また帰る
黒猫は、自動運転タクシーを用い、特公行の本部へ赴いた。
これより他に、選択肢はなかった。平賀博士を守るため、脅威は、排除しなければならない。
たとえ、何を引き換えにしても。それより優先されるべきことなど、ないのだ。
特公行の本部は、一般的な鉄筋コンクリート造の建造物である。前には別の政府機関が入っていたが、その移転と特公行の創設に伴い、この建造物が本部となった。階層は地下一階、地上三階で、それほど敷地も大きなものではない。
しかし、その内部には、その外観からは想像もつかぬほど最先端の機器や装備が置かれている。黒猫にとっては生誕の地であり、仕事場であり、家であった。
一階のエントランス。正面突破をするつもりらしい。性質上、裏口はない。もう一つある入り口は、ヴォストークの
エントランスの警備員が、黒猫の姿を認めた。無線で応援要請をするつもりらしく、ホルダーに手をかけた。
素早く距離を詰め、その手を折る。激痛で悲鳴を上げるその前に、曲げた人差し指と中指で、喉仏を潰した。その男に家族がいるのかどうかは、考えなかった。黒猫は、今、何を引き換えにしてでも守らなければならない者のために、ここにいるのだ。
そのままコンバットナイフを抜き、首の後ろに突き刺し、頚椎を破断し、脳幹を損傷させ、殺害した。
一歩一歩、噛むようにして、建物の奥へ。正月休暇は、今日までである。明日ならば、もっと多くの職員が出勤していただろう。その意味でも、黒猫は急いだのだ。夜のことであるから、警備員も少なく、ヴォストークも
部長は、おそらく、三階の、執務を行う部屋にいる。正月でも休まず出勤し、なにかの作業をしているのだ。そこを目指す。
殺害は、容易であろう。いかに組織内で強い権力を持っているとはいえ、黒猫は、自らの意思でネットワークを遮断している。いかなる命令も、効力を発揮しない。彼女は、自分の意思で、戦っているのだ。
「黒猫――?」
「何をしているんだ」
その表情には、明らかな戸惑いがあった。暴走し、遁走した機巧がまた舞い戻ってきた理由が分からないらしい。警備を呼んだ方がいいのかどうか、危険があるのかどうか、計れずにいる。
「安全を、得るために」
黒猫は、歩みを止めない。研究員は、自らが平賀博士と共に可愛がってきた機巧に、恐怖を覚えた。
作業服の下に忍ばせている、二二口径ハンドガン。それを、取り出した。
黒猫が、その
研究員の怯えた瞳に、間近に寄せられた黒猫が映った。
そして、それは、そのまま閉じられた。
「やはり、来たのかね」
部長は、その執務室にいた。まるで、黒猫の来訪を、予期していたかのようである。黒猫は、無言で、歩み寄ってゆく。銃器を使うつもりはない。それは、万一、ヴォストークとの戦闘になった際に使用するのだ。
「まあ、待て」
部長は、落ち着いて黒猫を制した。しかし、それで黒猫の歩みが止まることはない。
「私を殺せば、平賀博士に不利益なことになるぞ」
それで、黒猫は静止した。
「伺いましょう」
「黒猫。なんという奴だ。お前は、ついに、人になろうとしているのかね」
部長は、からかうように、黒猫に語りかけた。
「人には、なりません。わたしは、機巧です」
「しかし、お前は、何のためにここに居るのだ。お前の大好きな平賀君のためではないのか」
「博士に降りかかることが想定される脅威は、排除します」
「そう、そこなんだ」
部長は、革張りの椅子から立ち上がった。
「ふつうの機巧では、お前のような行動はしない」
「わたしは、ふつうの機巧のようには、行動しません」
黒猫は、部長が武装していないことをスキャンしている。会話の余裕があると判断した。不利益なことというのが何なのか、確認の必要がある。それゆえの、会話。
「そう。面白い話だ。平賀君が作り出した、最も従順な殺人機械が、まさか政府に牙を剥くとはね」
「所属勢力の如何に関わらず、脅威は排除します」
「では、お前は、私達を全て殺し尽くし、企業をも滅ぼし、この世の全ての人間を殺し、平賀君を守ると言うのかね」
「わたしが行った言動に、そのようなものはありません」
「はは。ものの例えだよ。だがな、黒猫。よく考えろ。お前が私を殺すということは、政府を敵に回すということになるのだぞ。全ての政府機関が、お前と平賀君を狙うようになる。そして、全てのヴォストークも」
黒猫は、答えない。それが、部長の脅しであると判断したらしい。
「あなたの仰る脅威というのは、それで全てですね」
また、歩みを始めた。
「いや、まだある――」
黒猫の入って来た扉が、にわかに開いた。黒猫が瞬時に振り返り、状況確認を行う。
「脅威は、ヴォストークだけではないのだよ、黒猫」
「見つけた」
「敵」
「意地悪しないで」
口々に、何かを呟いている。生体反応あり。コンバットナイフ、九ミリハンドガンでそれぞれ武装。数、五体。
それらが飛び上がり、左右に散り、黒猫に向かった。
未知の機巧。
戦闘モード、起動。
放たれた弾丸を膝立ちになって回転しながらかわし、抜いたナイフで天井を蹴って襲い掛かってきた一体の腹を割いた。人間のものと同じ臓器が、黒猫に降りかかる。ただし、その血は白い。
未知の機巧は、脆い。その強化された拳や脚力、身体能力には注意が必要であるが、斬撃や衝撃に対する耐性が極めて低い。生身の人間と変わらない。やはり、強化された人間なのだ。これをあくまで機巧と呼ぶのは、平賀博士がそう思いたがっているからであろう。
黒猫には、そのようなことは、関わりがない。ただ、目の前の脅威を、排除するのみである。残り、四体。
発砲。狙いは、正確である。しかし、その着弾点には、黒猫は居ない。膝立ちからさらに身体をのけ反らせ、地に背がつくすれすれでかわした。
腹を斬り裂かれて沈黙した一体の足を掴む。
起き上がりざま、それを別の一体に思い切り叩き付けた。
その腰や大腿の骨を激しく損傷させたが、仕留めることは出来ていない。
凄まじい物音が室内に充満する。それと、硝煙の臭いも。
横倒しになりながら、ハンドガンを構えてくる一体。
扉の横、今まさに引き金を引こうとする一体。
その八十センチ右隣、弾倉を交換する一体。
部長に射線がかかるのを避けるため、移動を行う一体。
それらを、視野の中に同時に捉えた。
黒猫のポケットから取り出された二挺のハンドガン。
それを、構えた。
構えた真横を、弾丸が複数通過してゆく。
それが壁や書棚などに着弾したとき、黒猫のハンドガンが火を噴いた。
四発。一体は胸部の中心を、一体は腹部、一体は下腹部。即死はせぬまでも、全て、急所である。一体だけはやや誤差が生じ、大腿に
「痛い、痛い――」
「たすけて」
「やめて」
苦痛の声を上げる三体の脇を通りすぎざま、それぞれに止めを刺してゆく。
大腿に弾丸を受けた一体が、至近距離でハンドガンを向けてきた。それをあっけなく取り上げ、眉間を撃ち抜いた。
標的、沈黙。
「信じられん――」
「あなたが、この未知の機巧を?」
全身を真っ白に染めながら、黒猫が訊いた。
「これは、サクマミレニアム社の機巧のはず。それを用いているということは、あなたが内通者であるということですね」
「だから、どうした。人形風情が、私に尋問するのかね。いいか、よく聞け。わたしに危害を加えれば、特公行のすべてのヴォストークがお前達を狙うようになっている。そして、お前が未知の機巧と呼ぶ、強化人間。これから、お前達は、毎日、昼も夜も、それらにつけ狙われるのだ。それでも、お前は――」
最後まで言い切る前に、部長は吹き飛んだ。
その顔面を、黒猫の強化骨格の拳が張り飛ばしたのだ。
即死せぬような力加減でそれをしたのは、何故なのか。
「や、やめろ。俺の話を、聞いていなかったのか」
また、一撃。
「やめろ、やめてくれ――」
どれだけ転がっても、黒猫はその胸ぐらを掴み、起き上がらせた。
「どれだけの敵がいようとも、構わない」
今度は、腹。肋骨を破砕する感触が、黒猫の拳に伝わった。
「わたしは、守る」
また、腹。
「必ず。平賀博士を、守る」
もう、部長は虫の息である。
「平賀君も、とんでもないものを作ったものだ。この力の代償は、大きいだろうに――」
「あなたのように、代償を払うことなく、すべてを手に入れようとする人間の末路について、あなたは知っていますか」
また、黒猫の中で、かつて
「ろくな死に方をしないわ、あなた」
顔面を掴み、そのまま持ち上げ、机に叩き付けた。頭蓋骨が壊れ、血液と
「管理職は、黙って机に向かっていなさい」
というような気の利いたことは、黒猫は言わない。
ただ黙って転がっている未知の機巧が扱っていたハンドガンの弾倉から弾丸を取り出し、自らのそれに再装填した。
部屋を出ると、廊下が続いている。タクティカルブーツの裏にこびりついた白い血の跡を残しながら、エレベーターホールの方へ歩いてゆく。
ちょうど、エレベーターが三階まで上がってきた。
念のため、片手にハンドガン、片手にコンバットナイフを構えた。
ドアが、開く。
「標的確認。これより、排除します」
ヴォストーク。
その数、七体。
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