第一怪 少女
闇に響いたのは鋭い刃物が肉を裂く音でも、切り落とされた人頭が固いあぜ道に落ちる鈍い音でもなく、ぐちゃり、と水っぽさを孕んだ肉が潰れる音。
耐え切れず尻餅をついた高月の頬に液体が落ちた。その感触と、来るはずだった痛みが訪れない事に疑問を抱きながら、高月は恐る恐る瞼を持ち上げる。
その視界に映ったのは、地に伏せる化け物。その身体には恐らく其れを襲ったのであろう金属バットが突き刺すかのように埋まっていた。
化け物が纏っていた包帯は衝撃のせいか緩み、奥の『モノ』が月明かりに照らされる。腐った肉の塊にも見える其れはびくりびくりと痙攣していた。
「――っひ」
其れを直視してしまい、高月の喉から僅かに引きつった息が漏れる。
咄嗟に口元を覆ったのは漂う腐臭が引き起こした吐き気ゆえか、視覚的な精神ダメージのためか、僅かに残ったプライドが悲鳴を抑えようとしていたのか――恐らくは、どれも理由の内にあったのだろう。
高月の口内に酸っぱい物が広がる。きっと今現在、己の顔は哀れなほどに青褪めているのだろう、とどこか他人事のように考えていた。
「嗚呼、町に来て早々に、この仕打ちは何だ?こんなサプライズは嬉しくない、ついでに腐肉のチラリズムも嬉しくない。やっぱり帰ってこなければ良かった――君が考えているのはそんな所だろうね、高月君」
しかし勿論、そんな現実逃避を『彼女』が許してくれるはずは無いのだ。高月は半ば諦観した頭で、しかし僅かばかりの抵抗を込めて、座り込んでしまっている状態なために見上げる形になる目の前の知人を睨み上げた。
「怖いじゃないか、睨まないでくれ高月君。仮にも私は君の命の恩人だぜ」
言葉とは裏腹に、全く怖いなどと思っていない風に笑った少女は地に伏せた肉塊に歩み寄り、金属バットを引き抜く。その華奢な腕にその凶器はあまりに不釣合いである。しかし、彼女を――否、この町の住人を見た目で判断してはいけないことは高月もよく分かっていた。
この少女の容姿だけは――中身はともかくとして――日本人形のように美しかろうが、雰囲気が儚げであろうが、彼女がその釘がいたるところに打ち付けられた鉄の棒で化け物を殺した事実は変わらない。
少女が高月の方を向いて笑った。相変わらず、顔だけは整っている。
「まあ、君のそんな恩知らずな所だって、嫌いではないがね」
「……うるせぇよ」
幼い頃に知り合い、仲を深めた相手を『幼馴染』と呼ぶのであれば、彼女は彼にとっては不本意ながらもそれに該当するのであろう。
彼女の名は
*
幽との出会いを語るには、約十二年程、時間を遡らねばならない。高月が五歳の頃の話である。高月にとっては黒歴史と呼ぶべき、彼が鬼島町の『常識』に染まっていた時代に、幽は親も伴わず鬼島町に引っ越してきたのである。
僅か五歳の少女が一人で『鬼島荘』に下宿するとあって、町民達はどよめいた。
なんせこの町は化物が蔓延る土地である。昼は数が少ないとはいえ出ることは出る。夜はもっと出る。勿論人畜無害な『モノ』だけではなく、だ。
だから鬼島町の町民は物騒だ。常に武器を携帯している。そして強い。
自分の身は自分で守らねばならない。自分が買ってしまった怒りは自分で責任を取らねばならない。時に化物に譲り、時に化物を滅し――そうやって彼等は化物と共存してきた。
そんな鬼島町の『常識』を、余所者は解さない。だからこそ愚かな観光客は化物の怒りを買い、殺される。運が悪ければ何の落ち度も無しに殺される。そして其れらに食われれば、彼等の死は無かった事になる。はっきり言って鬼島町の住人にとって、観光客は『金を落とす愚か者』の一言に尽きる。
――時に正しく、時に不合理で、絶対的に理不尽。『人智を超えたモノ』とはそういうものだ。
さて、このような町に放り込まれた哀れな少女はどうなってしまうのか?
