3.失ってはいけない人

「おっと」

 カフェテリアを出て直ぐの事である。

 強く握りしめられていた手が突然離され、教授が視界から消えた。そして誰かが勢いよく私に突進してきたのだ。弾き飛ばされ尻餅をつく。

 痛い。

 ぶつかった相手よりもまず先に締まりの無い笑顔でこちらに手を差し出す教授の姿が視界に入った。

 その手をペシリと弾く。小気味好い音が響いた。

 右手を床についてのっそりと起き上がった。

 私を見捨てて自分だけ避けたのだ、この教授大先生は。

「すまなかったねえ、まさかぶつかるとは思わなかったよ」

「はいはい、そうですか」

 今度こそぶつかった相手に顔を向ける。

「あなた、ちゃんと前を向いて歩かないと危ないでしょう」

 その男には見覚えがあった。

 つい先刻ルシアナと楽しそうに話していたチャラチャラした男だ。

「子供が、子供がいたんだ」

「え?」

 焦点が定まっていない。様子が明らかにおかしい。

「子供が指を鳴らしたら、あいついきなり倒れて。笑ったんだ。子供が笑ったら目の前が真っ暗になって、化け物がーーあ、あ、あれは人食いの化け物だ。あいつは食べられたんだ。俺の目の前であいつは、きっと食べられたんだっ」

 男はその場にしゃがんで小さく丸まった。

 体が震えている。

「食べられたってどういう事。あいつってルシアナの事なの?」

 尋常でないその体の震えが、私の心臓の早さまで支配する。

 早口になった私の言葉は、ちゃんと言葉として発せられたのだろうか。

「これを飲んでみようか」

 教授は片膝をついて彼の髪を右手でむんずと掴んだ。間抜けに開かれた口の中にタブレットを放り込み、左手で顎を抑え彼の顔を仰がせた。

 乱暴だ。

「何してるんですか教授!」

 肩を掴んで叫ぶ私などまるでいない様なそぶりだ。

 この状況でどうしてそんなにも冷静でいられるの?

 私が慌てふためいているうちに、過呼吸でも起こしそうだった男は徐々に通常の呼吸を取り戻し始めた。

「ルシアナ君はどうしたんだい」

 いつもと変わらないゆったりとした口調だ。

 教授の声を聞いているうちに、自然と心拍数が下がって行く。

 そうだ、今私が慌てたところで事態は変わらない。

 悔しいけれど、教授は正しい。

 方法はもっと穏やかなものを選ぶべきだけれど、きっと正しいのだ。

「消えました」

「うん。子供と言ったね。どんな子か覚えているかい」

「白髪のオッドアイの子供でした」

「他に誰か見たかな」

「爺さんが子供の後ろにいました」

「爺さんねえ。ありがとう、フィト君。君は一度医務室に行くといい、いいね?」

「はい」

 男はふらふらとした足取りで医務室の方へと歩いて行った。

 冷静さを取り戻してはいたけれど、様子がおかしいことに変わりはなかった。

「何を飲ませたんですか」

「ちょっと催眠状態にしてみたんだ。体に害はないから大丈夫だよ」

 飄々した教授はゆっくりと立ち上がった。

「マヤ君、心配なのはわかるのだけれど、先に来客の面会をしても構わないかい」

「教授はどうぞ行って下さい。私はルシアナを探します」

「君も一緒に来るんだ」

 先刻掴まれた腕をもう一度掴まれた。

「でも食べられたなんて聞いたら」

「大丈夫、人食いの化け物がここにいる訳はないんだ」

 じっと目を見詰められると、何も言えなくなってしまう。

 コクリと頷くと、教授はゆっくりと歩き始めた。

 ルシアナは大学に入って最初に声をかけてくれた友人だ。

 スラグ王国の南のど田舎から出てきた当時の私は、さも田舎者といった風貌でなかなか友人ができなかったのだ。

 大きな瓶底眼鏡をかけ、適当に三つ編みを二つ作り、ダサいベレー帽を被っていたなんて思い出したくもない。

 新しい眼鏡を一緒に買いに行ってくれたのは彼女だ。

 きっとショートカットが似合うと言って髪を切ってくれたのも彼女だ。

 私にとってルシアナは、絶対に失う事の出来ない親友なのだ。

 もし誘拐されて酷い目に遭っていたら。

 もし乱暴な事をされていたら。

 頭を駆け巡る妄想はどれも悲観的だ。

「ルシアナ君は必ず無事に見つけてあげるよ」

 白衣越しでも薄っぺらいと分かるその背中をぼうっと見詰める。

「大丈夫。だから暗い顔はやめなさい」

 私の顔なんてまるで見ないで教授はそう言った。

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