第九怪 茶屋

 鬼島茶屋。それそのものは、昔から鬼島町にあった、住民の憩いの場である。ただ店主は高齢で、数年前、鬼島町にやってきた直斗という女性が住み込みで働き始め、今では彼女が鬼島茶屋の顔となっているのだ――と、白戯が道中教えてくれた。

 珍しいな、と、高月は思う。鈴もそうであったが、そもそも、鬼島町には観光客は来れど移住者は滅多に居ない。百年に一人居るか居ないかである。その一人が鈴だと思っていたのに、もう一人とは――きっとこの先数百年ほどは新たな移住者は居ないだろう、と高月は息を零した。

 移住者が少ない。それは単純にこの町に移住したがる物好きが居ないということもあるが、鬼島町に移住する際には政府の認証が要るからだという噂もある。逆に、『政府に選ばれた者は本人が望まずとも鬼島町の住人にされてしまう』とも噂されていたことを、高月は何処でだったか聞いたことがある。真か偽か、怪しい話ではあるが、あながち嘘とも思えないのが鬼島町の嫌な所だった。何せ、現に、鬼島町で生まれ育った生粋の住民は勿論、外からやってきた住民も、姓を変えられ、全員『鬼島』という姓を背負っている。高月には何処か、己の苗字でもあるこの文字が、首輪に思えて仕方がなかった。


 ――鬼島茶屋の内装は、高月が幼い頃に見た記憶よりも小綺麗になっていた。玄関から土足で入れるよう道が掘られ、横に伸びている。その両側に畳が敷かれた座敷が二つ用意され、いくつかの机とそれを囲む座布団がそれぞれ等間隔に置かれていた。道の先、突き当たりには襖がある。その先にトイレでもあるのだろうかと、高月は奇妙な設備に首を傾げた。

 そのスペースに入る前――玄関のすぐ側に設置されたレジ台の向こうで、椅子に腰掛けた灰色の髪をした女性がいた。椅子に座っていても身長が高いと分かるが、それ以外は普通の成人女性と言って何ら問題無いように見える。彼女が『直斗』なのだろうと、高月は推測した。

 髪と同色の鋭い瞳が、ついと玄関に立つ幽を見る。

「いらっしゃい」

 店番の義務としての挨拶をひとつ落としながら、しかし直斗の目は完全に幽が肩に担いだバットの先にある。それは血の滴る死体を店に持ち込む嫌悪でも、恐怖でも、驚愕でもない。はやる気持ちを抑えたような、誕生日ケーキを前に親のカメラを待つ子供のような、そんな――成人女性のする目としてはいささか不釣り合いであるような――目をしていた。

 幽は顔だけは美麗に微笑んで、背後の高月達へ振り返る。

「さて、皆何がいいかね」

 レジ台の後ろ、壁の上の方にメニューが書かれた黒板が吊り下げられている。その下には恐らくキッチンなどの準備室につながるであろう穴が扉もなく開いており、中の様子が見えないよう暖簾がかかっていた。

 座敷にある机にもメニュー表はあるようだが、先に注文をする形式なのかと首を傾げつつも、高月は皆がケーキだのパフェだのラテだのを注文するのに合わせて「ブラックコーヒー」とだけ口にする。

 幽は満足げに頷き、直斗の方に振り返った。

「私はココアで。お代は最後に、会計別で。それから、『これ』の分」

 幽がバットを肩から滑らせる。そこにひっかけていた血肉を二人分、レジの前に放り投げた。

 白いレジ台は血肉で赤く汚れる。グロテスクに潰れたそれに顔を顰めた高月以外は、その事に誰も不平を漏らさず、平然としていた。

 幽が笑む。


「新月の間と、百の行灯を――頼むよ」


 直斗が立ち上がり、レジ台を飛び越えて、血溜まりを踏む。びちゃり、と粘着質な音がした。直斗はそれを気にした様子もなく、死体に手を伸ばす。一つ、死体の指を掴んだ。

 ぶちり。そんな、お世辞にも耳に心地良いとは言い難い音を立てて、彼女はかつては人間だったトンカラトンの右手の人差し指をもいだ。そうして、その指を――まるで菓子でも摘むように、己の口に放り投げる。

 指の骨まで食っているのだろうか。ぽき、ごり、と硬いものを割る音を立てて、直斗は、指を――恍惚と、咀嚼していた。

 人差し指の一本を飲み込むのに、そう時間はかからない。ごくりと喉を上下させると、直斗は息を吐いて、幽を見た。

「サービスしてやる」

「嬉しいよ、活きのいいのが手に入って良かった」

 声を弾ませた幽に顎で促し、直斗自身は死体を背負ってレジの奥へと暖簾をかきわけて行ってしまう。幽は再び高月達の方へ向き直り、「行こうか」と笑う。

 幽が先導した。彼女は茶屋の席である座敷を通り過ぎて――その先、突き当たりの、襖を開く。

 その先にあったのは――長い長い、廊下であった。

 そのことは、白戯や空音、傘本も予想外であったらしい。目を丸くして、彼等は顔を見合わせる。

 だがそこは鬼島町の住人、というべきか。彼等は直ぐに笑い合い、さっさと幽の後ろについて行ってしまった。

 高月とて、一人取り残されるわけにはいかない。ましてや一人で鬼島荘に帰ろうと茶屋を出ていけばトンカラトンの餌食になることは目に見えていた。それに、ブラックコーヒーを頼んでしまった。仕方なく、溜息をついて、高月は彼等の後を追うべく、足を動かす。



