5.冷たい湖の底で
二階にお客様用の一室があり、私はそこを借りた。
隣はクライブの部屋だ。
夜の帳が下りると、私はできる限り気配を消して一階へと降りた。
暖炉の火は消えており、部屋はしんと静まり少し冷えていた。
私は扉を慎重に開けて、外に出た。扉が音を立てないようにゆっくりと閉める。開けた空から見える月が、美しいと思った。
体を刺すような寒さは、どこか背筋を伸ばすようだ。
きっとクライブは私を置いて一人で湖に行ってしまうつもりだ。だから、彼よりも先に家の外で待ち構えて無理やりにでもついて行ってしまおうという考えである。こんな夜中に騒いでは、ロナウドたちが起きてしまう。それはクライブの望むところではない筈だ。
両手に息を吹きかける。
私はカルロに守られて、ぬくぬくと育って来た。戦った事など当然ない。ついて行ったところで、何の役にもきっと立たないだろう。それでも、クライブを一人で行かせるなんて、嫌だ。
扉がゆっくりと開かれた。
クライブは扉を開いたまま、私を見て目を丸くした。そして私と同じようにゆっくりと扉を閉めると、私を睨んだ。
「お前は寝てろ」
「いやよ。知っちゃった以上、クライブを一人では行かせられない」
盛大な溜息をついて、クライブは歩き出す。私もそのあとをついて歩き出したが、クライブはそれ以上私を止めはしなかった。
森は、虫の音や風が木々を揺らす音だけを奏でていて、とても静かだ。
「ねえ、昼間のあの男、一体何者なの?」
「知るか。どうせリバティだろ。俺の剣が欲しいと何度も来ている。あいつを見るのは初めてだ」
「何度も?」
「ああ。雑魚ばっかりが来るから、いつも追い返していた」
初めて出会った時、クライブはダニエルさんも襲われたと言っていた。
Lが襲うという事は、依頼主がいるという事だ。
彼の剣はそれほどまでに高価なものなのだろうか。
「こんな剣、渡してしまってもいいんだ。だけど義父さんが大事なものだから手放すなと言うから」
クライブはそっと剣に触れた。
「俺は湖の傍に捨てられていたんだ。その時、剣と『クライブ』と書かれた紙だけが一緒にあったらしい。本当の親なんてどうだっていい、俺にとっての家はあそこだけなんだから」
クライブの本心はどこにあるのだろう。
天邪鬼な彼は、きっと自分ですら気付かない思いを持っているに違いない。だからこそ、ダニエルさんは剣を手放すなと言ったのだ。
だって、ダニエルさんはクライブの父親なんだから。
「じゃあ、あいつはクライブの出生を知る手掛かりになるかも知れないね!」
「はあ?」
クライブは私をまるで馬鹿かと言いたげな目で見た。
「だって、剣を狙うって事はその価値を、その由来を知っている可能性があるって事でしょ? 知ってどうするかはクライブ次第なんだから、前向きに考えようよ」
「お前って馬鹿みたいに前向きだな。でも、そうだな」
クライブは空を見上げた。
さっきまでと違い、木々が空を隠してしまって月ははっきりと姿を見せない。
「知ったところで何も変わらないけど、知りたくないって言ったら嘘だ」
木々の間から、月明かりがほんのり差している。
照らされるクライブの横顔は、決して後ろ向きな色をしていなかった。
それだけで、私は妙に嬉しくなった。
私達は黙って歩き、開けた場所に出た。
そこには湖があった。
昼間に来れば、きっと美しい湖なのだろう。
「あいつ、まだ来てないのかな」
辺りを見回すが、人の気配はない。
しかし油断はできない。
昼間だって、私は気配なんて感じ取る事はできなかったのだから。
「おい、隠れてないで出てこい」
クライブは剣をいつでも抜ける体勢になっていた。
その視線の先に目を凝らしていると、ブロンドが現れた。
私の五感は信用に足るものではないと証明されてしまったのである。
「それを渡してくれる気になったのかな」
「断る」
「話し合おうじゃないか、俺は平和主義なんだ」
男はそう言うと、剣を抜いた。
「何が平和主義よ! だいたい、なんでクライブの剣を狙うの!」
私の怒鳴り声がよほどうるさく感じるのか、男は眉を顰めた。
「うるさい小娘だ。その剣は我々にとってとても重要なものなのだよ」
「我々?」
クライブは微動だにしない。
柄に触れたまま、男を見詰める。
「ロブという組織は知っているかな。Lと対比してRと呼ばれている」
Rにはお姉ちゃんがいる。
その組織が、どうしてクライブの剣を欲するというのだろう。
「お伽話の熱に浮かされた狂った連中が、どうしてこの剣を」
「そこまで話す義理はないな。さあ、もういいだろう。剣を渡し給え」
クライブは剣を抜いた。
男はため息を一つ吐いて、いかにも悲しそうなポーズをとった。
「残念だよ、クライブ君」
クライブが地面を蹴るのと、男が剣を構えるのは同時だった。
クライブの振り下ろす剣は悉く男に止められてしまう。
横一文字に剣を振ったクライブの後ろに回り込んだ男は、クライブの横っ腹を蹴った。なんとか転ばず踏みとどまったクライブだったが、剣を薙ぎ払われてしまった。
宙を舞った剣は、そのまま静かに湖へと沈んだ。
私が今できる事は、なんだ。
私は弱い。
ダガーは使えない。体術だってこの男には通用しないだろう。
ーーだったら。
寒い夜の湖はさぞかし体を凍らせるだろう。
私は一度拳を握りしめると、ジャケットとダガーを投げ捨て、湖に勢いよく飛び込んだ。
湖はとても澄んでいて、底まで鮮明に見渡せた。
クライブの剣は、湖底に向けて落ち続けている。
あれはクライブのものだ。クライブは捨てられていたと言っていたけれど、ただ捨てるだけなら、剣も名前も共に置いていかないだろう。その事情を彼が知る為にもあれは必要なもの。誰かに奪われていいものなんかじゃない。
無我夢中で手と足を動かした。
もう僅かで剣に手が届くという時、頭部に痛みを感じた。
あともう少し、手を伸ばせばーー。
けれど、一向に私の手は前に進まない。
私の体が反転した。
鼻がくっつきそうなほど近くに、男の顔があった。
男の手が私の首に触れた。
口の中に溜め込んでいた空気が、大きな水泡となって湖面へと向かって行った。苦しくて、男の手を引っ掻いては見るが、その手は力を緩める事はない。
やっと王都から一人旅立ったというのに、リバティになる夢を叶える事なく、私はこんな冷たい湖で死んでしまうのか。
目を閉じると、カルロの顔がふと浮かんだ。
お父さん、お母さん、頬を煤で黒くしたお姉ちゃん。
そして、私の名前を呼ぶクライブの姿。
私は目を開いた。
死んでたまるものか。
男が目を丸くして、その手を緩めた。
その隙に私は剣へと手を伸ばし、漸くそれに触れた。触れた瞬間、眩しい光が湖底から放たれ私は目を閉じた。
それでも私は剣を握り、両手で抱きしめた。
さっきまであんなに体が冷え切っていたのに、濡れている事も忘れるほどに、その光が私を暖かく包み込んだ。
私は目を開く。
息が、できる。
水の中だというのに、私は地上にいる時と同じように呼吸ができている。
私の目の前にいたのは、ブロンドの男ではなく、肩までの黒い髪を揺らした、耳の長い男だった。
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