疑心 上
その日の昼下がり、ステイシスは校舎の片隅に放置されていたバケツを手に取って中身を確認する。
何かする為に用意された後忘れ去られた物なのか、それとも単に風に運ばれて来たもの物なのか。
少なくとも持ち主を無くして放置されたそれの中には雨水が溜まり、水面にステイシスの何処か疲れた様な表情を映す。
このまま放っておいても良いのだろうが、こういった水にはボウフラが湧きやすく、そのまま放置していると傍迷惑な蚊の大量発生に繋がる為、彼女はこのバケツを掴むと校舎横の茂みに向けてその中身をひと思いに撒く。
明るい日差しの元、細かな宝石の様に散りばめられた水は舞い、重力に従って素直に地面へ吸い込まれる。
だが、その瞬間世界が停滞し、宙を舞っていた水滴はガラス玉の様に美しい球体のまま宙へと縫いとめられていた。
空気の動きを止めたのか、音すら聞こえなくなり腕に付けていた時計の秒針すら、その下にある歯車の動きすら止まる。
それは、間違い様も無く彼女の力の影響だった。
いつからか一瞬の中にも永遠があると気が付いた。
なんてことの無い一瞬、彼女は自分の力を行使するだけでいとも簡単に現状を引き起こす事が出来る。
呼吸するよりも容易に行使される力の下、世界は停滞し一瞬の中の永遠を自分に見せてくれた。
『時間停止』それが彼女が何時の間にか手に入れていた力だった。
だが、時折こうして力を行使するとは言え、彼女はこの力使うと妙な事を考えてしまう。
「……世界から」
時間が止まった世界、特別意識しなければ、彼女は世界で流れる全ての時間を止め、この世界の全てを自分の物とする事が出来た。
一瞬の中に隠された永遠を摘み上げ、永遠に続く一瞬の中で彼女は神にも等しい存在になる事が可能だった。
だが、こうして全てが停滞した世界に居ると、妙にネガティブな事を考えてしまう。
「忘れられたみたい」
自分以外の全ての物が停滞した中、彼女はただ一人世界に取り残された。
時間と言う概念が止まった世界で、自分一人だけが時間を貪ってる。
何にしたって寿命なんて物の無い彼女にとって、これは大した問題では無いのだが、それでも自分一人だけが活動を許された世界で過ごすのは、あまり気持ちの良い物では無かった。
ステイシスは力を解除し、再び動き出した世界で水が跳ねて乾いた地面に吸い込まれるのを見てから溜息を吐くと、視線の隅の方にあった体育館を見つめて足を進める。
「……」
元々物静かな彼女と、何を考えてるか判りにくく妙にアクティブなガーフィンとは特別に仲が良いわけでは無かった。
その為あまり会話をすることも無い仲ではあったのだが、それでも彼女の事が嫌いだった訳では無く、どうやって話をしたらいいか判らないだけでガーフィンの事は正直好きだった。
そんな彼女は今、妙な疑いを掛けられ体育館の倉庫に閉じ込められている。
空間を飛び回る事が可能な彼女にとって、その手の拘束は飾りでしかないのだが、そんな飾りを無理矢理付けられている様を見て、あまり良い気持ちはしない。
考えるだけで憂鬱になってゆく。
色々と不明な点が多いこの世界だが、それだからこそ皆が協力し合い、争いをすることも無く平和な毎日があったのだ。
だが、そんな日常は不意に現れたエニグマの存在と、それに付随して姿を現したマキナの存在の発言によって崩された。
世界には明確な悪意を持ち、能力を行使する存在が居る。
自身達が持っている力、それはあったところで不便する事は無いが、無ければ無いでも不便をする訳では無い物が殆である。
だが、ある一定のモラルを無くしてしまえば、普通の人間は持ち合わせていない能力の殆どが一気に実用性に長けた道具となる。
武器と言う概念すら必要無い世界において、銃器の存在は飾りでしか無い。
だが、もし仮にその銃器を片手に誰かを襲い、他人の物を略奪する事で私利私欲を満たす者が現れたら?
銃器を邪魔な相手に向け、自身の主張を無理矢理通す輩が現れたら?
