第六怪 学友
担任のスローペースの歩みの後ろにつくため、必然的に高月の歩みも酷くゆっくりになる。彼が、歩きながら周囲を見渡す余裕は十分であった。
しかし、この校舎にはやけにシミが多い。
そんなことを思いながら、高月は天井や壁を見回す。しかも嫌なことに、そのシミは妙に人の顔に似ている気がするのである。
――ふと、シミの一つと目が合った気がした。
「(……いやシミと目が合うって何だよ)」
心の中で自分に突っ込む。壁にあるものはシミである筈だ。いくら人の顔に似ていてもシミであり、その『目』に見える部分がたまたま目に付いただけなのだと、内心で言い聞かせるように呟いて、その顔を逸らそうとした。
『あはははははははははは』
――そのシミである筈のものが笑わなければ。
「っひ!?」
思わず引きつった声が漏れて、よろめく。
『きゃはははははははははは』
『うふふふふふふふふふふふ』
『けたけたけたけたけたけたけた』
連動するように、高月を嘲るように、周囲のシミ達が笑い出した。その口を釣り上げて、甲高く、耳障りな声が響き渡る。頭が割れるように痛くなって、耳を塞いでもその声は止まず、胃がぐちゃぐちゃに掻き回されるような、吐き気。堪らずに膝をつきかけて――
ガゥンッ! と鈍い衝撃音と、短い断末魔を区切りにその全てがぴたりと止んだ。
「はいはいはい、うるさいですよ」
衝撃音は担任が出席簿の硬い表紙の角でシミの一つを叩いた音だったらしい。出席簿と、それが叩いたシミ――のあったはずの壁には血のような赤い跡が付着している。相変わらずぷるぷると震えた手先で出席簿についたそれを拭いながら、高月を見て、「びっくりしてしまいましたか高月君」と呑気に言った。
「……えっと」
「転入生にはしゃいだようですね。あれはね、慣れてないと気持ち悪くなってしまいますからね、それに授業妨害ですから、笑い出したら、殴りつけてくださいね。血で汚れてしまうので、汚れてもいい、硬いものが手元にあるとなおいいですね」
「はぁ…………」
「もうすぐ教室ですからね、高月君。自己紹介とか考えててくださいね」
高月が微妙な顔をしながらも頷いたのを見て、では行きましょうか、と、やはり覚束無い足取りで担任はまた歩き出した。
――前言撤回しよう。鬼島町に実に似つかわしい担任だ。
吐き気はもう無くなったが、どうしようもなくなんとも言えない気分になって、遠い目になりながら後ろをついていくしかできなかった。
自己紹介を、と言われたものの、殆どそれは不要であったらしい。担任に呼ばれて入った教室で、高月が喋る前に「高月だ!」と呼ぶ声が教室に響いた。
「マジで高月じゃん」「うわぁ、久しぶり、覚えてる?」「身長伸びたなぁお前!」
担任の指示も無く勝手に離席して、わらわらと生徒達は高月の周りに群がる。記憶というものは不思議なもので、もう随分と久しぶりのはずであるのに、誰が誰なのかよく覚えていた。何より、皆が自分をこうも覚えてくれていたことに驚いて、それから、少しむず痒いような心持ちになる。
「……久しぶり、」
結局、道中考えていた自己紹介なんてものはどこかへ飛んでいって、そんな一言だけしか浮かばなくなる。しかしそれで十分であったのか、かつての友人達は皆笑って同様に返した。
「高月、本当に久し振りだね。また会えて嬉しいよ」
そう言って他より一歩高月に歩み寄る人物の、甘やかな声に、高月は振り返る。その顔には特に見覚えが深かった。
「……
名前を呼ぶと、白戯はにこりと笑う。
緩く癖のある柔らかな薄いピンクパープルの髪は記憶より伸びていて、後ろで一つに括られているようだった。その右目にある一輪の赤い薔薇の花は、相変わらず、くっついているのか本当に目から生えているのかよく分からない。しかしそんなものは鬼島町では些事である、咲夜の目や、鈴の能力と同じようなものだ。髪と同色の睫毛は下手な女子より長く、垂れた目を良く彩っている。その瞳はグレーに近いブルーであった。
彼が男子制服を着ていなければ、誰がどう見ても女子生徒にしか見えないほど可愛らしい。幼少期から女子のような顔立ちだとは思っていたが、こうもその造形を失わずに成長するものかと、高月は妙な感慨を覚えた。
「高月、身長伸びたねぇ。何センチ?」
「確か178だったか……お前は相変わらず女みたいな顔だな」
「中身はきっと高月より男前さ」
「うるせぇ」
苦虫を噛み潰したような顔をした高月に、ふふ、と白戯は柔らかく笑う。その笑顔で、なんだか毒気が抜かれてしまった。幽の嫌味は本当に悪意しか感じないが、白戯の軽口は何故か腹が立たない。
