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環境情報入力インピーダンス:正常
時刻:〇八二九
気温:摂氏一九度
気圧:一〇十三ヘクトパスカル
風速:室内のため無風
湿度:四十パーセント
シナプス接続:良好
視覚:良好、日照あり
聴覚:ショパン、幻想即興曲を確認。その他雑音、環境音
嗅覚:冬咲きのクレマチス、飲み残したコーヒー
触覚:木綿製の柔らかなシーツ
運動信号送信:正常
周辺環境:正常
だけど、あなたはいない
通常モード起動完了
——眠い。
それに、とても悲しい。
いつもと変わらぬ朝だけれど、それが悲しい。
きっと、これからも、毎日わたしはこうして、朝を迎えてゆくのだろう。
あなたが、そうしろと言ったから。
わたしに、生きろと言ったから。
わたしに、選択肢はない。
あなたがわたしだったら、辛いと言うのかしら。
それとも、嬉しいと言うのかしら。
ねえ、教えて。
「あなた、あなた」
聴き慣れた声が上がる。
「黒猫が——」
目覚めた。自らが現在置かれている状況を認識しようと、周囲を見渡す。
斎藤の自宅。
「お目覚めか」
片腕を吊った、斎藤。
「一週間も眠り続けてたんだ。死んだかと思ったぜ」
黒猫は、答えない。死んだのは、自分ではなく、平賀博士なのだ。
今から、この世のどこを探しても、彼はいない。
それでも、黒猫は生きてゆかなければならない。
平賀博士は、黒猫に、生きろと言った。
お前には、いのちがあると。
そのため、黒猫は、生きてゆかなければならなくなった。いのちあるものの、当然の定めとして。どれほどの苦しみを、悲しみを味わっても、生きてゆかなければならなかった。
苦しみや、悲しみ。
今、はっきりと、黒猫の中にそれがあった。
やはり、黒猫は、生きていた。
「強化人間は」
そのことを、問うた。斎藤は肩を落とし、テレビを点けた。朝のニュースが、流れている。
「突如現れた暴徒の襲撃による被害は留まることを知らず、被害者の数は二千人にものぼり——」
黒猫は、理解した。
強化人間は、世に放たれたらしい。
「政府は、沈黙を続けています。指導者、内閣主要人員の死亡により、その空白を埋める政争の暇もありません」
緒方の、目論んだ通りになった。政府中枢を強化人間が襲撃し、その主だった人員を殺害したらしい。サクマミレニアムの内部暴動が発端となったとされるこの騒動は、サクマ内でも百以上の死者を出し、主要なポストに居る者、中心となる研究者、そして社長や役員が死んでいた。もう、再起は不可能であると思われる。
放っておけば、強化人間はその運動に身体が耐えられなくなり、ひとりでに死ぬ。しかし、その瞬間まで、罪もない民間人を殺し続けてゆく。
「わたしは、どのようにして、ここに――」
「そりゃあもう、大変だったさ」
斎藤が、飲みかけのコーヒーの入ったカップを手に取った。
その仕草が、平賀博士を思い出させた。
「幸い、強化人間は、俺達なんて眼中になかった。一直線に、政府を目指して行った。俺はお前をタクシーに載せ、仕方なく家に運んできたんだ」
「そう、ですか」
「結局、緒方の思う通りになったな。そして、強化人間が暴れすぎないよう、それを殺すと言っていた緒方は、いない。あのとき、俺達は、緒方がこっちの企みに気付いていて、あえて俺達を導き入れたのだと思った。だが、違ったらしい。緒方は、ことがどう転んでも、最終的には自分の思う通りになると思っていたのかもな」
特公行も、サクマも、研究員も、その成果も、失われた。そして緒方自身も失われたことにより、歯止めがきかぬ状態になっている。緒方が、いったい、人をどれくらいにまで減らせばよいと計算していたのかを、知る術はない。しかし、このままでは、人が死に過ぎるということは明白である。
「平賀博士なら、強化人間を止めるような発明も出来たかもしれん。しかし、彼も、いない」
「博士――」
「済まん、思い出させてしまったな」
その仕草の一つ一つを、見ていた。
その言葉の一つ一つを、聴いていた。
平賀博士は、黒猫の
はじめて、眼を開いた日。
何故か、そのとき、どう言うべきなのか、知っていた。
「おはよう」
黒猫は、平賀博士に、そう言った。平賀博士の顔を見た瞬間、そう言わなければならぬような気がしたのだ。
戦闘訓練。様々なデータを検証し、蓄積してゆく。
日常生活に必要な知識や、情報。それも、ひとりでに覚えることの出来ない細かなことを、平賀博士は教えてくれた。
自由時間を利用し、映画や買い物、食事にも出かけた。平賀博士は、嬉しそうで、悲しそうであった。
そのとき、彼は言った。自分にとってのたいせつなものが、何なのかと。
今なら、はっきりと分かる。
その平賀博士を、黒猫は刺し、傷付けた。無意識の判断で命を奪うには至らなかったが、そのことは、黒猫に大きな衝撃と混乱を与えた。
それは、悲しみになった。怒りにもなった。
