6.恋をきっとした事がない
少女の名前はステラ。男の名前はエリオ。
ステラはデルグレイ寮マイサートの町長の娘で、エリオはナラ家の末っ子なのだそうだ。
両家は戦争こそはしていないが、古くから不仲である。
二人は恋仲であったが、エリオの両親が激しく反対した。
悩める青年エリオは夢を見た。
切り揃えられた烏のような肩までの黒髪の女が、森にて祈りを捧げよと囁いた。エリオは藁にもすがる思いで森へと赴いた。森をどう歩いたかは覚えていないが、いつの間にか彼は狼になっていたのだ。
悩める少女ステラもまた夢を見た。
愛する男が自分の為に狼へと変貌を遂げ苦しむ姿を見たのだ。
そして夜の海よりも深い漆黒のマントを羽織った女が、四人の少女と共に森にて祈りを捧げよと囁いた。ステラは誰にも声を掛けられず途方に暮れたが、四人の少女が一緒に行こうとどうしてだか声を掛けてくれたのだ。森をどう歩いたのかは覚えていないが、狼と出会った。
ステラを含めた五人の少女はその場で昏睡した。
狼は必死にステラを起こそうと、頬を舐めたり吠えたりとしたが誰一人として目を覚まさなかった。堪らずステラだけを背に抱えて森を出たのだが、どこへ向かえばいいのか考えあぐねていたところに俺達が姿を現したのだ。
「魔女なんて本当にいたんですね。私、皆の事を巻き込んでしまいました」
ステラは幹を背凭れにして、足を前に放り出したまま座り込んでいる。
「彼女が悪い訳じゃないんです。俺が森になんて来たから」
エリオはステラのすぐ隣で立ち竦んだままだ。
二人は自身の呪いが解けたというのに、悲壮感を漂わせている。
俺はきっと、恋なんてものをした事がないのだなと思った。
憧れの女性というものは過去存在した。だけれどそれは愛情だとか恋情だというものとは一線を画しているように感じる。
隣りを盗み見る。
サラは誰かに恋した事はあるのだろうか。
「呪いを解けばいいだけの話でしょう? 何を悩む必要があるのかしら」
事も無げにサラは言う。彼女が言うと、他愛のない事のように思えてくる。
実際のところ、二人の呪いだってあっという間に解いてしまったじゃないか。
「呪われたキルケが他人を呪うとは妙ちきりんよの」
サラの手の中でご老人はぼやいた。
「魔女ってのは呪われてるもんなのか?」
つまり、呪われた魔法使いを魔女というのだろうか。
両者の区別が俺にはつかない。
小人は俺の質問には答えなかった。
「二人っきりにするのも心配だから、一緒に行きましょうか」
サラは森へと向き直り、歩き始めた。
ステラはエリオに支えられて立ち上がった。
二人が歩き始めて漸く俺は踏み出した。
森は特別なものではない。しかし、この森は故郷の森とは違う空気が流れている。魔女の森というその名が、この空気を作っているのかもしれない。
どこか重苦しく、木々が迫ってくるような圧迫感があった。
サラは手の中の小人と何事か話ながら歩いていた。その後ろを行く二人は手を取り合って不安を分け合うようにして沈黙している。
俺は、ただただ金魚の糞のように付いて行っているだけだ。
強い風が吹き抜けると、サラが突然立ち止まった。
「コゼット!」
サラの叫び声のすぐ後、木の枝が俺の目の前を勢いよく飛んだ。
「気を付けて」
サラの声に穏やかさは既にない。
宙に漂うのは船上で見た精霊だ。
木々がざわざわと蠢く。
剣を抜いて構えると、枝が風に揺れる。そして勢いをつけるように大きくしなってからこちらに向かってきた。
エリオとステラの前に立ちはだかり枝を一刀両断すると、枝は地面に落ちて静かになった。
「魔女の洗礼ってやつか」
「そうみたいね。走りましょう」
サラが走り出すと、俺たちを囲む枝達が大きくしなった。
立ち止まったままの二人に「走れ!」と怒鳴り俺はエリオの腕をむんずと掴んで駆け出した。
襲いかかってくる枝は頭上で次々と千切れて地面にボタボタと落ちて行く。
サラの精霊が守ってくれているのだろう。真横から伸びてくる枝を切り捨てながら夢中で走った。
自分よりも不安な人間がいるというのは、心を強くする。
本当はこんな状況で心臓は爆発してしまいそうなのだ。
けれど、二人がいるからこそ俺は震える事なく剣を振るえるのである。
背後で悲鳴が上がった。
振り返ると、ステラが転んでいた。
細い枝がまるで蛇のように彼女の足に取り付いていたのだ。彼女はエリオの手から離れてしまっている。
踏み出した左足で地面を強く蹴って、ステラの方へと跳んだ。
そのまま大きく剣を振りかぶって枝を斬った。直ぐに体制を立て直そうとしたのだが、後ろから伸びてきた枝が右手に絡みつき、剣を持ったまま腕は天に向かって伸ばさせられた。
枝を振り返ると、そこに真っ黒な女がいた。
烏木のようなローブで全身を覆い、そのフードを深く被り目は伺えない。そこからちらりと見える髪もローブと同じ色のように見える。
袖から少しでた指はとても細く骨骨しい。
魔女だ、と思った。
右手を捉えられたまま、俺はその女から目を離せなくなった。
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