 長い長い、廊下。左右は壁に囲まれ、上は天井、下は木の板、陽の光は殆ど入らず、申し訳程度に廊下の端に等間隔で置かれた蝋燭だけが明かりだった。不気味な空間は、高月一人なら決して入りはしなかっただろうが、その不気味さは同行者達の軽い世間話に掻き消されてしまっている。話題は二転三転し、矛先が高月に向いていたことも、高月が怯える所ではなかった理由でもあろうか。

「高月ってばほんとヘタレだよねー! お父さんに鉈の使い方習ったんでしょー?」

「実結ばなかったんだねー」

「うるせぇな」

 空音と傘本の軽口に短く返す。彼等の言う事は確かに真実であり、加えて彼等の軽口には幽ほどの悪意があるわけではないので無様に怒鳴ったりはしないが、やはり戦闘能力の無さを揶揄されれば拗ねた気分にはなるものだった。

 ――空音の言う『お父さん』、とは、今の父親を指す言葉ではない。今は亡き、高月の『実の』父親である。

 彼は鬼島町の出身であり、鬼島町の外で生まれた女性――つまり高月の実母である――を娶って、高月という一児をもうけた、そんな男だった。そして、何年前だったか詳しくは覚えていないが、少なくとも高月が鬼島町に住んでいた頃だ。彼は死んだ。喉に餅を詰まらせた、という、くだらない死因を聞かされた記憶がある。

 死因さえ薄ぼんやりとしているような実父の記憶は、高月にはほぼ無い。ただ、鉈を携えている姿が遠い記憶にあるだけだった。鉈を使うような仕事をしていた、というよりは、幽でいう金属釘バット、白戯でいうチェーンソーにあたるものが、高月の父にとっての鉈だったのだろう、と高月は考えていた。

 その程度の記憶なのである。空音の言う通り、父に鉈を使った禍との戦い方を叩き込まれていたとしても、今の高月が扱えるわけはなかった。扱いたくもない、と思う。友人達の戦闘能力によって危険から守られることは感謝しているが、イカれた超人などにはなりたくない。そもそも、鬼島町になど、帰ってきたくはなかったのだから。

 それはともかく、高月の実母は未亡人となり、その数年後、鬼島町の外の住人――すなわち今の高月の義父にあたる男だが――と再婚する形で、高月を連れてこの町を出た、のだろう。そう、それもまた、高月にとっては推測である。当時の高月には母が町を出ることにした理由も、父が居なくなった理由も、幼すぎて分からなかったのかもしれない。当時、何もわからず母について行った子供の記憶が、今の高月に印象深く残ることは無かった。

「……父親、ねぇ」

 思えば、この町は顔も思い出せない実の父親の故郷であるのだ。そう考えて、高月は、隣を歩く白戯に目を向けた。

「白戯。俺の父さんってどんな人だった?」

「え? うーん……」

 突然話を振られた白戯は困ったように首を傾げた。実の息子が覚えていない男のことなど同じ歳の幼馴染みが覚えている筈がないかと、高月は苦笑する。だから、やっぱいい、悪い、と取り消すつもりで、口を開いた。

「あんまり覚えてないけど、高月は顔は父親似じゃないかなーって思ったことはあるかも」

「そうなのか?」

「思ったような記憶があるだけだけどね。高月のお母さんはどんな顔だっけ? お母さんに似てないならお父さん似なんじゃない?」

 そう言われて、高月は母の顔を思い出そうとした。一昨日までは共に暮らしていた、己を産んだ女の顔。大雑把で、地図さえろくに描けない女。普通に、高月は、その女を母として愛していたし、愛している、と、思う。

「……どんな顔だったっけな」

 母の顔は、思い出せなかった。

 ただ、母の再婚相手、即ち高月の義理の父が、いつまでも高月によそよそしかったということは、母にはあまり似ていなかったのかもしれないと思った。そういえば、両親について海外に行きたいと思わなかったのは、義理の父のこともあっただろうか。そんな気もする。何だか、何百年も昔の事のように、記憶が薄ぼんやりとしていた。

「そんなこともあるよね」

 白戯は、母の顔を思い出せないと言う友に、そう微笑む。

「……そうだな」

 白戯の言う通り、『そんなこともある』と。

 ――些細なことのように、思えて。

 高月も、頷いて、とうに別の話で盛り上がっている空音と傘本が己の前を歩いていくのを、眺めながら歩いた。

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