暗い廊下

 お手洗いの用具室に、何に使うのか分からない板があるらしい。何に使うのか分からないのであれば、役目を与えてやるまでだろう。一人で歩く深夜の病院。いつになっても慣れない。

 深夜に一人。そう考えると泣いていた母が思い浮かんだ。声を出さず静かに鼻をすするような音だけを、部屋に充満させていた。声をかけるには私は子どもすぎた。なんと言葉をかけたらいいのか全くもって分からなかったのだ。それは今も同じ。母には母なりの悲しい理由がある。家に備蓄する悲しみを、賞味期限が切れる直前にしっかりと使い切る。母らしい無駄のなさで。でも母の賞味期限ぎりぎりの悲しみは、もっと早く使い切ってほしいと思う。もしなにかしらの理由で賞味期限切れぎりぎりの悲しみを使い切れなかった時、母になにかが起きそうな気がしているから。


 お手洗いは廊下より暗い。一歩踏み出せば自動で電気が点灯するのは知っている。この一歩が重い。電気が点灯する。お手洗いには誰もいないと分かっているのに、個室の中を確認しながら歩いてしまう。

 トイレの花子さん。小学生の頃、おんぼろ校舎のお手洗いにトイレの花子さんが出た。私は見ていない。でも確かにクラスの数名の女子と共に見たらしい。私が見たのはトイレの花子さんではなく、風に揺れる赤い布。みんなには花子さんが見えたのに、私には見えなかった。みんなと違う。マイノリティである事の恐怖を小学生ながらに知った。私は嘘を吐いた。赤いただの布をトイレの花子さんだと自分に言い聞かせたのだ。その頃に初潮が訪れた。お手洗いで見た赤い布と初潮に因縁めいたものを感じたのを覚えている。泣きながら母に言った。

「トイレの花子さんを見たって、友達に嘘を吐いちゃった。そのせいで血が出るの。おかあさん、私死んじゃうの?」

 母は私の頭を撫でた。

「嘘を吐くのは、いけない事じゃないから、大丈夫」

 母は誰に、嘘を吐いて生きていたのだろう。


 今月は生理がきていない。こんな仕事をしているせいか、不順な事が多い。それにしても今回は、なにかが違う気がする。妊娠? 彼氏もいないのに。馬鹿みたい。私はマリアじゃない。当然、処女でも、ない。

 用具室に板なんてなかった。総合病院のたかが一室。崩壊して誰が困るというのだろう。私がいなくなって誰が困るというのだろう。暗い廊下。といっても所々に光がある。人生みたい。一歩先が見えない道を歩く。目標という遠い光を目指して。でも光がない人はどうやって道を歩いていけばいいのだろう。領主と呼ばれた男の部屋がある方から、風の吹き込む音が聞こえる。その部屋の近くに光は、ない。慣れない暗い廊下を歩く。風が、一歩一歩と近付く度に強くなる。何かを踏んだ。ガラスの破片だ。

「あっ」

 指が切れた。ガラスの破片なんて拾うんじゃなかった。血がとても温かい。指を切ったからか指の表面を意識して、その輪郭がいつもより明確に存在する。初潮が訪れた時に母はもう一つ言っていた。

「血は、みんな出るの。大丈夫」

 あの時の母は、私の指みたいに、輪郭が明確に見えた。明確に存在した。それと同時に父もまた、明確に存在した。

「赤飯だ。おい、おふくろ。赤飯だ」

 ふざけるな。その時の父は明確に存在していたが、私の中から消し去る事にした。そういえば、この頃はまだ父の記憶は増え続けていたんだ。私は思いださないようにしていたんだ。血は人の本来の姿を明確にする。母は現象を見て人に語る。父は人を見て現象に語る。なぜ母はこの男と結婚したのだろう。

「誰かいるんか?」

 地を這う声に、緊張を蓄える肌。沸騰する血。

「はい」

 と答える声が掠れた。ナースコールが鳴った部屋には、本当に男の霊がいる。桜ちゃんと同じで、私も犯されそうになるのだろうか。ストッキングの伝線と赤い肌が、地面に落ちたガムみたいにくっ付いて離れない。ぬらりと病室から出てきたのは、守衛のおじさん。気付けば風は止まっていた。

「遅くなってすまんね。応急処置はしてるから、ちょっと様子見といてもらえるか? 他にも見るところがあって。あんた、血出てるけど大丈夫か? 唾付けてたら治るらしいから。気が付いたら止まってるから」

 私がなにも喋らずとも、守衛のおじさんは一人で会話を成立させる。この空間にいる私の価値は形だけの私で、私自身というものが不在であろうとなんら問題はないのだろう。私の会釈一つで守衛のおじさんは病室から去っていく。台風のように過ぎた場所を掻き乱して。守衛のおじさんの尻ポケットから垂れたゴム手袋。それがいやに目に焼き付いた。


 病室の中はとても綺麗にされている。本当に窓が割れていたのか疑わしいくらい綺麗にされている。しかし窓だけが、この部屋で確かに異常が起きていた事を告げていた。私の家も同じように感じる。荒れ狂う台風の風は父。窓を塞ぐ板は母。それによって綺麗に保たれている病室は家庭。しかし全ては偽りの平穏。応急処置の板を吹き飛ばす台風の風が、いつ訪れるのかは誰にも分からない。傷が深かったのか、血が手を滴り床を汚した気がする。暗くてよくは見えないが、血は赤より重いという言葉のイメージが湧いてくる。濃く深い赤が色彩としてより重量を表現していると感じるようになったのは、看護師になってからだった。人生で人の死に立ち会った事がなかった。両親は健在。両祖父母とも健在。ペットを飼った事はない。

 初めて目の当たりにした死。それは勤務から半年もせずに訪れた。女の子は……どうやって、どうやって、どうやって、その時を迎えていたのか。

「クラスの子が、持ってきてくれたの」

 笑った顔の下に悲しみも含蓄されていると感じた。上手に笑顔で彼女に向き合えていたとは到底思えない。彼女は死を受け入れるには体は小さく未熟だった。それなのに彼女を構成する成分の十から億のどれかが、彼女の精神力を霜柱のようにしっかりと支えようとしていたのだ。仕事と割り切って感情を殺した。早かれ遅かれ人は死ぬ。そんな小学生でも知っている些細な事実をなかったように 。サンタクロースに祈る子どもみたいに、純粋に信じようとする程度には愚かだった。

「またみんなであそべるといいね」

 彼女の表情に怒りを見た気がする。私を穿つ彼女の目を、幾度となく夢に見るようになったのだから、きっとそうなのだろう。ある時は光の中に。ある時は草原の中に。ある時は天国に。彼女の目は一つと一つで、私を諫めるように。その度に身震いを起こしながら目を覚ました。看護師を辞めたい。彼女の亡霊はいつも私の肩越しに、私を見つめている。穿っている。血を吐きながら。


 身震いを起こした。足下へどこかから微かに風が訪れる。雨の匂いがする。台風は遂に雨を運んできたようだ。時刻は、そうだ。腕時計はさっき自分で外したんだった。

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