『他人を傷つけない』そんな一定のモラルが存在する世界なら武器は何の役にも立たない、だがそのモラルを捨ててしまえば、武器の類程有用な道具は存在しないのだ。
それと同じく、何かを成し遂げる為に誰かを傷つける手段としての能力なら、これ程便利な物は無いのも道理だ。
考えるだけで吐き気がした。
マキナが言った言葉は確かに事実だったが、その言葉を否定できなかった自分が。
そして何より、その考えの元倉庫に閉じ込められたガーフィンを庇えなかった自分に吐き気がした
そんな彼女に出来る事と言えば唯一つ、彼女の濡れ衣が外れるその時がいち早く来るのをただ祈る事しか出来ないのだ。
いつも明るくふるまうガーフィン、彼女が今回の犯人である可能性は十二分にあったが、それでもステイシスは彼女が犯人では無いと信じていた。
だからこそ、彼女の濡れ衣が解けるその時まで彼女の傍に居て他愛の無い会話でもしよう、そう彼女は考えていた。
丁度そんな時だった、ガーフィンが不意に倉庫から姿を消し、代わりに倉庫の中から複数のエニグマが姿を現したのは――
「ガーフィンが逃げた……」
何の前触れも無く不意に漏れたクーナの一言、彼が体育館に足を踏み入れた直後呟かれたその一言に答えたのは、その場に居たイントでもマキナでも無く。
ましてや倉庫の中に閉じ込められていたガーフィンでも無く、倉庫の扉を突き破り、真っ白なその体を露わにした4体の異形だった。
姿は犬に良く似ている、大きさも大型犬のそれと大差の無い物だが、赤々と光る双眸とクーナの能力の網に引っ掛からなかった事から、それが唯の野犬では無い事を証明していた、間違い様が無くエニグマだ。
「イント!」
可能性としては0では無い出来事ではあったが、それでも実際に目の前でこの現象が起きると驚きを隠せないのは事実だ。
ガーフィンが居る筈の部屋の中から彼女の代わりにエニグマが姿を現し、その直前にガーフィンは何処かへ姿を消した。
先ほどのクーナの一言を交えてこの現状を鑑みると、そう考えるのが妥当ではあるのだが、イントの名前をクーナが叫んだのには別の理由があった。
先ほどガーフィンと扉越しに会話をしていたイントは、今現在宙を舞っていたのだ。
勿論、その現状は彼自身が望んだものでは無く、宙を舞い始めたその瞬間にはイントは意識を失っているだろう。
その現状を生み出したのは、やはりエニグマが一枚噛んでいた。
エニグマが扉を破壊したその瞬間、運の悪い事にイントはその扉に背中を預けていたのだ。
その為力任せに内側から開かれた扉に背中を強く打ち付け、まるで車に跳ねられたかの様に体育館内を舞っていたのだ。
床はフローリングであり、下手な地面よりは多少衝撃を和らげるかも知れないが、それでも受け身すら取らずに体を打ち付けて良い場所では無く、彼の体は僅かな弧を描いて床との距離を縮めていく、だがその瞬間疾風が室内に駆け抜け、イントの姿が消えた。
「……っと!」
声が響いたのは、体育館の壁の傍だった。
そこでマキナはイントを抱きかかえる姿勢のまま、膝と腰を曲げた姿勢で呟くと、慎重な動作でイントを床に寝かせ、脈と呼吸があるかを簡単にチェックする。
その様子から彼が宙を舞うイントを受け止め、地面に体を打ち付けるのを回避したのだと判るが、事が起きた時にはクーナの直ぐ傍に居た彼が、遠く離れていたイントを受け止めたとはにわかには信じられなかった。
だが、それが事実だと言う事を、彼の足もとから伸びた二本の線が証明していた。
「何処のスーパーヒーローだよ……」
クーナがそう呟くのも当然だった。
何故なら、エニグマが壁を突き破った刹那の瞬間に機転を利かせたマキナは、地面を蹴り宙を舞うイントを抱きとめると直ぐに足を付き出し、フローリング床で履いてた靴の底を溶かしながら体を制止させたのである。
床に付いた二本の線はその時の物であり、体育館の中央部分から室内を二分する様に引かれたその線は、摩擦熱から来る焦げ臭さを未だに発している。
クーナのすぐ傍、マキナが床を蹴った場所の板は大きく抉れ、その下に広がるコンクリートと鉄骨で出来た基礎を覗かせていた。
「彼の怪我はそれほど酷く無い様ですが、頭をぶつけたと思いますので下手に動かさない方がよさそうですね」
「その通り、頭蓋骨を骨折してる……でも幸い脳の出血は無いね」
「大丈夫でしょうか……?」
