今ここが台風の目
斉賀 朗数
第一章 〜神戸の総合病院〜
台風の迫る街
「ようちゃんはどこや?」
父は記憶が増えない。リビングをぐるぐると回る父の姿には慣れてしまった。私は気にせず朝食を食べる。朝食はパン。昨日の昼にでも食べようと思って、コンビニで買った。でも食べなかった。
「篤彦。ようちゃんパン食べとるやろ」
祖父は諦めていない。父の記憶障害がいつか治ると、そう信じている。よく見るとパンの賞味期限は今日まで。ぎりぎりっていうのはあんまり好きじゃない。押しつけられている。そんな気がしてしまうから。少しでもその押しつけから逃げるように、パンをゆっくりと食べる。
逃げる? 本当にパンの賞味期限なんてものから、逃げ出したいなんて思っているのだろうか? 本当に逃げ出したいのは、この家からじゃないのだろうか?
バッグはお気に入りのトリーバーチ。家の中で何が起きているのかなんて、私には関係がない。本当に関係がないと思っていたら、意識する事もないはずなのに。関係ないと思い込む。それが私の小さなプライドなのかもしれない。祖母の行ってらっしゃいの声が聞こえた気がする。玄関のノブはいつもと同じで冷たい。返事はしない。外に出した足が心なしか浮かれている。台風の前にある強い風で巻き上げられたのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
窓ガラスが音を立てる。風が強い。季節はずれの台風が徳島県に上陸したと、家を出る頃にニュースで言っていた。この進路だと神戸は直撃だろうと思いながらニュースを見ていたのだ。神戸に住む人間は、出身地を聞かれると兵庫県ではなく神戸と答える。小さなプライドなのだろうか? 台風が徳島県のどこに上陸したのかなんて、知らないし興味もないくせに。
家が飛んでいってしまえばいいのに。父や祖父が飛んでいってしまえばいいのに。祖母は好きだが、祖父の言い成りになっているのは嫌いだ。飛んでいってしまっても、まあいい。
「悪い顔してないですか?」
悪い顔をしている。そう言いたいのだろう。私の顔を覗き込む桜ちゃん。
「そう?」
どきっとはしない。考えが外に漏れ出すわけではない。父や祖父や祖母が風に巻き上げられ、遠く空へ飛んでいく映像を思い浮かべる。母と一緒に見ているのだ。肩の荷が降りたわ。遠い目をしながら、母は確かにそう言った。
こんな日でも出勤を余儀なくされる。看護師は面倒な仕事だ。桜ちゃんは今年からの新人だけど比較的出来る。要領がいい。先輩達との人間関係も、うまい。つかず離れず。ナースコールが鳴る。また誰もいない部屋からだ。鳴ったからには確認に行かなければならない。
「私、行きます」
桜ちゃんは返事も聞かずに、部屋へと向かった。またあの部屋。先日まで一人の男の領地だった。
何人もの看護師が男とよろしくあったらしい。そんなのは妄想だけの話。そんな風に思っていた。男は死んでなお、看護師を呼び出してなにかをしようとしている。
看護師はハードワークだから欲求不満。意味の分からない俗説は意外に信者が多い。行為は嫌いじゃない。でも、誰彼構わずっていうのは違う。ペンが手から落ちた。桜ちゃんはまだ帰ってこない。
二十一歳の時。始めて出来た彼氏は、浮気をしていた。スマホの画面にぼわぁんと浮かぶ文字。好き。宛名は私じゃない。スクロールする画面が目の中を駆け抜けていく。情報社会。情報過多で疲れてしまう。またしようね。気持ちよかった。かわいい。好き。かわいい。好き。かわいい。好き。彼の唇を噛んでいた。血の味は嫌い。行為は嫌いじゃない。嘘を吐く唇は嫌い。男は嫌いじゃない。
実習をさぼった。サボタージュ。戦術の一つではない。港町というだけあって、神戸は海が近い。潮風は髪の毛を浸食する。こどもの声が聞こえるけれど、姿は見えない。ごわごわな髪の毛。こどもの髪の毛はいつまでもさらさらで、ずっと触っていても飽きないと私は知っている。美容院に行った。髪の毛を短くしてみた。潮風が直接、頭皮に染み込んでいく。私は神戸から離れられない。神戸が好きなわけじゃないのに。
彼とはそれからも少しの間だけ続いた。一人暮らしの部屋。何度も通ったはずなのに、もう思い出せない。大学の近くだった気がする。私の大学か彼の大学か、そのどちらか。煙草の臭いが染み付いていた気がする。部屋にも、私にも。冷蔵庫はいつも空っぽだった気がする。冷蔵庫だけではなく、部屋の中が空っぽだった気がする。あまり覚えていない。彼と付き合ってから、私は香水が好きになった。煙草の臭いが嫌いだったから。私は嘘を纏っていた。纏う嘘は、嫌いじゃない。それなのに、好きだった香水の名前も匂いも覚えていない。
ナースコールの音で現実へ舞い戻る白衣の天使、私。ナースコールは、また誰もいない部屋から鳴っている。桜ちゃんは、まだ帰ってこない。私は無視した。外は相変わらず風が強い。家族で唯一、飛んでいってしまうと困るのは母だけ。母も看護師をしている。結構な歳なのに、体を酷使している。父のせいで。母は記憶の増えない父を見限る事はしないが完全に諦めている。法律が変わって、迷惑な父を殺してよくなっても、母は父を殺さないのだろうと自信を持って言える。私はどうするだろう。母は献身的だ。それでもやはり、何度か夜中に一人で泣いていた。私は知っている。桜ちゃんは、まだ帰ってこない。時刻は午前二時二十分。
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