第四章 秘密の地下室

1.雲隠れは教授の十八番

 カツカツカツ。

 歩く度に廊下に響く靴音。

 目的の人物を探し始めてから既に一時間は経過していた。講義を放ったらかして雲隠れをしてしまった教授を捜索するべく、大学中を歩き回っているのである。

 彼が行きそうな場所は大方足を向けた。

 残すはあそこしかない。

 教授しか入ることが許されていない地下室だ。

 つまり私には入室できない場所である。入る事は出来ないけれど、ノックする事は出来る。それで彼が出てきてくれるとは思えないが、もうそれしか術はない様に思える。

 目的地が決まれば、疲れて重たくなっていた足も軽くなる。

 今いる場所が新館である。地下室は旧館だ。そこへ行くには一度中庭を通らなければならない。昨日は雨が降った所為で地面はぬかるんでいる。

 靴が汚れるのは嫌だなあ。

 ぼんやりと考えながら歩く。

「あれ、マヤじゃない。講義サボったの」

 中庭のベンチで講義をボイコットして男とチャラチャラしている親友に声を掛けられる。

「違います。サボったのは教授。ところでルシアナ、教授見なかった?」

「三十分くらい前に旧館に歩いて行ったよ。なあに、逢引の約束でもしてたぁ?」

「あっ逢引って! 破廉恥だわ!」

 ルシアナはクスクスと笑う。隣にいる男はこの間紹介された彼氏とは別の男だ。全くこの女はいつだって違う男を連れているのだ。

「教えてくれてありがとう。じゃあ」

 大きく足を踏み出す。

 バシャリと足元で水が弾けた。水溜りに踏み込んでしまった様だ。パンツの裾が泥で汚れてしまっていた。

 ルシアナに笑われるのは嫌だ。何事もなかった様に私はそのまま歩き続けた。

「ちゃんと泥落としてから会うんだよー」

 ルシアナの楽しそうな声が背中に突き刺さる。

 ああ、恥ずかしい事極まりない。

 足早に私は中庭を抜けた。


 旧館は陽の当たりが悪い。だからここの空気はいつだって冷んやりとしている。

 地下室には私は一度も当然ながら入った事はない。それどころか地下へ降りる階段にすら足を踏み入れた事はない。

 階段の前に立つ。

 壁に取り付けられたランプには灯りは点いておらず暗い。

 初めてというものはどんな時も緊張するものだ。

 ゴクリと生唾を飲み込む。

 階段をゆっくりと昇ってくる冷たい風が私の足を撫ぜる。

 石畳の階段にコツンと細い階段には音が響く。

 一歩踏み出せばその後は決壊した堀を超えていく水の様である。

 体を支える様にして壁に指を沿わせる。

 冷たい壁はざらりとした感触だ。

 階段の下まで辿り着くと扉がある。

 教室の扉の多くは木製だ。しかしこれは階段同様石でできている。

 指の第二関節を曲げてノックをしようとしてピタリと止まる。

 石の扉をこのまま叩いてはきっと痛いだろう。

 拳を作って腕を振り上げる。

 ドンドンドンドンドン。

「教授! いるのは分かっているんですよ!」

 声は返ってこない。

 ここにもいないのだろうか。

 扉の先はどうなっているのだろうと、ふと好奇心が込み上げた。

 教授以外は誰も入ってはいけない部屋。禁断の部屋。それはとても蠱惑的だ。

 扉をぐっと押してみる。

 中から冷たい風がまるで逃げる様に飛び出してくる。

「教授?」

 体を滑り込ませられるほどの隙間ができると、私は頭だけ中に突っ込んだ。

 暗くて何も見えない。

 足を踏み出して扉に手を添えたまま体を部屋へとねじ込ませる。

 遠くに儚げな頼りない光源がある。近くまで行けばきっとよく見える筈だ。

 歩き出そうとした時、顔に何かが触れた。

 これは、手だ。

 手を離してしまったというのに扉が閉まる音が聞こえない。

「ここは君が入っちゃあいけない場所だよ?」

 その手は私の背中に回されくるりと体が反転した。そのまま押されて私は扉の外に放り出された。

「駄目じゃないか。規律を大事にするマヤ君らしくないね」

「教授!」

 バタンと大きな音を立てて扉が閉まった。

「あなたは一体何をしているのですか。講義を放置してこんなところーー」

「マヤ君」

 教授の指が私の唇に触れる。

 教授の顔が異常に近くにある事に漸く私は気づいた。

 琥珀色の瞳がこちらを見ている。

 呼吸をすれば教授の指に息が触れてしまう。

 激しく打つ鼓動は脳までも揺らしている。

「そうだ、お茶でもしよう。こんなジメジメした地下にいたら頭の中に苔でも生えてしまう」

 教授は私の横をすり抜けて階段を上がっていく。

「教授」

 呼びかけると教授はゆっくりと振り返った。

 彼はよく一人でここに来ているらしい。

 あなたはここで一体何をしているのですか?

 そう問おうとした筈なのに、声が喉でつっかえて出てこない。

「さあ行こう。僕はもう喉が渇いちゃって仕方ないんだ」

 いつもの腑抜けたヘラヘラとした表情で教授はそう言ってまた私に背を向けた。一度扉を見て、私も教授の後を追った。

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