「どう考えても軽傷では無いけど命には別状は無いし、ここにはミグが居るから今はひとまず大丈夫、それよりも今は――」
自身の能力で軽く診断をしたのだろう、彼の言葉通りイントは大怪我を負ってはいたが、幸いな事に対処を間違えなければ命にかかわる様な自体では無かった。
だが、もう一つの問題を忘れてはいけない、クーナは視線を動かすと、部屋の中にゆっくりと侵入しつつあるエニグマを鋭い視線で睨みつける。
「問題は奴らだよマキナ」
「判ってます」
先に動いたのはエニグマだった。
4匹の内の一体が床を蹴ると、弾丸の様な速度でマキナへと飛びかかり、残された個体も各々別の方向へと散開する。
だが、マキナは殊更驚く様子も無く腰を捻ると、残像すら残さぬ速度で蹴りを放つ。
動きとしては素人のそれと全く同じなのだが、繰り出された速度とその一撃に込められた怪力故に、テクニックの欠片も無いそれは必殺の一撃と化けていた。
マキナの喉元に食らいつこうと飛びかかるエニグマの顔面は、風船が割れる様な音と共に消し飛び、霧状になった血飛沫が舞う。
だがそんな凄惨な光景が広げられたのも一瞬の事、瞬きするほど一瞬の間に部屋を染めた赤い血液は何処かへ消え、頭部を失ったエニグマの死骸すら消えて無くなっていた。
「とは言っても……数が多いのは問題ですね」
足を曲げて姿勢を元に戻すマキナは、小さく焦りを露わにした。
部屋に残されたエニグマが全て自分を狙えば問題は無かったのだが、残されたエニグマの内一体が、クーナに向けて駆けだしていたからだ。
「……!」
マキナはクーナの元へ駆け寄ろうとするのだが、その進路を別のエニグマに遮られる。
「邪魔だ!」
クーナとの対角線上に姿を現したエニグマに対して、マキナは左拳を叩きつける事で道を開けるのだが、その一瞬が大きかった。
「あ……れ……!?」
壁を蹴り自分へと飛びかかるエニグマの牙を見て、クーナはあっけにとられた表情で小さく漏らす。
今現在彼は武器の類を持っておらず、仮に持っていた処でこの状況を打破出来る訳では無い、かといって流石のマキナでも助ける事が出来無い位置にまで相手は迫っていた。
後数メートル、後数十センチ……
アドレナリンが過剰分泌され、スローモーションで流れる視線の中で迫っていたエニグマの姿が、不意に消えた。
「ニャァァァァァホォォォ!!!!!」
空間を突き破って現れたオレンジ色のオフロードバイクのエンジン音、そしてその上に跨る人物の声に反応したエニグマの顔面に、そのバイクの車輪はめり込むとクーナの直ぐ傍から吹き飛ばされた。
「ガーフィン!!」
「ヒーローは遅れて現れる猫だニャア」
「もう意味が判んないよ!」
空間を切り裂き、不意に虚空から飛び出したバイクにはガーフィンが跨っていた。
彼女は相変わらずの能天気さで笑いつつ、オフロードバイク特有の柔らかなサスペンションを生かして着地……したかに見えたのだが、そのままバランスを崩して転倒する。
「痛てて……大丈夫? っていうかイント!?」
「大丈夫、落ち着いてガーフィン、彼は命に別状は無いから……」
転んだ際に打ち付けたのだろう、ずきずきと痛む腰を押さえつつもエニグマが消えた事と床に倒れたままのイントの容体を確認し、彼女は立ち上がる。
今現在、クーナに降りかかった危機的状況を救ったのはガーフィンだ。
だが、それ故に問題が発生する、それは……
「犯人が自ら現れるとはどういう真似でしょうか?」
緊張感に欠けた会話を交わす二人に、マキナは辺りを見回すと静かに釘を刺す。
「クーナさん、あなた言いましたよね? ガーフィンが消えたと、そしてその直後、エニグマが現れた。
これが何を意味してるか判りますね?」
マキナはあくまでも冷静だ、だからこそその言葉は重い。
「ちょとまってよ! エニグマが突然襲ってきたから私は逃げた――」
「いいや、あなたはエニグマがあの時あの場所に現れるのを知っていた筈だ!」
そう言うマキナに対して返されたガーフィンの言葉は、予想外な物だった。
「マキナ! 後ろ!」
一同の会話の腰を折る様に響いたクーナの言葉の意味悟ったマキナは、びくりと肩を揺らすと振り返る。
そこにあったのは先ほど襲い掛かって来たエニグマの牙だった。
不意に現れたガーフィンと、その後の気の抜けたやり取りのせいで完全に油断していた。
この部屋に現れたエニグマは初めから4体居たのだ、その1体の存在を忘れ、ガーフィンが退治した1体が最後の個体だと勘違いしていたのだ。
「……くっ!」
いつもの落ち着いた様子とは違い、咄嗟の事に息を飲むマキナ。
彼の使う『肉体強化』の能力がどれほどなのかは不明だが、その慌てぶりからして少なくとも、エニグマの一撃を受けても無傷と言うのは不可能らしい。
そして、ここからマキナが反撃するにしても、相手は既に攻撃動作に移っている。
多少の武術を嗜んでいるのなら、自身の能力と併用する形でこの危機を脱する事が可能かも知れないが、マキナの動きはあくまでも素人のそれと同じだ。
無駄を極限まで削り、最低限の呼び動作で繰り出されるそれとは違い、マキナの攻撃には無駄が多いく、必要となる呼び動作も目立つ、幾ら肉体強化をしていようが相手の動きに間に合う訳が無かった。
だがその瞬間、エニグマの動きが止まる。
まるで良く出来た剥製を見ている様な、もしくは再生中の映像を不意に一時停止した様に、空中で身を捻っていたエニグマは、鋭い牙も、長い体毛も、そして勢い良く開かれた口から舞う唾液の一滴すらも固定されていた。
その現象には見覚えがあった、それは……
「……あ、あの……大丈夫ですか?」
そして遅れて響く間の抜けた声、ステイシスの物だ。
「危ない様でしたので……その、時間を止めておきました」
何か強力な力をぶつけた訳ではない、寧ろその逆の力だ。
有機物無機物全てを問わず、この次元に存在する全ての物が影響を受ける強大な力『時』、その力から任意の物を守る能力、それがステイシスの持つ力の詳細だった。
ステイシスは体育館内に足を踏み入れるや否や、マキナの身に危機が迫っている事に気が付き、逸早く能力を行使、襲い掛かったエニグマの時間を止めたのだ。
「これが『時間停止』……」
感心しつつも、力任せに振りかぶった拳で時間から切り離されたエニグマを殴りつけるマキナ。
その瞬間体育館内に血しぶきが舞い、そして直ぐに何も無かったかの様にエニグマごと消えて無くなる。
「あの……一体何が……」
「エニグマだよステイシス」
そう言うと、クーナはステイシスが自分の元へ来る様に手招きをする。
「ええ、エニグマです、奴らが再び現れましたよ、いいえ、あなたが招いたのですね? ガーフィンさん」
その時、マキナはそう紡ぐと、ステイシスを睨みつける。
さっきは生き残りのエニグマのせいでやり取りが途切れてしまったが、だからと言ってガーフィンに降りかかった疑惑が晴れた訳では無い。
寧ろ、ガーフィンの不意な登場により生まれた隙によってマキナはエニグマの一撃を受けそうになったのだ。
そうなってもまだガーフィンが今回の件と無関係だと言う人間は居ないだろう。
「よっぽどあなたは、私を処分したい様ですね。
この部屋に現れたエニグマは4体、その内3体は私を襲い、それ以外の1体は都合よく、まるで計った様なタイミングで現れたあなたに倒された、まるで全てが仕込まれた様に……ええ、仕込んだのでしょう。
全てはあなたの計算の内だったのでしょう、不意にあなたがこの場に現れたら皆が騒然となります、勿論私自身もね。
結果私はその隙を狙われ、命を落としかけた」
瞬時に考えたにしては随分と出来すぎた話ではあるが、その仮定に破綻は無かった。
だが、納得がいかないガーフィンは口を開いて反論する。
「だからさっき言ったでしょ、倉庫の中に突然エニグマが現れたから私は逃げただけだって!」
「だったら何故早く戻って来なかったのですか? あなたの力に距離は関係ないのですよね?」
「それは……」
思わず言い淀んでしまったガーフィンに、マキナが止めの一言を刺そうとした刹那の瞬間だった、その声が響いたのは。
「確かに計画の内の出来事だ、エニグマが現れたのも、ガーフィンが消えたのも、あんたが狙われたのも。
そしてクーナが無事だったのも、まぁ一つ想定外があるとしたら、イントが怪我しちまった事位だな」
その声は、彼らの頭上から降り注ぐ様に響いていた。
「だが1つ勘違いしてねぇかマキナ、これはガーフィンの悪巧みじゃないってことだ。
なんせ、この計画を仕込んだのは全て俺だからな」
今日の天気を言い当てるほど気軽に、だが未来を全て知ってるかの様に自信満々に紡がれる告白、それは、体育館の天井付近に浮いたまま、マキナに向けて銃を構えるカルヴェラの口から紡がれていた。
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