★3

目の前で煙草の煤を払った男が、ニヤニヤと床を指差して笑っている。

「この塗料どこで買ったか教えてもらえます?」

どうしてこんなにも人を不快にする話し方ができるのか。そんなことを考えながら、なぜ探偵と名乗る男がこの場所にいるのかを考えていた。

地下のアトリエに人を入れたことはない。初めて入ったと思ったら、煤を落とされる始末。あちこちを勝手に見た後にペンキを見て男は笑った。話は逸れるが、私にとって作品を見られることは、私自身の全てを曝け出しているのと同じだ。こっちの羞恥などこの男は微塵も気にしてくれない。

棚に置いてあった緑、黄色、赤、白のペンキ。普段はもっぱら油絵の具だが、たまにこういうものをキャンパスにぶつけたくなる。男の笑いに不審がりながらも正直に答えると、さらに赤だけをじっくり観察し始めた。手帳で何かを確認しながら。

私はこの奇妙な時間に緊張してきて、汗を指で拭った。何か嫌な予感がするのだ。この男がずけずけと入っていること自体嫌なのだが。

「あれーこれって、あの店のですよね? 」

ほらそこの、と窓の外を指差した。たまに市場で路上販売している者もいるが、私は寂れた住宅街の奥、誰も来ないような画材屋で買っている。昔は店主が自分と似たような奴だと少し話したりすることはあったが、ここ数年は行っていない。ペンキは最近開けたので中身はまだ新品だ。そういえば最後に寄った時、あそこの旦那は確かいなかった。金だけ置いて商品を持ってきたのだ。今更ながら自分の軽率さに後悔した。だがこんなペンキがなんだというのか。

「へぇ……これはどんな絵に使うんです?」

ちっとも会話を楽しもうという口調ではない。一人だけが強い役を持っているカードゲームで、チラチラとこれ見よがしに見せてくるような子供らしい、それでいて残酷な視線が打ち抜いた。私の手持ちには何も対抗できるカードがない。

男の質問から仕方なく絵を見せると、また口元に手を当てニヤリと笑った。

「ははぁ……これはこれは。なんというか……独創的、ですねぇ?」

「そんなのどう書こうが自由だろ。いい加減何しに来たか教えてくれ」

「……ふふ、少し落ち着いて下さいよ。貴方にはたっぷり話す時間があるんですから」

どういうことだと聞く前に男が人差し指を立てて、ペンキにそれを突っ込んだ。ニチャニチャと音を立てて二つの指を擦り合わせる。

「ところで貴方、赤色を作る時はどうしているんです? 絵を描く時には様々な色を混ぜるんでしょう?」

「……まぁその時によって変わるが、黒が入ることも」

ちらりと床に散らばった絵を見ると、確かに赤黒い部分が多い。混ぜているわけではなく混ざっていく、が完全には混ぜないが正しい。

「ほう……黒。まるで血の色ですな」

「……血?」

「近所の方から聞いたんです。貴方が随分芸術に陶酔していると。入り込みすぎて、拘りが強くなってしまった。彼は……血を混ぜて絵を描いている、と」

「何をバカな」

「……これは」

男は布をかけていた、今作成中の絵を見てそのニヤニヤ顔を消した。ニヤニヤも不快だったが、まともな顔になるのはもっと不気味だ。

絵の中では天使が二人、上へ登ろうとしていた。真ん中に描くつもりの自分はまだ描いていない。

「……これだけテイストが違うんですね」

今迄感情に任せっきりだったので、最後ぐらいは綺麗なものが見たいと、私も美術館にあるようなものを描いていた。

「はは、こういうのも描けるんじゃないですか。それからピカソみたいに狂いたくなるんですね。さてと、この天使のモデルは実在していますか?」

「私の、想像の産物だ」

「なるほど」

「それでいい加減……っ」

男は突然コートの内ポケットからナイフを取り出し、自分の小指に当てた。それをそこらへんにあった適当な紙に擦り付ける。

「あんまり綺麗な色じゃないですねぇ。紙が悪いのか、私の血が悪いのか。貴方の血も見せてくれませんか?」

「……あんたはさっきから何がしたいんだ」

「これは貴方なりの弔いのつもりですか」

「……はっ」

何を言っているのか。呆気に取られている間、男は話し続けた。

「この近くの教会で少年が一人殺されました。体のパーツの一部分だけが現場にはあったので、残りは犯人がどこかへ持っていったんでしょうかね。その後にまた男が死んでいた。十字架に磔焼身殺害だ。次には内蔵垂れ流し時計まみれの死体……それからこの間起こったのは、今までのより遥かに綺麗だった。バラに囲まれ赤に塗られた死体……そんなことがあったのはご存知ですね?」

私は新聞も取っていなければ、人の声が入る庭にも出ていない。ずっと、ずっと地下にいた。

「我々は戸惑っていました。なんせ全く犯人の手かがりが掴めない。犯人像も割り出せない。あちらからの要求もない……近所への聞き取りで随分かかとがすり減ってしまいました。しかし割と早い段階で皆さん言ってましたね……この街でそんなことをする奴は一人しかいないって。変わり者で、人の親切を好意に取れない……なんでも子供に対してもすぐカッとなって怒るそうじゃないですか。作品からも人への恨みが嫌というほど、滲み出ている。一目見たら夢に出そうな絵を描く……孤独の芸術家。彼がやったに違いないと」

漏れるような息が不規則に出た。寒いのに汗が出る。目の前がだんだんチカチカとしてきた、頭の血が下がっているんだ。震える手で自分はまだ存在しているのかと確認した。

「この天使は、彼のことなのか?」

男は絵をひと撫でして、更に近づいた。

「ここには貴方自身を描くつもりなんですね。それは……全ての償いからですか?」

「……わ、私……は」

「外に警察の方を呼んでおきました。話はそこで聞きましょう」

男は静かな声で、私をアトリエから連れ去った。

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