見た。あの時の、私を殴った母と同じ目。状態も感情も違う二人なのに、同じ目がそこにはあった。台風の目。大きな風を、母も桜ちゃんも纏っている。それを表現するにはなんという言葉が適切だろう。覚悟? 自信? 信頼? どれも当てはまらない。でも、どれもが密接に関係している。二人の頭の中を覗く事は出来ない。私自身の頭の中を覗けないのと同じ。
「そっか。そうだよね。ごめんね、変な事聞いて」
これは私の言葉であってる?
「今日の洋子さん、なんか変じゃないですか? 考えるより行動に起こした方がいいですよ。後悔するとかしないとかじゃなくて、その方が生きてるって感じしないですか?」生きている感じがすると、言いたいんだろう。
「人間だって、台風を起こしちゃって良いんですよ。今日みたいな日は特に」
台風を起こす。私はいつも台風に対して傍観者だった。
大学生の頃に何度かコンパに行った事がある。唯一私をコンパに誘ってくれる早希は、いつまで経っても色褪せないだろうキャンパスライフを送っていた。誰に対しても明るい。そして分け隔てなく振る舞う。太陽でありながら、常に誰かを従えていて騒々しく台風のようでもあった。私は静かに暮らしていたいタイプだったので、最初の頃は早希を避けていた。と思う。しっかりとは覚えていない。なぜなら早希に声をかけられる前の日々は、私にとっては色彩の薄い記憶で、しっかりと脳に焼き付くようなものは無かったから。
コンパにどうして私を呼ぶのか。早希に聞いた事がある。彼女は言った。
「大学でいつも一緒にいる子たちって、確かに遊んでる間は楽しいんだけど、社会に出てからも遊びたい? って聞かれると、答えに詰まっちゃうんだよね。でも、洋子とは今っていうより社会に出てから一緒にいたいタイプだなって、そう思ったの。だから今の内に恩でも売っておこうかなって」
悪気のない顔が、早希らしいなと思った。でも早希とは、社会人になってから一度も会っていない。連絡だって取っていない。早希は大学を卒業するとすぐに、付き合っていた十歳くらい年上の男と結婚した。結婚式には呼ばれていたが、私は出席しなかった。いやしなかったというよりはするのを忘れた。ドレスだって買ったのに。結婚式の何週間か前に、他人の幸福を目の当たりにして自分は幸福なんだろうかと思案する事が怖くなった。一度そうなると不安と恐怖で押しつぶされた。それをなんとか横へと押しやった時、私は早希の結婚式も同時に横へと押しやってしまったのだ。母が、「ようちゃん、今月早希ちゃんの結婚式じゃなかった?」と言った時には、もう早希の結婚式から一週間が経っていた。私は早希に電話をかけた。コール音が何度か鳴ったが早希は出なかった。少し間を置いてから再び電話をかけたけれど、それ以降はコール音が鳴る事は一度もなかった。
私は早希の結婚式に着ていく予定だったドレスを着て三宮のセンター街を歩いた。供養。そんな気持ちが私の隙間にすっかり蓋をするように覆い被さった。どうして早希の結婚式を忘れてしまうなんて事が起こるのか。悩んだ所で早希と私は、もうすれ違ってしまった。センター街を歩く多くの人とすれ違う度、そんな風に早希への罪悪感を少しずつすれ違わせて心から消していった。
「洋子ちゃん? えっ、なんで泣いてんの?」
声をかけてきたのは、早希が呼んでくれたコンパで会った男。私は彼の名前を覚えていなかった。顔には覚えがあった。
「私、泣いてる?」
「いや、どう見ても泣いてるじゃん」
「そっか、私、泣いてたんだ」
「うん、そうだって。どっかでちょっと落ち着くまで休んだ方がよくない?」
「うん、そうかもしれない」
「それじゃあ、こっちおいで」
男の手が温かくて、いいなと思った。名前も覚えていないのに。私はどう足掻いても女なんだと思うと、小さなショックと大きな安心が芽生えた。それがどうしてなのか、考える事はしなかった。
「ラブホテルって、昼間も営業してるんだね」
ラブホテルというと、なんとなく夜に営業しているイメージがあった。元彼とは夜にしか行為を行った事がなかったから、そう思ったのかもしれない。
「そりゃね」
「そんな言い方冷たくない?」
「ごめんごめん。別に馬鹿にしてるわけじゃないよ?」
「どうだか」
「っていうか、洋子ちゃん、付き合ってくれるの? 俺と」
「いいよ」
「まじで? やった。前にさ、コンパで会った時からずっと気になってたんだよね」
「じゃあ連絡でもくれたら良かったのに」
「えっ? 何回かやりとりしたじゃん。結局会ってくれなかったけど。てっきり他の奴といい感じなのかなって思って、身引いたんだけど」
「そうだっけ? あんまり覚えてないや。ごめんね」
「なんだよ、それ。まあ全然いいんだけど。昔は昔、今は今でしょ?」
「そうかも」
そんなはずない。昔は今を構成する一つの欠片であるはずなんだ。だから私はセンター街のど真ん中で涙を流して、昔会った男に慰められて、ホテルに誘って、また別の意味で慰めてもらったんだから。昔と今が交差していなければ、この男と私はただの一つの線だったはず。交わる事のない、ねじれた線。男はどことなく父に似ていた。どこが? それはきっと私が父に対して不愉快に思う部分の全てであったように思う。彼とは台風が通過する速度より早く別れた。体感であって、実際は一ヶ月そこらだったはずだけれど。私は最後に言った。「怒濤の日々だったよ」と。
「台風を起こした事、ある?」
「はい、何度も」
間髪入れずに答えられるあたり、本当に何度も経験しているのだろう。それがなんだか羨ましい。人の台風には頻繁に巻き込まれている。しかし自分が誰かを巻き込むなんて……想像できない。
「例えば?」
「小学生の時に、飼ってた犬を食べました」
飼ってた犬を食べたって、なに?
「本当に?」
「まあ色々あるんですよ。私みたいな普通の女の子でも」
普通の女性というより、普通の人は飼い犬を食べたりはしないと思うけど。
「それって暗に、私の事を普通じゃないって非難してたりする?」
「してませんよー」
「そうならいいんだけど」
「あんまり詳しく聞いてこないんですね」
「聞かれたいの?」
「いや、全然。聞かれたくないし、答えたくないです」
「じゃあ、それでいいんじゃない?」
「洋子さんのそういう感じ好きです」
手を握られる。ちょっとドキッとしてしまうけれど、私は今まで同性に恋心を抱いた事はない。
「それって告白?」
「違いますよ。私は男の子も女の子も恋人には出来ますから、狙っていいなら狙いますけど」
今日という日は入ってくる情報が多すぎる。
「あなたって面白いね」
「へへへ、ありがとうございます」
「皮肉のつもりなんだけど?」
窓が、ぐがたたと大きな音を立てる。雨が、びびととと執拗に窓を叩く。いくつかの部屋からスマートフォンの不快な機械音が響く。緊急速報のアラーム音だろう。台風は遂に神戸を呑み込んだのだろう。桜ちゃんと同時に席を立った。時計を見る。時刻は午前三時四十八分。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます