選択 中

 元々試薬の絶対量が少なかったこと、そして試薬を新たに生成する術が無かった事、そして、何より得られる結果が、一部の人間の命とは比べものにならない程魅力的だった事。

 それらいくつかの要因が重なった結果が、今回の事故そのものだ。

 勿論、成功率が極めて低く命の危機がある試験を、あたかも予防接種か何かと大差の無い安全な物だと嘘を吐き、大勢の人間を試験へ巻き込んだ行為は褒められる事では無い。

 だが、それ以上に問題だった事は、その実験が失敗した場合のリスクが、予想を遙かに上回る物だった事だ。

 実験によって命を落とした、または行方不明になった被験者の数は四十六人。

 その際に発生した異常現象に巻き込まれた研究員はその約二倍、内八割は命を落とすという痛ましい結果になった、しかしその結果二人の成功例が生まれ、現場を直接見ていない上層部の人間は、その事実に歓喜したのも事実だ。

 初めから失敗し、ある程度の犠牲を覚悟していた彼らは大勢の命には目もくれず、たった二人の成功例からなるべく多くの情報を得ようと躍起になった。

 どうやれば人の心を操ることが出来るのか、どのようにすれば望むだけで妄想を現実に引き出せるのか。

 どうやれば、神と等しい力を我が物に出来るのか。

 今後の科学の発展の為そんな大義名分の元、イントとカラは半狂乱のまま実験に巻き込まれた。

 カラの場合、逃げる事は簡単ではある。

 だが、望むだけで現実を書き変える彼女の力はあまりにも強大であり、ふとした拍子に大勢の人間の命を奪いかねない、そんな恐怖が彼女から能力を使う気力を奪っていた。

 だが……そんな日常は唐突に終わりを告げた。

 「あなたは、私を助ける為に私から意志と能力を奪い、自分の物にした。

 そして、奪い取った私の力を使い、この二人だけの世界、箱庭を作った」

 カラは洪水の如く押し寄せる記憶を受け止め、無理矢理にも納得しながらそう告げると、一面に広がる砂漠を見回し小さく念じる。

 刹那、見渡す限り広がっていた砂の景色は消え失せ、彼らが居た学校の一室の景色へと作り替えられた。

 灼熱の日差しや乾いた空気すら消え、快適をそのまま形にしたかのような温度に調整され、地面で血を流していた仲間の姿は幻の如く霧散した。

 「全てあなたが私の為にしてくれた事。

 でも、それだけでは上手くいかなかった、私は自分の記憶に怯え、この世界の中でも強く取り乱し、何度も自殺をしようとした……だから、今度はあなたは私から記憶を奪い、代わりにステイシスと言う名前をくれた」

 「……」

 彼女は短く息を吸い込むと、再度組み直される記憶を読み上げていく。

 「次に私を襲ったのは孤独だった。

 記憶が無い、仲間もあなた一人しか居ない。

 だからあなたは、私が孤独を感じない様に仲間を作ってくれた、四十六人の、あの時実験で命を落とした人と同じ名前の」

 隠す事は必要無いと考えていたカルヴェラは、小さく頷く。

 この世界に居た仲間は全て、実験に参加していた人間をイメージして作られた物だった。

 それは、彼なりの言い訳だったのかも知れない、実験に参加した人間は誰一人として死んでいない、皆が生き延び、自分たちと共にこの世界に居座っている。

 無理矢理にでもそう思う為の、彼なりの足掻き、それが箱庭に住まう仲間の正体だ。

 「私はあなたに感謝している。

 だけど、私はやらなくちゃいけないの」

 そう言い、状況を整理するためか、今まで黙っていたマキナの方を向き直ったカラに、カルヴェラは追いすがる。

 「待て! それは駄――!」

 だが、その言葉は半ばで封じられる。

 何故なら、当たり前の様にマキナの腕が伸び、そこから生えた鋭い刃物が彼の喉元へと突きつけられたからだ。

 「黙れ」

 感情すら殆ど感じられないマキナの一言に、カルヴェラは静かに後ずさるだけだ。

 先ほどまでなら良かったが、今の彼には記憶を操るくらいの力しか無く、他人の能力にある程度の免疫を持っているこの空間の人間にとって、彼の力は殆ど訳にたたない。

 「私の目的は世界を救う事だ。

 だから言っただろ? どんな手段を用いても、彼女を連れて帰ると」

 勝ちとばかりに口端を吊り上げる彼だが、次の瞬間に起きた出来事によりその表情は曇る。

 「世界は救うわ。でも、あなたにはついていかない」

 短い彼女の声、それに合わせ、マキナの腕が逆再生の映像を見ている様に変化し、次の瞬間にはただの人間の腕へと変わっていた。

 それは彼自身も意図していない出来事なのだろう。

 突然封じられた能力に驚愕するマキナに対し、更に言葉を投げるカラ。

 「私が作った穴のせいで、大勢の人が危険な目に遭っている。

 それは確かに事実、そして私が少し願うだけで、その穴を完全に塞ぐことが出来るのも事実。

 だけど、それだけじゃ全ての人間を救う事は出来ない」

 彼女が言った全ての人間、それは……

 「何を言ってるんだ君は――いや、まさか……」

 マキナはいち早く彼女の考えを読み取ったのだろう。

 目を見開き、あまりにも突飛なその考えを頭の中で反芻すると、予め隠し持っていたと思われる拳銃を腰から抜き、撃鉄を起こす。

 「それが無駄な事だって知ってるでしょ?」

 向けられた拳銃を眺め、スクリーン越しの映像としてそれを認識する様な表情と共に上挙を述べるカラ。

 事実、彼がどうして取り乱しているのかは不明だが、ここで彼が引き金を引いたところで一切の意味を成さないのが事実だ。

 だが、それでも彼は狙いをカラから外さない。

 「言っただろ、私はどんな手段でも使うと」

 「何が……?」

 一人状況が読めないカルヴェラはそう告げるが、問いの答えが提示するよりも早く言葉を繋ぐ。

 「あなたがやろうとしている事は、全てを無駄にすると言う意味でもあるのですよ?」

 「ええ、だからこそ全ての人間を救う事が出来る」

 もう答えは出ているのだろう。

 いつも何処か疲れて見えた彼女の表情に曇りは一切無く、ただ一つ信念の炎だけが燃えている。

 高温で燃える青い炎の様に揺るぎない意志を滾らせる彼女は、軽く念じた。

 「っ……!」

 それはやはり一瞬だ。

 始まりも無ければ終わりすら見えない程の刹那の瞬間、経過と呼ばれる物を完全に無視した動きでマキナの腕から拳銃が姿を消し、更には、慌てふためく彼自身もどこかへと姿を消す。

 「どういう事か説明してくれ」

 二人きりになった室内で、カルヴェラは口を開く。

 そんな彼の背後で虚空から椅子が生まれ、そこに座れとばかりに静かに鎮座する。

 現れたというよりも、カメラのピントを合わすかの如く当然の様子で姿を現した椅子を見て、カルヴェラは不満げな表情を浮かべた後、ぞんざいな素振りで腰掛ける。

 「私はあなたに助けられた。

 だからこそ、私はあなたに心から感謝している」

 同じ様、どこからともなく椅子を生み出すと腰掛けるカラ。

 昔話を読み上げる様に、何処か遠い世界の出来事を語るかの様子で紡がれる彼女の言葉に、カルヴェラは声を出すことも無く静かに反応する。

 「あなたが作ってくれたこの世界を私は愛しているのも事実。

 だけど、私は元居た世界を救わなくちゃいけない」

 「……俺も行く」

 何かを考えた後、カルヴェラは静かにそう告げるが、そっと示された彼女の掌に、彼は言葉を止めた。

 「いいえ、これは私がやらないといけない事なの」

 カルヴェラの力が空間の歪みを塞ぐ上で、何の訳にもたたない事は事実ではある。

 だが、そんな彼の意志を制してまでも彼女が一人に拘るのには理由があった。

 「それに、穴を塞ぐだけでは何の解決にもならない、だから私は元を絶つつもり」

 忘れがちな事実ではあるが、被害者は二人だけでは無い。

 実験に参加した残り四十六人の被験者も、そして実験が失敗すると知らされずに施設内に居た研究員もまた被害者だ。

 そして、実験そのものを計画し、事の発端を生み出したAPSそのものもまた被害者ではあり、世界を救う大義名分を無理矢理着せられたマキナですら被害者だ。

 だからこそ、彼女は決めていた。

 「私は全ての人間を救いたい。

 死んでしまった人たちも、道を誤った彼らも、そしてあなたも」

 「……」

 まだ彼女が何を言いたいのか理解出来ないカルヴェラは、一人言葉を無くす。

 「全てを救う方法が一つだけある。

 それは――」

 物事は逆算していく事で全体像が見えてくる。

 全ての元凶である計画が実行に移されたのは、試薬がそこに存在したからだ。

 試薬の元になったその物質が発見されたのは、もう説明するまでも無い……

 「――隕石を無かった事にすれば、誰も実験なんて始めなかった。

 実験が無ければ、人が死ぬことも無い、私がこの世界に閉じこもり、世界を壊し。

 そして、マキナと言う存在が作られる事も無かった筈」

 カラの一言を聞き、やっと彼女が何をしようとして居るのかは理解出来た。

 「待て……過去を書き換える気か?」

 その問いかけに、カラは静かに頷く。

 始まりと呼ばれる根があれば、その先には無限の可能性が枝分かれしている。

 だからこそ、一つの問題を潰したところで、全ての問題を解決出来るわけでは無い。

 だが……木の根を抜く様に、事の発端となった過去そのものを書き換えれば、未来はいくらでも変えられる。

 カラの力によって世界が滅ぶのなら、カラが力を使わない過去を生み出せばいい。

 カラが力を使わない過去を作るには、実験そのものが無ければ良い。

 そして、実験そのものを無かった事にするのなら、全ての始まりとなった隕石が存在しない過去を作れば良い。

 それなら、誰も実験をしようとは考えず、飽き飽きする様な当たり前の日常がずっと続く筈、つまりそれは、彼女自身も望んだ状況なのは間違いが無い。

 勿論、実験そのものが無くなることはAPSにとって最悪な事態ではあり、マキナが強く反対したのも納得ではあるが、カルヴェラにとってその事はさしたる問題では無かった。

 「それはやってはいけない」

 だが、何一つとして問題が無いわけでは無い。

 過去が未来に与える影響は甚大だ。

 たった一便電車に乗り遅れただけで、命の危機を回避出来る場合がある様に。

 変えたが故に、最悪の事態を招く可能性だって十二分にある。

 過去を変えた影響が、どの様な結果になるかなど誰も知ることが出来ないのだ。

 遠く離れた的を狙う際、照準が一ミリズレただけで大きく的を逸れる様に、過去を変える事は、予想の付かない未来……即ちバタフライエフェクトを誘発するのだ。

 勿論、過去を変えたところで今以上に最悪の事態には至らないだろう、大勢の人間が死に今まさに世界中が滅ぶかも知れない、そんな最悪な状況など、起きるわけが無い。

 だからこそ、本来ならカルヴェラもカラの提案を素直に受け入れる筈なのだが、一つだけ確実な問題点に、カルヴェラは気がついていた。

 「あんたはどうなる?」

 過去を変えると言う事によって、間違い無くカルヴェラは今の記憶を失い、能力の無いただの研究者としての人生を歩む筈だ。

 実験に参加した人間も、それまで通り続いていた日常の元留った筈の人生を歩み直す筈だ。

 殆どの人間にとってマイナスでは無い過去改変だが、一人、その罰を背負う存在が生まれる、即ち。

 「過去を変えた場合、俺はこの場所に居た事すら忘れ、いつも通りの日常を続けるだろうよ……だが、あんたはどうなる?」

 第三者として過去改変に関わる場合は問題では無い。

 変わった世界を何の疑問も持たずに受け入れたら良いだけだからだ、だが過去を変えた本人はそう簡単では無い。

 一人改変された世界から取り残され、彼女は一人変わった世界から姿を消さなくてはならない。

 「……それでも――」

 己という存在を全ての人間が忘れると言うことは、死にも等しい事であり。

 一人終わることの無い孤独に飲まれることは、死よりも辛い、まさに生き地獄の様な物だ。

 しかし、彼女は短い息継ぎの後、迷いの無い声で告げた。

 「私は過去に行く」

 「駄目だ!」

 とっさに伸ばされたカルヴェラの右腕。

 それはカラが先ほどまで居た場所を通り抜け、空を掻いていた。

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