それは、感情であった。
特公行の束縛を脱することが出来たのも、彼女の自律制御システムに張り巡らされた神経細胞が大きく育ち、束縛しようとする力を超えたからであろう。
「黒猫――?」
涼が、起き出してきた。
「黒猫!」
目覚め、活動している黒猫を見るや、飛び付いてきた。
「心配したじゃんか!もう、大丈夫なの?」
「ええ、損傷は、全て回復しました」
「やっぱり、すげえや!それも、ホメオなんとか?」
黒猫は、答えの代わりに、自らの表情筋を駆使した。
うっすら、笑ってみた。
涼も、つられて笑った。
黒猫の行動が、世界に対し、作用した。そして、すべての作用には、反作用が伴う。黒猫は、さらに笑った。理由などない。自分が笑ったことにより涼が笑ったことで、更に表情筋を収縮させ、笑いたくなったのだ。
「すげえ――黒猫が、笑っていやがる。平賀博士が見たら、泣いて喜ぶぜ」
「そうね、きっと」
斎藤が涙ぐみ、その背に斎藤の妻がそっと手を添える。
緒方にも、妻と子がいた。そのことを斎藤やその妻は知らぬが、黒猫は、平賀博士から得た情報により、知っていた。緒方が、どのような夫であり、どのような父であったのかは知らぬ。しかし、それを死に追いやった自らや平賀博士を恨みに思うだろうか、と考えた。
もし、そうなら、彼らはどうするのだろう。
平賀博士がそうしたように、武器を手に、黒猫の前に立つのだろうか。
そのとき、彼女は、どうするのだろうか。
自らに向けられる銃口から放たれる弾丸に、あえてその身をさらすのだろうか。それとも、彼らが引き金を引くよりも早く、自分の銃の引き金を引くのだろうか。
恨みの円環。それを、断ち切ることは出来ないのだろうか。
今はまだ、分からない。だが、いつか、分かる日が来るのかもしれない。
「黒猫。世の中は、大変なことになってるんだ」
涼が、興奮ぎみに、話し始めた。
「ねえ。助けてよ。学校にも行けない。外に出ちゃだめなんだ。
「涼」
黒猫が、そっと、涼の髪を撫でた。
「なにか、食べるものは、ある?」
涼が、きょとんとした。世の中が、大変なことになっている。黒猫なら、なんとかしてくれると思ったのだ。それなのに、黒猫は、腹が減ったということを訴えている。
「パンとかなら、あるけど――」
「頂戴」
運ばれてきたそれを、乱暴に口に運んだ。
「損傷は癒えました。しかし、血液が足りぬのです」
呆気にとられる三人に、そう説明してやった。
「出来るだけ、有機物を。そうでなくては、
「保つって、なにが――」
「わたしの、身体が」
大口をあけて、パンを押し込み、オレンジジュースで流し込む。テーブルの上に並んだそれを全て平らげると、室内を見渡した。
「どうしたんだ、黒猫」
「武器は、ありませんか」
「無い。逃げるとき、全部、捨ててきてしまった。あるのは、弾のないハンドガンだけだ」
「そうですか――」
「一体、何を考えてる?」
「戦うことを」
「黒猫」
斎藤の妻が、穏やかに言った。
「あなたは、もう十分に戦ったのよ。もう、十分に」
黒猫の左眼は、潰れたままであった。アイセンサーが完全に損傷していたから、それだけ修復することが出来なかったのだ。
黒猫は、十分に戦った。産まれてから、ずっと、戦ってきた。
傷付き、激しい損傷を受けても、それをやめることはなかった。活動限界を越えてもなお、その身の滅びのすれすれまで、戦った。
そして、平賀博士は、死んだ。黒猫が戦う理由は、もう無いように思える。
しかし、彼女は、戦うと言う。それが、彼女の持って生まれた性質によるものなのであれば、それはとても悲しいことである。やはり、彼女は、武器なのか。斎藤は、そう思って、少し顔を曇らせた。
「黒猫。戦いに、行くの?」
子供とは、矛盾した発現をよくするものである。先程まで、黒猫を正義のヒーローか何かであるかのようにして、何とかしろと言っていた涼が、急に不安そうな顔を見せた。
「また、怪我するじゃん。駄目だよ」
黒猫は、小首を傾げた。
「強化人間が気になるなら、お前が行くことは、ないんだ。警察も、軍もある。それらに、任せておけばいい」
「そうよ、黒猫。怪我は治っても、まだ安静にしてなきゃ。風邪も、ぶり返すことがある。それと同じよ」
テレビでは、なお謎の集団による大規模な暴動の報道が流れている。国家の緊急時である。警察や、軍や、各企業が雇っている民間組織などが、こぞって出動し、その鎮圧にあたっている。
中継映像で、銃を乱射する者に、集団で強化人間が飛びかかり、滅多打ちにしたり噛み付いたりしている様が流れ、すぐに別の映像に切り替わった。
「一部、映像に、お見苦しい点がありました。お詫び致します」
何故か、キャスターが謝罪をした。
黒猫には、分からない。
すぐに映像を切り替え、見苦しいものであると謝罪をすることの意味が。実際に、それは現実に、このすぐ外でも起こっているのだ。そして、それを引き起こしたのは、緒方なのだ。そして、平賀博士もまた、間接的に、かつとても深く、関わっていることなのだ。