と。
「いやぁ、ほんとほんと、高月クン大人っぽくなっちゃってー!」
「身長ずるいわよー! わけなさい!」
白戯との会話の真ん中を、おちょくるような声と、からかいを仮初めの怒りでコーティングしたような声が割って入った。
そちらを見れば、やはり白戯と同じくらい見覚えがある、懐かしい顔がある。
「お前らも変わんないな、傘本、空音」
旋毛の辺りから生えたアホ毛をぴょこんと揺らし、ライトブラウンの髪を左分けにした男、傘本が、糸のように細めた目で、にまりと口角を上げ――否、彼の口が猫のように曲線を描いているのはデフォルトであった、と高月は思い出す――その首に巻いた赤いバンダナを弄る。その後ろで黒髪を二つ結びにした小柄な少女、空音が、歯を見せて笑って、それからこほんと咳払いをひとつ、「縮め!」と、厳つい男のような低音を『作って』呪詛を吐いた。変声は彼女の十八番だが、どうやら会わないうちに腕を上げたらしい。
幼少期の姿と今目の前にいる顔がダブって、懐かしい、と笑いがこみ上げてくる。高月の口角は知らず上がっていた。
「傘本は俺と大して変わらないだろ、身長」
「うんにゃあ、あっしは177でっせー。高月クンに負けちゃったよぉ」
「177も178も大して変わらないわよノッポ共め!」
「空音は成長期来なかったのかよ、昔と身長変わってねぇんじゃねぇの」
「はぁ!? 変わったし! 高月のバーカバーカ無能ヘタレ!」
「おい!?」
「駄目だよ空音、ホントの事言っちゃ」
「白戯!!!」
テンポのいい応酬。まるで昔に戻ったようだと、誰かが呟いた。
高月と、白戯、傘本、空音は所謂幼馴染みというものだ。幼い頃に親交を深めたというものでは、この鬼島に住む同年代の殆どがそうであるが、特にこの四人、加えて幽は家が近いこともあり、しょっちゅう一緒に遊んでいた仲だったのである。高月にとっては永遠に、過ちだった、と後悔する過去――幽を最初に鬼島荘に見に行ったその日も、四人で共に押し掛けていた。故に、四人組が五人組に変わり、高月の心労は増えることとなったのだが、それについてはあまり詳細に思い出したくはない。
さて、高校生になった三人は、それでも昔とあまり変わらないように思える。勿論背格好は大なり小なり伸び、顔立ちは面影を残しつつも年相応に大人びて、変わらぬことより変わったことの方が多かろう。しかしその、印象を形作る大きな部分となる『雰囲気』というものは、褪せた記憶そのままのように思えた。久し振りに会ったというのにまるで昨日までも共に居たような感覚。聞くところによると、そういうものを親友と呼ぶらしい、と、そんな考えが脳裏に過ぎって、高月は喉の奥で笑ってその思考を打ち消した。親友などと、心の中でも浮かべるのは、妙にむず痒くて仕方が無い。
――それでも、こんなイカレた町でも、まあ、やっていけるんじゃないか。
そう内心で笑って。
「はいはい、皆さん、仲良しはいいことですね、ですが、そろそろ席に戻りましょうね」
担任ののんびりとした嗄れた声を皮切りに、生徒達は喋り声を重複させて意味を成さないざわめきを立てながら、その声を、少しずつ減らしながら、各々の席に戻っていく。
「高月君の席は窓際から二列目の一番後ろですね、丁度――」
担任の声に合わせて席を探す。席に戻る生徒の背に隠れて見えづらく、仕方が無いから少し背を反らしたり背伸びをしたり位置を変えたりしながら、その席を見つけて、
血の気が引いた。
「幽さんの隣になります」
訂正する。
この町で、上手くやっていけるほどの平穏は存在しないだろう。高月にとって、いっそ禍よりも重大な災厄の源が己の隣にいる限りは。
一番後ろの窓際。その最も人気を集めるであろう席に悠々と腰掛ける彼女は、どうせ生徒達が高月に群がった時もその群れに混じることなく後ろの特等席からにまにまと眺めていたのだろう、と、簡単に想像がつく。そういった光景は彼女が好むものだ。人間観察が趣味だとはよく言ったものである。厨二病的なものではなく、彼女は真に、人間の、特に愚かな挙動を眺めるのが好きなのである。
そんな彼女は、格好の観察動物をその黒水晶に捉えて、美麗に微笑んだ。
「どうしたんだい高月君、早く座り給え。この美少女の隣にね」
――俺はトンカラトンより先にこの女に取り憑かれていたのかもしれない。
この教室の壁にも点在する人の面をしたシミが、声を潜めて高月を嘲笑っていた。
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