7.キルケ
魔女は、にたりと笑った。
いや、笑ったように見えた。
その顔は闇に溶けていて明瞭ではないのだから、表情なんて分かる訳がない。
女はゆっくりとこちらに歩いてくる。
その右手には如何にも古めかしいごつごつとした杖が握られている。
右手が急に支えを失って、だらりと落ちる。剣先が地面にトンと落ちた。脱力した指から剣が滑り落ちる。
金縛りにでもあったかのように、体がピクリとも動かない。全身の血が凍ってしまったみたいだ。
嗚呼、魔女は俺に呪いをかけるのだ。
そう思った時、ブロンドの髪が魔女の姿を遮った。
「クライブ、あなたは強くなると皐月に言ったのでしょう」
淡々としたサラの声が、凍った血管に熱を与えた。
血が巡る音が響いた。
サラが振り返る。
その顔は笑顔を浮かべるでもなく、かといって蔑みの色もなく、凛としていた。
サラは優々たる仕草で俺の剣を拾い上げた。
その時、剣が一瞬光った。
けれどそれは幻のように直ぐに消え失せた。
拾い上げあられた剣を受け取ろうと手を伸ばして「ありがとう」とサラに伝えようとして、俺は息を飲んだ。
サラは泣いていた。
その視線は俺を通り越してどこか遠くに向けられているようだ。
「サラ?」
声は届いたようで、サラの目に俺が映り込む。
「嗚呼、ごめんなさい。剣を離してはいけないわ」
剣を受け取る。
サラは自分が泣いている事にすら気づいていないように、涙を拭う事なく、魔女に向き直った。
剣を改めて両手で握り、サラの隣に立つ。
魔女の腕が動く。
一歩前に出て、剣を構える。
システムなんてものはわからない。
けれど船上で、この剣は魔法を弾いたのだ。
俺にだって誰かを守る事はきっとできる筈だ。
杖がこちらを向いた。
どんと背中に痛みを感じた。
体が後ろに飛んで、幹にぶち当たったのだ。
何が起きたのか理解が追いつかない。
魔女は顎を少し上げて、もう一度杖をサラに向けたが、サラは飛ばなかった。その代わりにサラの前に突如として伸びた枝が散り散りに跳ねて、サラの長い髪だけが揺れた。
「あなたが魔女ですね。呪いを解いてはもらえませんか?」
サラはきっと微笑んでいると直感した。
「ではお前は私に何をくれる」
魔女の声は思いの外、美しく澄んでいた。
「何を望むのですか」
「お前の命」
サラは微動だにしない。
その沈黙は構わないと言ってしまいそうな不安を煽った。けれどサラは「お渡しできません」とキッパリと断った。
「彼らを呪ったのは戯れでしょう。彼を傷つけた事で少しは暇つぶしができたのではありませんか」
魔女は鈴を鳴らすように笑った。
「そうねえ。いい暇つぶしになった。面白い精霊にも会えたもの」
「面白いとは失敬な娘よ」
小人の声は小さい筈なのによく響く。
「キルケの娘よ、お前の呪いは
「精霊風情が」
小人はそれ以上言葉を発しなかった。
魔女はくるりと踵を返し、闇に溶けて消えた。
「大丈夫ですか」
ステラがこちらに駆け寄ってくる。
「俺は無事だ。君は」
膝を擦りむいたのだろう。スカートに血が滲んでいた。
「痛くなんてありません。ありがとうございます」
ステラは頭を下げてから、エリオの胸に飛び込んだ。
立ち上がろうとした時、足元に小人がいた。
「お前は、まだまだじゃ」
憎まれ口を叩いて、小人は消えた。
ゆっくりと立ち上がると、先ほどまで向かっていた方向から四人の影が現れた。
身を寄せ合って少女が歩いていた。
「ステラ!」
一人がこちらに気づいて駆け寄ってくる。
マイサートの失踪した五人の少女が、見つかったのだ。
安堵よりも、小人の言葉が頭の中で反芻されてずきりと痛む。
強くなるなんて言葉で言うのは簡単だ。
だけれど、どうすれば強くなれると言うのだろう。
握りしめたままの剣に目を落とす。
これは魔法を弾く為の力があるのだ。
それを充分に発揮する力が俺にはない。
宝の持ち腐れである。
「眉間」
眉の間に何かが触れた。
サラが指で眉間を突いていた。
そんな事よりも近い距離にどきりとした。
アリスといい、この姉妹は距離感を間違えている。
「ありがとう、クライブ」
「何が」
俺の言い方はまるで不貞腐れた子供のようだ。
「守ってくれて、ありがとう」
サラは微笑んだ。
それは不気味で何を考えているのか分からないものではなく、本当の意味で穏やかな笑顔だった。
俺は、守れてなんていない。
「あなたは、弱くなんてないわ」
黙ったままサラを見る。
くすりと笑って「強くもないけど」と余計な一言を付け加えた。
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