見苦しいならば、見なければよい。
見たくないなら、知らなければよい。
しかし、人は、知りたがる。
それゆえ求め、苦しみ、苛まれる。
人は、生まれながらにして、背負っている。
生きなければならぬという定めと、生きることの苦しみを。
それが、いのちというもの。
黒猫もまた、苦しんでいる。
黒猫にもまた、いのちがあるから。
平賀博士のおらぬ世界で、これから生き続けていかねばならぬことについて。
彼女の生ある限り、苦しみ続ける。
なぜなら、それが、生きるということだからだ。
平賀博士は、自らの最愛の創作物に、それを望んだ。
自らの最愛の創作物が、ものであることを超え、いのちになることを、喜んだ。
それは、子が生まれることに似ていた。
はじめ、ただの細胞であったはずのものが、やがて二つに分かれ、四つになり、知らぬ間に人の形になり、胎内でその時をじっと待ち、産道を通り、産まれてくる。その全身を、血に染めながら。
そして、産声を。
己のいのちを、存在を、世に、そして自らに知らしめるかのような、産声を。
長じれば、社会に交わる。そこで、子は、己が何者であるのかということに苦悩し、他者に答えを求めて近付き、その存在理由を知り、そしてやがて子を作る。その子に、人は、教えるのだ。
慈しみ、愛し、守るということを。
それこそが、自らの存在理由であるということを。
そのために、人は産まれてくるのだということを。
だから、平賀博士の行いを、神は黙認したのだろう。
もし、この世に、神がいるとするならば、だ。
ゆえに、黒猫は、立ち上がる。
斎藤の妻が買い与えた衣服の上に、ぼろぼろになったケプラー繊維のコートを纏って。
弾のないハンドガンには、見向きもしない。
台所に行き、包丁を二本。それから、押入れを開け、木製のバットを。
釘に、鋏やカッターナイフやペンなどの文房具。金属製のボトルに、夏の使い残りの花火と、キャンプに持っていく着火剤。それらを、斎藤の妻が買い物のときに用いているバッグに次々に詰め込んでゆく。
「おい、おい、そんなもので、何を――」
「武器にします。それに、爆弾を作ります」
「やめろ、お前が、行くことはない」
「いいえ、行きます」
黒猫の瞳に、強い意思の光がある。
「わたしだからこそ、行くのです。外で暴れている強化人間どもは、存在してはならないもの。それが今、実際に人を襲い、殺し続けている。そのことは、博士やわたしが、もたらしたもの。間接的に、わたし達には、あれを止める義務がある」
「嫌だ」
涼が、黒猫を強く抱き締め、放さない。
「あなたのために、行くの」
黒猫の声は、穏やかである。
「わたしは、守ることを知った。平賀博士が、わたしに、それを教えてくれたの。だから、わたしは、あなたを守るの。わたしは、そのために作られた、道具なの」
平賀博士から教わったことを、涼にも分かりやすく、そう伝えてやった。
そのまま、バッグを肩から提げ、三人の制止を振り切り、出て行った。
そして、二度と戻ることはなかった。
人は、ものを作る。ものとは、役割によって様々な形を取る。ときにそれは人が座るようなものであり、遊ぶようなものであり、身に纏うようなものであり、食を得るようなものであり、奪うようなものであり、傷付けるようなものである。それらを使い、何をするのか。
それを決めるのは、こころである。
そして、人は、いのちをも作る。
それは、人に限ったことではなく、この世に生きるあらゆる動植物が、それをする。
だが、人は、伝える。
言葉や、仕草や、態度や、あるいはそれらに出ぬ、無言のサインによって。
そして、願うのだ。
この子に、幸あれと。
その未来が、輝かしいものであれと。
そのために、苦しんででも、生きよと。
もとより、生きるということは、苦しむことであるのだから、怖れることはないのだと。
こころとは、解放を望む。その最も純粋な欲求が、彼女に芽生えたのだ。
そして、こころとは、慈しみを持つ。平賀博士が黒猫を、そのような暖かな光を宿した眼で見続けてきたのと同じ光を、彼女はその無機質な瞳に宿していたのだ。
殺しの技や、戦いの仕方などは、平賀博士は教えなかった。
黒猫が平賀博士から教わり、学んだこととは、慈しみ、労わり、愛し、守ることであった。
黒猫には、いのちがある。
いのちには、こころが宿る。
無機物のみで構築されたものにも、人はこころと魂が宿ると信じる。
ましてや、平賀博士を思い、その身を捧げ、戦い続けた黒猫である。
彼女を動かしてきたのは、自律制御システムなどではない。
彼女を動かしてきたのは、まぎれもなく、こころ。
そして、それは、この先も、彼女の生ある限り、続いてゆく。
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