住人は面白半分、心配半分に噂した。そもそもが人口の少ない町である、噂が広まるのは早い。好奇心旺盛な子供達は鬼島荘にまで押しかけ、噂の中心である少女を見に行った――高月もその一人である。
彼が少女を一目見ようと塀から覗きこんだその時、彼女は丁度鬼島荘の庭で一人で遊んでいた。
艶やかな長い黒髪、黒水晶のような瞳を縁取る長い睫。幼いながらも整った顔立ちに、健康を損なわない程度に白い、陶磁器のように滑らかな肌。
正に人形のような風貌に、高月は思わず見惚れたのである。言葉も出せずただ彼女を眺めるしか出来ない彼に、少女が気付くのはそう時間はかからなかった。呆然と己に見惚れる少年を視界に留め、彼女は笑う。満面の笑顔というよりは、美しい花が静かに綻ぶような笑顔で、その小さく桃色の唇を開いた。
「きみも『やじうま』にきたのかな。いやはや、にんげんのこうきしん、というものははてしないものだね。ああ、わたしはおこってなどいないのさ、むしろきょうみぶかくおもっている。だってこんな、こどもの『ゆくすえ』よりもじょうしきはずれな『かいぶつ』がはびこっているというのにね、それを、しがにもかけないのさ。つまりかれらにとって、それはじょうしきはずれ、などではないと、いっぱんてきに、きょうふにぶんるいされるものだとしても、かれらにとって『きょうふではない』。そういうことさ、じつにきょうみぶかいね!」
五歳児らしい舌足らずな口調と、鈴を転がしたような可愛らしい声音は外見相当であるのに言っている事が不釣合いすぎる。当時の高月には彼女の言葉の三割も理解できなかったが、とりあえず彼女が所謂『変な奴』であることはよく分かった。
果たして、幽は美しく強かで、それ以上に変人だ。
彼女は町民達に好き勝手噂されていることをものともせず、あっさりと鬼島町に溶け込んだ。町民もやがて受け入れはじめ、余所者ではなく『住人』として彼女を歓迎した。
そして、その初対面時のせいだろうか――高月は後に過ちだったと後悔することになるのだが――彼は幽に気に入られ、二年間の間、よく一緒にいるようになったのだった。
*
「それにしても、高月君。君は鬼島町を離れて随分とまあボケてしまったようだね」
幽は笑みを崩さないままに口を開く――金属バットに付着した肉片と血液を拭いながらなので、その可憐な笑顔も恐怖でしかないのだが。
しかし肉片は取れても、バットを覆う布に染み込んだ血液は難しかったらしい。なかなか落ちない赤に珍しく形のいい眉を寄せ、やがて諦めたのか溜息をついて拭ったせいで赤く染まったハンカチを化物だった肉の上に放り投げた。
「……中性洗剤で落とせるだろうか、これ」
「しらねぇよ」
「いやぁ、流石に血がついたバットというものは視覚的に物騒すぎやしないかとね。わりと気に入っていたんだよこれ」
「……金属釘バットの時点でアウトだろ……」
グロテスクな肉塊を挟んでする会話にも夜道で男女が交わす会話にも不釣合いな、緊張感もロマンスも無い言葉の応酬を交わしながら、しかし高月の精神は落ち着きを取り戻していく。
暗いあぜ道は田舎町らしい静けさを保ったまま、先程までの冷たい空気もなくなっていた。転がっている化物の死骸が無ければ先程の出来事も嘘だったと思えるのであろうが、そうもいかないのが残念な所である。
「現実逃避は良くないぜ、高月君」
「……うっせぇ」
「さっきから其ればかりじゃないか。都合の悪い事は聞きたくないとする姿勢は実に人間らしくて面白くはあるが、話を逸らされるのは困ってしまうね」
普段通りの、一見可憐な笑みを浮かべた幽は、己を睨みつける高月にいっそう愉快そうに目を細め、こてんと首を傾けた。
「高月君はこの町のことをよく知っているだろう、夜に戦闘手段も持たずに出歩くのは自殺行為だぜ。現に私が通りがからなければ、君はトンカラトンに仲間にされていた所だ。それともそんなことも忘れてしまったのか? 嘆かわしいね、人間は忘れる生き物だがそれでも過去を記憶することは可能だというのに君は鶏程度の脳味噌しか持たないのかい?」
「……うるせぇよ。鶏じゃねぇし、大体、トンカラトンってのは確か奴の言うとおりにすれば害は無いはずだろ。昔会ったことだってあるけど、そん時は『トンカラトン』って言えば奴は去っていった。けど、さっきのあれは何だよ。返事させる気無かったぞあいつ」
可愛らしく笑いながら、しかし確実に嘲笑を含んで、そう言う彼女につい無駄と分かっていながらも高月は反論を唱えた。
最早ただの意地である。反論より寧ろ言い訳じみたそれは、つまるところ「だからあんな風に情けなく助けられる状態になったのも仕方が無い」と自分で言い聞かせているだけのものである事に、言い終わってから高月は気付いた。気付いてから、その格好の悪さに口を噤む。しかし目の前にいるのは実に性格の悪い彼女である。当然のごとく、見逃してくれるはずが無いのだ。
彼女の形のいい、桃色に薄く色づいた唇が、その可憐な容貌に似合わないチェシャ猫のような意地の悪い笑みを形作る。
「そうか、そうだねそれは実に的を得ている。なんせ高月君は全く、そう、思えばこの町にいたときから口だけは達者ながらも軟弱で臆病でつまるところビビリだったね! そんな君がトンカラトンに対抗できるはずが無かった、いやあ実に失礼、すっかり失念していたようだ。思い出は美化されるというが高月君を私は少々美化してしまったようでね! 私も所詮人間ということさ、すまないね高月く「うるせぇええええ!!」
幽が嬉々として言葉を連ねるのを、耐え切れず叫んで遮断した。顔から火が出そうなほど熱い。幽はそれがまた愉快だったらしく、いっそ女子にあるまじき爆笑を夜の道に響かせた。田舎の夜中の、静か過ぎるまでの静寂がいとも簡単に壊される。近所迷惑考えろ、と、茹蛸のように真っ赤になっているであろう己を自覚しつつ、高月は現実逃避のようにどうでもいい事を非難した。勿論心で、だが。
自身の迂闊な発言を心から後悔する。口は災いの元、とはよく言ったもので、全くもって先人の言葉は参考にすべきであった。
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