呪いの魔法

「ようちゃんは、どこや?」

 父はいつもそう言う。私が何歳の時からだったのかは覚えていない。物心が付いた時からかもしれないし、私が産まれるよりも遙か前からなのかもしれない。口癖。そのような類いのもの。

 私の名前は洋子。母が洋楽好きだから洋の字を当てはめたとか、太平洋で母と父が出会ったからだとか、嘘か本当か分からないエピソードは百や二百ではすまない。父は母の事を愛しすぎて、母との思い出を私に詰め込んだ。人形の綿みたいに。父は私の事を可愛がってくれた。母が私を愛したから、父は私を愛した。それだけの事。「ようちゃんは、どこや?」と口を開き私を見付けると父は、その後に母の話をする。「今も綺麗やけど、ようちゃんが産まれる前はもっと綺麗やったんやで」とか、「おかあちゃんは、おとうちゃんの事が一番好きなんや。やから結婚してようちゃんが産まれたんやで」とか。そんなエピソードは百や二百ではすまない。

 それが嫌だった。私にとって、「ようちゃんは、どこや?」で始まる一連の言葉は呪いの魔法。父は母というフィルターを介さなければ、私を見る事が出来なかった。母が自分の事を一番愛している。父にしてみれば、それは誰にも譲れないものだったのだろう。

 情けないプライド。書き損じたメモみたいにぐちゃぐちゃにまとめてゴミ箱に投げ捨てても、頑なにゴミ箱のふちに当たって床に散らばるものをプライドとでも呼ぶのだろうか。私はゴミ箱にゴミを投げ入れるのが苦手だ。私も父と同様にプライドなんてものに囚われているからなのだろう。きっとそうだ。腕時計を外す。落ちたペンを拾う。机の下に落ちていたのはペンだけだろうか。糸くず。紙くず。

 クズは巷に溢れている。初めて出来た彼氏は唇を何針か縫った。そういえば彼はキスが下手だった。それを知ったのは別の彼氏が出来てからの事だったけれど。私は最初の彼氏を一番覚えていないはずなのに、いつまでも心に留めている。どうしてなのだろう。初めてを大事にする、そんな性格ではないのに。


「洋子さん」机の下に前傾姿勢で頭を突っ込む間抜けな格好で桜ちゃんを見る。

「あの部屋、まだ、領主がいますよ。犯されそうになりましたもん」

 心臓が早鐘を打つ。桜ちゃんのストッキングは伝線している。隙間から覗くふくらはぎは、主張しすぎない筋肉が付いていて、私より遙かに瑞々しく張りがある。綺麗な隆起に微かな赤み。蚯蚓脹れとまではいかないが、確かに外部からの力によって作られたような赤い線。桜ちゃんは私になにを伝えたいのだろう。領主と呼ばれた男は確かに死んだ。私は当直のドクターと男の死を確認した。それなのに男はまだいると、桜ちゃんは言う。

「なにがあったの?」

 椅子に座り直す。伝線した所に自然と目がいく。

「ガラスが割れてて、木の枝とかゴミがたくさん入ってきてるんです」

 それが男と関係しているとは思えない。関係しているわけがない。

「それじゃあ、板みたいなので塞がないと。台風がもっと近付いてきたらまずいよ」

 守衛室に電話をする。どうやらガラスが割れたのは領主の部屋だけではないらしい。今日は台風の影響で比較的暇だったのに。当直のドクターに連絡をして割れた箇所を塞げる板を探す旅に出る。一人で。時刻を確認しようとしたが、腕時計がない。

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