看護師は循環

 父は営業をしていた。小さな町工場だったが、確かな品質と図々しい話術のおかげでそれなりに契約を取っていた、らしい。それが事実であろうと、同僚たちのお世辞であろうと、どっちでもよかった。父は事故を起こした。今みたいにドライブレコーダーは普及していなかった。なにかを避けたのかもしれない。ただの脇見運転かもしれない。どちらにせよ父は電信柱にぶつかった。頭を強く打って、血がたくさん出ていたらしい。他にもなにかを聞いた気がするけれど、思い出せない。母が呆然としていたのを覚えている。いや、そうだった気がするだけ。それが本当なのかどうかは定かではない。


 真っ直ぐ歩いているつもりなのに、ふらつく。指がじくじくと痛む。口に入れると、じんわりと血の味が広がる。廊下は地味に暗く長い。風の上流を求めて病院内を闊歩する。こんな日に窓を開ける馬鹿は普通に考えるといない。でも本当にいないわけではない。それは理由も分からず電信柱に突っ込む人間と同じ。普通はいないが、確かに存在する。台風の日に外に出る馬鹿は普通はいない。いない? いる。私だってその馬鹿の一人なんだから。看護師という仕事は普通とはほど遠い。普通? 普通っていうのは平均とは違う。普通ってなんだろう。風が足下から顔へと駆け上がってきた。上流は近い。というよりも、風はどう見ても桜ちゃんの近くから流れてきていた。現場はナースステーション。風神の桜ちゃん。

「なにしてるの?」

 突然の声かけにも戸惑わず、桜ちゃんは冷静に口を開く。

「台風が、どれくらい近くに迫っているか、体で感じてみたくなったんです」

 桜ちゃんは、私と同じで留年している。理由は知らないし、聞いていない。留年している看護師は結構多い。看護師の母親が看護師というパターンも多い。看護師は呪縛。看護師は循環。そこに身を置いた人にしか理解が難しいが、そういったものは確かに存在しているんだ。看護師と父。二つの枷は容赦なく私を束縛する。

 窓を閉めると風は嘘みたいに止まった。振り向いた桜ちゃんのユニフォームの前はしっとりとして、足下には小さな湖が幅を利かす。桜ちゃんは風神だから、雨については無知なのかもしれない。

「自由だね、桜ちゃん」

「私が本当に自由だったら、誰も救えませんよ」

 桜ちゃんはしっとりとしたユニフォームの前を軽く払った。水気を含んだ手は小さい。あの小さな手で、どれだけの人を救ったというのだろう。私には到底、思いも寄らない。それと同時に考える。私はどれだけの人に救われてきたのだろう。


 高校生の頃、男の子に殴られた事がある。殴られたといっても、私を目掛けて振り上げられた拳ではなかった。前にいたもう一人の男の子を殴ろうとした拳。それは彼の横をすり抜けた。後ろに立つ私は死角から伸びる怒りを一身に受けていた。愚鈍な少女は、見ず知らずの怒りを痛みに変換する。その時、男の子の怒りは何かに変わったと思う。それがなにか。それは分からない。というよりは理解したくない。今でも頬の痛みがフラッシュバックする事がある。その男の子の変化した怒りを知った時、私の感じた痛みが同時にそれへと変化してしまうのではないかと思うから知るのが怖い。それなら痛みのまま生きていく。そんな生き方があってもいいはずだ。

 昔に一度だけ母に殴られた事がある。実習をさぼった時ではない。留年で余計にお金がかかると報告した時でもない。あれは、父に暴言を吐いた時だった。

「ようちゃんが辛いのは分かる。でも。それを誰かに押しつけて楽になっても、ようちゃんのものだった辛さは誰かの所でもっと大きい辛さになって、それをまた誰かに押しつけてなんていたら、この世界では誰も救えないんだよ? 看護師になるようちゃんがそれを分からないんじゃ、誰が他人を救っていくの? ようちゃんにはようちゃんにしか救えない、誰かが待っているんだって自覚が足りない。頑張ってよ、ようちゃん。押しつけるんじゃなくて、皆で分け与えるの、なんの為にお母さんがいると思ってるのよ」

 母の言葉に矛盾を感じつつも、母の言いたい事を理解して――理解したつもりになっただけかもしれないけれど、「ごめんなさい」と母に頭を下げた。父には謝りもしなかった。謝るだけで小さな私のプライドが、薄汚れてしまうような気がしたのかもしれない。自分の事でも全てを覚えてはいない。それが父を挟む記憶なら尚更。


「さて、と」背筋を伸ばす桜ちゃん。私は腕時計を巻いた。

「とりあえず今日の台風は、私と洋子さん、それに由佳さんで乗り切らないとですね。これから台風も本格的に直撃って感じみたいですし」

 桜ちゃんは時計に目を向けた。釣られて私も時計を見る。時刻は午前三時八分。

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